ロズウェルにUFOの破片を探しに行った件

山崎ももんが

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Ⅳ サンタフェ

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ワイパーの修理を終えたグレイハウンドがサンタフェに到着した時刻は午後十一時を過ぎていた。この場所でバスを降りた乗客は私一人だった。グレイハウンドの二つの赤いテールランプが暗闇に吸い込まれながら、ゆっくりと消えて行く。道路には街灯が無く、照明が消された小さなバスターミナルで唯一点灯している屋根付きベンチの蛍光灯だけが光を発していた。

予定では午後八時頃までにサンタフェ市街に出てホテルやモーテルを探す筈だったけれど、大雪でワイパーが故障するというアクシデントに見舞われ、更にこの暗転した舞台に一人取り残された状態では手も足も出なかった。

少し眼が慣れてくると、遠くに微かな光源を見つけた。モーテルの看板かもしれないと思った。ダウンジャケットの右ポケットに手を入れると硬い物に触れた。ミズサワから貰った星型のキーホルダーだった。真ん中にボタンが付いていたので押してみると、ゆっくりと全体が光り始める。リュックサックから水が半分残ったペットボトルを取り出し、近付けると光量が増幅されてちょっとした懐中電灯代わりになった。足元を照らしながらゆっくりと歩を進める。自分がホラー映画のオープニングで襲われて殺されてしまう脇役になった気がして、一刻も早くメインの登場人物達と合流しなければと、呼吸が粗く雑になっていくのを感じた。

* * *

光源はモーテルではなく、キンコーズという二十四時間営業のコピーやパソコンを使って作業ができるワーキングスペースを備えた店の看板だった。所謂ビジネスコンビニと称されて、東京でも見かけたことがあった。ドアを開けると、受付カウンターの金髪の中年女性と眼が合う。彼女は微笑みながら「ウエルカム」と小さな声で言った。

「コピーかしら、ワーキングスペースを使いたいのかしら」

「いいえ、グレイハウンドがアクシデントで遅れて、この時間にサンタフェに着いたんです。これから宿泊できる処を探さなければならないのですが、この近くでモーテルはありませんか」

ちょっと待ってて、と彼女は店の隅にあるドリンクマシンに行き、紙のコップにコーヒーを注いで手渡してくれた。店の窓ガラスに映った自分の顔の片方の鼻の穴から透明な液体が伸びて光を反射していたので、慌てて袖口で拭う。外は寒かったでしょ、サンタフェは寒いわよね、と彼女は小さな声で囁きながら店内を見回した。ワーキングスペースにはパソコンが十台ほど並んでいて、テンガロンハットの男と初老の女性の二人がそれぞれモニターに向かって作業をしている。

デニス、と彼女は男に向かって呼び掛けた。テンガロンハットの若い男が「ハロー」と言いながらゆっくりカウンターに近づいてきた。デニスと呼ばれた男が受付の女性と何か話を始めたけれど、会話のスピードが速くて聞き取ることができない。受付の女性の胸にネームプレートが留められている。ヴィクトリアという名前なのだ。彼女はカウンターの引き出しから小さなメモ用紙を取り出しデニスに渡した。彼はその紙にペンを走らせる。紙には“HERE”と描かれた丸印、店の前の大通りと、二つのポイントの星印が配置された簡単な地図が記されていた。

「このあたりには二つのモーテルがあるんだけど、一つ目の近い方は良いモーテルで結構綺麗だけど値段が高い。もう一つの遠い方はチープだけど値段は安い。方向は一緒だけど近い方のモーテルでも歩いて十分ほどかかるけど、大丈夫かい」

