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最終章 深淵
私の新しい日常
しおりを挟む早朝、まだ日も昇り切らず朝靄が立ち込める中、護衛騎士とともに砦に行って訓練に参加する。
「ラウル、おはよう!」
「おはよう、ナガセ。今日も早いな」
若い兵士たちに指導しているラウルに挨拶をして、今日の差し入れを手渡す。
「おお、いつも悪いな!」
そう言って笑顔で受け取るラウルはゴツい見た目とは違い、お酒が全く飲めずかなりの甘党。今日はそんな彼の為に甘夏のタルトを焼いて来た。
フルーツのタルトは王都のタウンハウスでシェフに教えてもらったもの。かなり上手になったんだよ?
エーリクが居なくなって訓練には一人で参加する事になったけれど、それでもラウルは笑顔で迎えてくれた。
暑くなる前にひと通りストレッチをして、走り込み、体幹を鍛えるための筋トレなどを教えてくれる。
最近では自分も始めたいと言う女性が出始めたらしく、ラウルは若い人の出会いになるかも、と真剣に受け入れを検討し始めている。
訓練が終わると私はその足でレオニダスの執務室に向かう。
見送りが出来ればいいんだけれど、最近のレオニダスはとにかく朝が早い。お弁当を渡す暇がないので、こうして持って来ているんだけれど。
「おはようナガセ!」
執務室ではお義兄様が書類の山に埋もれていた。側にはクラウスさんがいる。
「おはようございます、お義兄様、クラウスさん」
レオニダスの姿はない。
お義兄様は立ち上がりさっと頬にキスをすると私の手からバスケットを受け取った。
「はあ、いい匂い。もう食べたいなぁ」
「ダメ、お昼まで我慢して」
もう一つ小さなバスケットをクラウスさんに渡す。
「私に?」
「はい。いつもご迷惑をお掛けしてるし、あと昨日の夜、お店に聞きに来てくれてありがとう。お礼です」
中身はクラウスさんの大好きなカツサンド。この濃厚なソースが堪らなく好きなんだとか。
「ありがとうございます、ナガセには何も迷惑を掛けられていないのですが。嬉しいです」
そう言って微笑みながら受け取ってくれた。
「レオニダスはちょうどベアンハートと打ち合わせに行ってるんだよ」
お義兄様がよしよしと私の頭を撫でながら眉尻を下げる。
「待ってもいいけど、いつ戻るか分からないんだ」
「いいの、お弁当届けただけだから。渡してくれる?」
「分かった。送ってあげられなくてごめんね」
「大丈夫だってば! 護衛もいるから」
心配性なお義兄様にクスクス笑って手を振り執務室を後にした。
邸に戻ってロイトン先生の授業を受ける。
ロイトン先生はエーリクの件を聞いて淋しそうにしていたけれど、彼なら立派に勉学を修めて帰ってくる、と今では笑顔で話している。
私はロイトン先生から読み書きの他に、バルテンシュタッドの歴史、ザイラスブルクの歴史を学んでいる。
辺境伯夫人になってからの業務の一端も、ヨアキムさんを交えて学ぶ事もあり、聞き取りができるようになっただけで学習の幅が随分と広がった。
エーリクと学んでいたお陰で、知識を深める事に楽しさを見出せるようになった。
お昼が過ぎ、午後の日差しが一段と強くなる時間。
私が一番苦手とする時間になると本当に何も出来なくなる。アンナさんと考えた末、この時間はお昼寝タイムになった。
カーテンで日差しを遮り、でも風通しを良くして身体に負担をかけない服装で眠る。
暑くて眠れないのでは? という心配もなく、案外ぐっすり眠れる。
朝早くから活動しているのも功を奏しているみたい。習慣とは怖いもので、ベッドに横になればすぐに眠りにつけるようになった。
日が傾き始める頃、オーウェンさんのお店に向かう。今日は夜の演奏はなく仕込みのお仕事だけ。
オーウェンさんのお店では仕込みの前に店内の清掃もする。
初めは見ているだけだった護衛騎士も、手持ち無沙汰なのか手伝ってくれるようになった。
あまりにも悪いので断ったけれど、護衛対象が働いているのを黙って見ている方が辛いと言われると何も言えなくて、お礼にその日に作った料理を奥様の分と合わせて渡すようになった。
とっても喜んでくれるし、オーウェンさんも店の宣伝になるから人に渡すくらい構わないと言ってくれた。
ちなみに外にも護衛が二人いるんだけど、彼らは離れた場所から見ているからこの事は知らない。
「今日はどんな料理だ」
オーウェンさんが腕を組んで厨房の椅子に腰掛ける。ここ最近の定位置で、私が料理をする時はいつもそこに座っている。
「今日は焼き物を多くします。煮込みは作り置きに向いてるけど季節柄心配だし…」
下味をつけてあとは焼くだけの状態にしておく。
注文が入ってから焼けばいいし、暑い日ってお肉が食べたくなるよね。
お店には地下に氷室がある。これはどこの家庭にもあるらしく、氷室に更に密閉型の箱があって、氷が入っている。そう、冷蔵庫になっている。
郊外の地下深くに大きな石の部屋があって、そこに毎年冬の間に作られた氷を保管しているのだとか。そこから削り出した氷を各家庭が買い取り、地下の氷室や密閉型の容器に入れて食品の保存に使用している。
味付けしたお肉を串に刺し、あとは揚げるだけの状態にした衣をつけたカツもこの冷蔵庫に保管すれば今日一日くらいは大丈夫。
今日の目玉は串カツ。お肉以外もどんどん串に刺していく。
以前出した時、食べやすいと好評だったからきっと今日もたくさん出るはず。それにみんな、あのソース好きよね。
あとは人気の具沢山のポテトサラダ(今日はベーコンと茹で卵、ブロッコリーにハニーマスタード)や野菜のピクルス、完熟トマトが手に入ったから冷製トマトパスタのソースとバジルソースを作っておけば、あとはパスタを茹でてすぐ食べられるように。
アンチョビを使ってバーニャカウダソースもすぐに出せるように。
この季節は新鮮な野菜がたくさん取れるから、彩りきれいに盛り付けて出すと女性たちからとっても好評。
オーウェンさんのお店は珍しい料理が話題になって、女性客がとても増えたのだ。
「この間のパンはえらい好評だったぞ」
「本当ですか? 柔らかいから受け入れられるか心配だったんですけど」
「ロブんとこのパン屋が作り方を教えて欲しいと。どうする?」
「わ、それは嬉しい! ぜひパン屋さんに作って欲しいですね!」
「……欲がねえなぁ」
「なんです?」
「一儲け出来るだろうに。対価は求めねえのか?」
「だって私の開発したものじゃないし……。一人のものにしたって仕方ないじゃないですか。プロの方が作ってくれた方がもっと美味しく出来るだろうし、沢山食べられますよ」
「ははっ、量産な」
「そうです! あ、じゃあ教える代わりに仕入れ値を安く設定させてもらえないかな。そうすればお店で出すのにそんなに高い設定にしなくてもいいし、いつでも出せるようになりますよね!」
「そりゃいいな、どうせ今夜も来るだろうから話しとくか」
ひと通り仕込みを終えてオーウェンさんのお店を出る頃、空は夕焼け色に染まり吹く風も涼しくなっている。店を出て少し歩き、街の空気を肌で感じる。
夕餉の支度、子供たちの笑い声、お母さんお父さんの声、恋人たちの語らう声。
通りに溢れる音や声は、幸せに満ちている。
そして思う。
早く貴方に会いたいと。
だから私も早く帰ろう。帰って貴方の帰りを待とう。
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