「大丈夫です、行ってみます、サンキュー」

私はデニスに握手を求めた。アメリカに来て以来、自分から握手を求めたのは初めてだった。ヴィクトリアにコーヒーのお礼を言った後、店を出て地図に従って大通りを左手に進んでみた。下車したグレイハウンドのターミナルの前を通り過ぎる。歩道の左端の所々に雪が溜まっていた。今日の昼間はこの街にも雪が降っていたらしい。道が凍っている箇所が続いている。日中は陽が当たらない場所なのだ。転んでしまわないようにゆっくりと大きく足を広げ、かかとの着地点を選んで進んでいるので、都市を破壊しながら進む大怪獣になった気分だった。怪獣だって足元の住宅や電信柱を踏んだら痛いだろう。足の裏が余程硬い設定なのか、そういった模写のある作品は観たことがないと思った。地下鉄の駅の周辺だったら陥没して落とし穴になり、もしかしたら怪獣を捕獲する罠として使えるかもしれない。

* * *

時間は既に零時を過ぎていた。二十分近く歩いたと思うけれど、モーテルらしき建物は見つからなかった。やがて周りの空気が白く変化して私の身体を包み始めたので、霧が発生しているのだと分かる。今度は暗転した舞台に誤って大量のスモークが焚かれたようで、舞台袖のスタッフに両腕を広げて抗議したくなった。やがてキーホルダーとペットボトルの明かりが霧に反射して進行方向の視界が白一色に覆われてしまった。このままでは方向感覚がなくなり前に進むこともできなくなってしまう。最早キンコーズで店員のヴィクトリアにタクシーの手配を頼むしか手段が思い付かなかった。私は店に引き返すことにした。

結局店に戻れたのは午前一時近くになっていた。店内にデニスの姿は無い。ヴィクトリアが両目を丸くして私を見て、両手を大きく広げて「ワッツハプン」と言った。大きく見開かれたその青い瞳がビー玉に見えて、今にも転げ落ちそうだった。霧が濃くなってモーテルまで進めないのでタクシーを呼んでもらえないかと彼女に伝えていると、背後から女性の声がした。

「ジャパニーズガール」

振り向いてイエス、と答えると赤をベースに黄色や緑色の装飾を編み込んだ、中南米の民族衣装を連想させるセーターが眼に飛び込んできた。恐らく年齢は五十歳前後と思われる金髪の細身の女性が立っていて、手足はまるでセーターから木の枝が生えているように見えた。

「今夜宿泊するところを探しているのかしら」

再びイエス、と答えると彼女は笑顔を作って言った。

「じゃあ、今夜は私の家に泊まりなさい。私はポーラ。“ただ”のポーラ」

彼女の車の助手席に座ると、運転席との間から薄茶色の犬の頭部が現れた。後部座席で主人の帰りをずっと待っていたのだ。グレイハウンドよ、と彼女が教えてくれた。

「私はモモカです。ええと、ミス、いや、ミセス、ポーラ」

「ああ、“ただ”のポーラよ。ミスでもミセスでもない。何て言うか、私は一人の人間だもの。でも、混乱するかもしれないわね。ミスでいいわ」

車を走らせながら彼女は続けて言った。

「何処へ行く予定なの」

「ロズウェルです」

「ああ、ええと、あの街はエイリアンで観光地化されているだけで何もないわよ。それよりもメンフィスのエルヴィスの家をお勧めするわ」

ロズウェルに向かう理由は訊かれなかったけれど、何かを見つけなければならない、という想い以外は何も無かったのだ。何れにせよ詳しく説明する英語力を持ち合わせていなかった。

「私の家に泊まるのにいくつかお願いがあるんだけれど、いいかしら」

ミス・ポーラはハンドルをさばきながら、この犬の名前がマギーということ、もう一頭同じ種類の黒い色の犬を飼っており、その犬の名前がチョコレートということ、何日宿泊しても構わないけれど、毎日必ず二頭の散歩をしてあげて欲しいと言った。それからエネルギー代として一日十ドル貰ってもいいかしら、と申し訳なさそうに伝えてきたので、私は「ノー、プロブレム」と大袈裟に微笑みながら言った。

* * *

ミス・ポーラの家の赤いドアを開けると、おそらく三十畳ほどはあると思われるリビングが広がっていた。二階が無い分、天井の高い吹き抜けの空間になっている。黒い大きな犬が尻尾を振りながら小走りに近づいてきた。彼女は黒い犬にキスをして、私達二人の間で待機していたマギーの手と足を、玄関の隅に置いてある水の入った洗面器の中に沈んでいたタオルを取り出し、絞ってから拭いた。二頭の犬はじゃれ合いながらリビングの奥から二番目の開いているドアの部屋に消えていった。あなたも靴を脱いでね、といくつかの靴が並べられている小さなカーペットを指差した。生木を使用したフローリングの為、靴のまま歩くと床を傷つけてしまうのだろう。漆喰で塗られた白い壁に触れると、微細な束ねられた針のブラシで擦られた刺激を指先に感じた。

リビングには横壁に沿って四つのドアがあった。リビング奥のキッチンには飲水用のウォーターサーバーが鎮座している。ミス・ポーラが各ドアを開けて説明を始めた。一番奥のドアを開けるとトイレとバスルーム、奥から二番目は彼女と犬たちの寝室だった。三番目のドアは、そこは開けないでね、と彼女は人差し指を立てながら言った。

最後に玄関に一番近いドアを開くと、赤いカーペットが一面に敷かれた部屋だった。音楽室だというその空間には、アップライトのピアノが置かれていた。他には様々なパーカッション類が雑多に置かれた棚、一方の壁にアコースティックギターが二本飾られている。もう一方の壁一面にアナログ盤のレコードが隙間なく収納されている大きな棚があった。数百枚、もしかしたら千枚を超えているかもしれない。その棚の足元には大量のCDが乱雑に積まれて小さな山を形成していた。

「私、ミドルスクールの音楽教師でね。さっきは、キンコーズで生徒に配る課題を作っていたのよ」

ピアノの天板や椅子の上にそれぞれ数枚のCDが積まれていて、その中の一枚に眼が留まった。クリムトの絵画をモチーフにイラストを描いたと想起させる、赤いジャケットデザイン。「それはマルーン5のファーストアルバムね」と彼女はそのプラスティックケースを手に取る。昔サキが貸してくれた十数枚のCDの中の一枚だった。ミス・ポーラは首を左右に振りながらそのアルバムに収録されている『サンデー・モーニング』のメロディーを歌い始め、そのまま小さく踊りながらリビングに捌けていった。

暫くの間、棚に並んだレコードのタイトルを眺めていると、あなたにはこの部屋に泊まってもらうからベッドを作らなくちゃね、とミス・ポーラが戻ってきて言った。リビングの隅にあったリクライニングソファを二人で音楽室に運び込む。彼女はソファを持ち上げる前に、両手に唾を吐くジェスチャーをした。テレビの再放送で観た昭和のドラマに登場する中年の男以外に、現実にそんなことをする人を見たのは初めてだった。音楽室の中央にソファを配置して背凭せもたれの部分を倒し、シーツと掛け布団をセットすると簡易的なベッドになった。

* * *

ミス・ポーラの家に宿泊してから三日が経った。朝七時に彼女が学校に出かけるので、それに合わせ六時に起床する。洗顔、歯磨き、犬に朝食を与え、彼女を見送ってからリビングのソファでテレビを観たり、本を読んだりして午前中を過ごす。この三日間の朝食と昼食はミス・ポーラが用意してくれたキッチンにストックしてあるシリアルで済ませていた。

午後はチョコレートとマギーを連れて散歩に行く。犬の世話は姉夫婦がチワワを飼っていたので、何度か経験した程度だったけれど、二頭とも初日から私に懐いてくれた。日本語で注意したり命令しても通じたので何だか不思議に思える。首の下からマッサージを始め、私を無害な対象だと認めてくれると仰向けになり無防備に腹を向けた。私が両手の指を鉤爪に立て、優しく腹を掻いてやると眼を閉じたまま、口の中で泡が沸き上がる音を出して喜びの声を上げた。チョコレートにマッサージをすると、マギーは横で大人しく順番を待っている。マギーのマッサージを始めると、チョコレートは全然足りないとばかりに舌を垂らし、早い呼吸で訴えながら私の座るソファの周りを尻尾を振りながら回り始めるのだった。

二頭を満足させると、リードを結んで近所を散歩する。サンタフェの日差しは強いからと、彼女が貸してくれたテンガロンハットを被って家を出る。ミス・ポーラの家は外壁を赤茶色の土壁で覆われていて、所謂サンタフェ・スタイルと呼ばれるものだった。建物の角が丸く施工されていて、まるで東京ディズニーランドのウエスタンランドのセットに見える。建物の周りには荒野と家に面した道路以外は何も無い、と言うよりも隣の家までの距離が三十メートル以上は離れているので、そう感じてしまうのだろう。

散歩のコースは決まっているらしく、勝手にチョコレートとマギーが先導して歩いてくれるので逆に私が散歩に連れ出されている気分になった。この三日間で近隣住民に会ったのは一度だけだった。二人の子供を連れた夫婦で、すれ違う直前に四人からハロー、と言われたので慌てて「ハロー、ハロー、ハロー、ハロー」と返事を四回繰り返してしまい、彼らに笑われてしまった。時折吹く柔らかな乾燥した風に包まれる。グレイハウンドのトラブルがなければミス・ポーラに出会うことも、ここで二頭の犬を連れて散歩をすることもなかったのだ。少し冷たい空気を思いきり吸い込み、味わい、ゆっくりと吐いた。空気が少し甘い味がしたのは、道端の所々に咲いている小さな白い花のせいかもしれない。

* * *

夕方近くなるとミス・ポーラが帰宅して私達の夕食を作る。毎日同じスープとパンだけの食事だった。スープは鶏出汁で野菜を煮込んだだけのシンプルなもので、痩せ過ぎとも感じる彼女の体型の理由が分かった気がした。お陰で私の体重も二、三キロは減ったかもしれない。以前より身体が軽くなった気がしていた。その夜、リビングのソファで懸命に英字の本を読んでいるとコーヒーカップを二つ持ったミス・ポーラが隣に座った。足もとで伏していたマギーが少し反応して彼女の方を向いたけれど、また頭を元の位置に戻して動かなくなった。

「話しておかなければならないことがあるのだけれど」

イエス、と答えると彼女は何処から話せば良いのか考えている様子で天井を少しの間見つめ、やがて話を始めた。

「私、二年前まで結婚していたのよ。三年間続いたかな。で、彼ね、バイオレントなところがあって、上手く行かなくなって。そこの部屋は彼の寝室だったの。今は物置に使っているわ」

彼女は開けていなかったドアを指差した後、言葉に合わせて両手を空中で上下左右に動かしながら話を続けた。

「彼、今でもたまにこの家に現れて、色々物色して、壊していくのよ。この前は泊まっていた私の女友達と言い争いになってね、警察を呼んだり、大変だったのよ」

私は彼女の動作に合わせて相槌を打つことしかできなかった。

「でね、もし、私が留守の間に彼が現れたら、日本から来たホームステイナーだと言って。モモカは学生に見えるから、きっと暴力を振るわれることはないわ。彼、口の周りに髭を生やしているからね」

私は「オーケー、オーケー、ノー、プロブレム」と言って笑顔を作ったけれど、血の流れが速くなって顔の色が赤く染まっていくのを感じた。彼女はそんな私の様子を見て「コーヒーを飲んで」と少し笑った。

「もう、結婚とか、男とか、女とかどうでもいいわ、私は“ただ”のポーラ。オンリー・ポーラ。今はね、もう“周波数”の合う人としか付き合わないと決めたの。それから誰でも泊めるわけじゃないのよ。あなたは波長が似てるかな、と思って。緑色のオーラが出てたのよ。ああ、マギーもチョコレートも彼のことが嫌いだから、よく吠えるのよ。二頭とも、あなたをガードしてくれるわ」

緑色のオーラがどういった意味を持つのか分からなかったけれど、もしこの赤茶色の家や柔らかな漆喰のリビングの景色を描いた絵画があって、そこに緑色の服を着た人物を配置したらきっと馴染むのかもしれないとも思った。

* * *

四日目の朝、ミス・ポーラが家を出てから二頭と戯れていると玄関のチャイムが鳴った。インターフォンのモニターには口髭の白人男性が映っていたので、私は「ハロー、アイムホームステイナー、シーイズ、ノット、ヒア」と答えてみる。通じたかどうか分からなかったけれど、スピーカーから「オーケー」と低い声が出て、最後に男の大きな背中が去っていく映像を残して画面は消えた。勢い良く血液が流れ始め、大きくなった心臓の鼓動が耳の鼓膜を震わせた。広がった毛穴から水分が蒸発し続けていく感覚があった。その日は犬の散歩を諦めて一日をリビングで過ごした。昼食のシリアルが入った皿を持つ手が震えている。ソファからはほとんど動けなくなった自分が、周りを天敵に囲まれていて何もできない小動物にでもなった気がした。

ミス・ポーラが帰宅して録画されていた映像を確認すると、ジョンだ、と言った。ジョンとは彼女の元夫の名前だった。

「モモカ、申し訳ないけれど、明日は市内の美術館にでも行って、一日外に出かけていて。マギーとチョコレートは食事を用意しておくから大丈夫」

* * *

翌日は午前中、郊外にあるミス・ポーラの家の近くからバスに乗り、サンタフェ市内のジョージア・オキーフ美術館で過ごすことにした。本来の予定ではこの観光地で二日間ほど過ごしてからロズウェルに向かう予定だったのだ。昨日の一件がまだ尾を引いていて、心臓の鼓動がいつもより速い。喉が渇いたので適当な店を探していると、珍しく自動販売機を見つけた。アルコールを摂りたかったのでビールと表記してある茶色い缶を選んだ。プルトップを開けて喉に流し込むと、砂糖の飴を溶かした味の液体が喉と口の中に広がり、咽て咳き込んでしまう。缶にはアルコール成分が表記されていなかったので、日本で言うところのビールではないらしい。

観光客向けのアクセサリーショップが十数件並ぶ通りを見て回っているうちに夕方になってしまった。今バスに乗って帰れば丁度ミス・ポーラも帰宅する時間だろうと思った。

ドアを開けるとリビングには書類が散乱していた。ミス・ポーラは眉間に皺を寄せながら電話で誰かと話している。嘆きながらオーマイゴッド、と言っていたのは分かったけれど、その他の言葉は速くて聞き取ることができなかった。リビングにはマギーが居た。マギー、と声を掛けると尻尾を揺らしながら寄って来たので両手で鼻から耳の後ろまでを繰り返し摩る。彼女は電話を終えると険しい表情を固めたままで言った。

「チョコレートがさらわれたわ。助けに行かないと」

恐らく物色中にチョコレートに吠えられた腹癒せか、ジョンが連れ去ったらしい。

「彼、何をするか分からないから、ええと」

彼女は手にメモ紙を持っていた。街の名前が書いてあったので、そこに呼び出されているようだった。

「今日はもうこれからだと、夜は危険な場所だから、明日の早朝に行くわ」

「私も一緒に行きます。ミス・ポーラ、一人だと危ないし、心配だから」

彼女は一瞬迷った表情を浮かべた後、小刻みに頷きながらサンキュー、サンキューと言った。その夜は二人とも眠れなかったので、リビングのソファで夜が明けるのを待っていた。テレビが何かを映し続けていたけれど、画面の方向に眼を向けていただけで二人とも何も観てはいなかった。まるで腕組みをしながら一点を見つめている二体の彫刻作品がそこにあった。

* * *

天井近くに設置されている小窓が、黒から薄青い色に明るく変化したことに気が付くと、二人で準備を始めた。彼女は工具箱から小さなハンマーやバールなどをリュックサックに入れていた。武器になりそうな物を選んだのかもしれない。さらに音楽室で積まれている打楽器の奥から小さな黒い金属製の箱を持って来た。箱を開けると革のホルダーに収められた小さな銃が入っている。彼女は何かを小声で呟きながら薬室内に弾を装填し、ホルダーに戻してからリュックサックに入れた。それを眺めていた私は意外にも冷静になっている自分を発見していた。ソファで固まっていた時間に、サキと連絡が取れない今となっては、もしここで死ぬことになっても泣くのは両親と姉だけだと思えたのと、実際のところ自分がこの世から消えてもきっと誰も困らないのだと、腹を括ってしまったせいかもしれなかった。しかしそれよりも強いエネルギーで恐怖や他の思いを押しのけていたのは、いつも私とサキが観ていたハリウッド映画に登場する、所謂“アメリカ”に来たのだ、という高揚感が私を浸食していた為かもしれない。サキが今、ここに一緒に居たら一体どんな反応をしただろうか。

* * *

二人を乗せた車は市内とは反対方向の、郊外にある街に着いた。ミス・ポーラによると三十年ほど前にこの近くの大きな工場が倒産して閉鎖され、同時にほとんどの住民が転居してゴーストタウンになってしまったらしい。シャッターが下りた店だけが並んでいるメインストリートを進む。風が吹くと、その度に目の前が薄いオーカー色のフィルターで覆われる。時折大きな砂の粒が巻き上げられ、頬に纏わりつく。風は下手な口笛が奏でる調子の外れた音を出していた。

街の中心部なのか、円形の枯れた噴水がある。中心に剣とライフル銃を持った銅像が建っていた。この街の英雄的な人物だったのかもしれない。微かに犬の吠える声が聞こえた気がした。毛布を何重にも重ねて衝撃を吸収された声の塊。チョコレートの声だと思った。

その小さな声を拾って進むと、かつて雑貨屋だった店の前に辿り着いた。雑誌だったと思われる皺だらけの紙の束がショーウィンドウに並んでいる。ドアを開けると床にコーラの空き瓶が散乱していた。数本の瓶が粉々に割れている。その破片が表通りから入ってくる陽の光を反射して、スパンコールの生地が敷いてあるように見えた。

レジの脇を抜けると左手に階段がある。二階が住居になっていると思われた。階段を無視してそのまま奥に進むと、埃色の目地の粗いカバーが張られているソファと、小さな四角いテーブルがある控室が現れた。その部屋の一角に真新しい木製の箱がある。幅は両腕を広げた程度の長さ、高さは自分の膝くらいの大きさだった。杉の香りが鼻の奥を擽るので、新しい物だと分かった。何本もの細長い木片を釘で雑に打ち付けて拵えただけの作りだったけれど、中型犬を閉じ込めておくには充分な強度だった。

ミス・ポーラは背負っていたリュックサックを下ろし、紐を緩めバールを取り出した。彼女は木片と木片の継ぎ目にバールの先を押し込み、梃子てこの要領で隙間を拡げる。私はその大きく開いた隙間に指をねじ込み、板を引き剥がしていく。木片が剥がれる度に昔観たホラー映画のゾンビが喉の奥から絞り出す笑い声を連想させる音が耳障りで、右頬の筋肉を歪ませた。それでも板が外れる度に大きくなるチョコレートの吠える声が、そんな感覚を消していく。

木箱の上部の木片を全て外すと、チョコレートが生まれたばかりの小鹿を思わせる不安定な状態から頼りなく立ち上る。周りを見渡し、匂いを嗅ぎ、呼吸を短く荒くして状況を把握しているようだった。やがて勢いよく木箱の残骸から飛び上がり、ミス・ポーラに抱きついて彼女の唇の周りを舐め回した。勢いが良すぎてミス・ポーラが後ろに倒れて尻餅を搗いてしまう。チョコレートは構わず彼女に馬乗りになって頬のあたりを舐め回し続ける。

もし今、ジョンが戻ってきた場合、彼と争わなければならない状況になるかもしれないと考えた途端、背骨の下から上に向かって小さな虫の集団が這い上がってくる感覚を覚えた。私は腕時計を指さして、ミス・ポーラに急ぐようにジェスチャーで示した。彼女もジョンが戻ってきた場面が想像できたのか、グッドボーイ、グッドボーイと犬の頭から首に向かって優しく毛並に沿って両手で数回撫でると、リュックサックから新しいリードを取り出して首輪を取り付ける。その間も私の身体はエンジンが掛かったまま放置された車のように小刻みに震え続け、心臓の鼓動は加速を続けていた。

店を出て大通りを車に戻る。途中、ジョンに銃で狙われているかもしれないと思うと、腕と脚の筋肉が緊張で樫の木の棒にでもなってしまった感覚を覚えた。脇の下から汗が湧いてきて脇腹を通過し、腰のベルトのあたりに溜まって行く。腕と脚の付け根に硬化剤を注射されたらきっとこんな感じなのだろう、上手く歩くことができない。それでも手足を強引に前後に速く動かして前に進む。傍から見たらきっと間の抜けた人形劇に見えたに違いない。

噴水の前を通り、車に辿り着いた。ジョンはこの場所には居ないようだった。ミス・ポーラがエンジンをかけようと鍵を差し込もうとする。私は荒野の町で車が爆発する映画のワンシーンを思い出して「爆弾が仕掛けられているかもしれない」と心配そうな表情を作り上げて彼女に訴えた。彼女は軽い笑いを浮かべて、あの馬鹿にそんな芸当ができる訳がないわ、と言って構わず鍵を差し込んだ。エンジンが全員の帰りを喜ぶように大地を震動させて雄叫びを上げる。チョコレートが運転席と助手席の間に頭を突き出してきたので、その下顎から喉のあたりを左手の指で優しく掻いた。犬は目を閉じて私の指の動きを楽しんでいる。

ミス・ポーラの家に着き、赤色のドアを開ける。薄茶色の犬が尻尾を回転させながら玄関で待っていた。チョコレートはマギーの横をすり抜け、広いリビングを一周した。マギーも後に続く。二頭は並びながらさらにリビングを三周ほど歩いて、やがて彼らのそれぞれの定位置に落ち着いた。

戸締りを確認した後、ミス・ポーラがインスタントのコーヒーを入れてくれた。頭の中では彼女に話しかけたい事柄が散らかっていたのだけれど、言語に変換することができず、結局笑顔を送るだけになってしまった。彼女もそんな私の顔をみて軽く笑った後、小さく首を左右に振りながら何かを囁いた。アメリカの映画やドラマで何かを諦めたり否定したりする時に行う、この動作を実際に見たのは初めてかもしれない。独り言の最後の方は、関係無い人には聞こえてもいいわ、と言ったようにも聞こえた。

* * *

翌朝、サンタフェのバスターミナルへ向かう車にはチョコレートとマギーも同乗することになった。彼らにも恐らく私がもうこの家に帰って来ないことが分かっていたのだと思う。リュックサックの中を整理している私の手の甲を、二頭の犬が代わる代わる舐めていく。ミス・ポーラは、あなたを降ろしてからの帰り道が寂しくなるから連れて行くわ、と二頭を車の後部座席へ促した。

バスターミナルが近づく。あの夜に私が辿り着けなかった二件のモーテルの前を通り過ぎた。暗闇の中で気が付かなかったけれど、道路沿いには小さなカフェがいくつか点在していたのだ。

ターミナルの駐車場に着き、車を降り彼女に感謝を伝えると、右手を差し伸べてきたので握手を交わした。後部座席の二頭には長い瞬きで感謝をアイコンタクトで伝える。バイバイ、と彼らの速い息遣いがその音に聞こえたので、私は頬の筋肉を緩ませた。手を振りながら車を離れると「ウェイウェイウェイ」とミス・ポーラの声が後ろから聞こえたので引き返した。運転席の窓から伸びた彼女の手から、折り畳まれたテンガロンハットと小さなメモを渡された。紙には住所と電話番号が書いてある。私はダウンジャケットのポケットに入っていた星形のキーホルダーに気が付き、お礼としては釣り合わない物だったけれど彼女に手渡した。何時でもまたいらっしゃい、と彼女は微笑んで車をスタートさせ、来た道を引き返して行った。

車がほとんど通らない荒野の一本道。遠ざかり、次第に小さくなっていくミス・ポーラの車を見つめている。やがて車は午前の陽に温められた道路が起こす陽炎の中に溶けて、消えた。

上は青空、下は黄土色の大地の真ん中に灰色のアスファルトの太い線が延びている。そこには三色で構成された世界だけが残っていた。
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