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番外編4 ある役者の愛
しおりを挟む「――どこへ行ってたの」
「あ、おかえり、なさい」
部屋へ戻ると、彼女がすでに帰宅して僕を待っていた。
酔っているらしく、酒の匂いがきつい。
それとなく彼女の座るテーブルの横を通り過ぎて、窓を開ける。夜風がひんやりと室内に流れ込んだ。
「どこに行っていたのか聞いてるの!」
バンッ! とテーブルを叩く音に、振り返って彼女を見ると、テーブルに突っ伏していた。いつもベッドへ辿り着く前に、こうして眠ってしまう。
「ベッドで寝た方がいいよ」
彼女の身体を起こして抱きかかえる。
「僕が出て行ったら、ベッドで寝る機会が減りそうだな」
明日、起きたらちゃんと話そう。
酔いつぶれた彼女をベッドに横たえ、僕は居室のソファで横になった。
*
「――う、ん……」
身体が痛くなって目が覚めた。硬いソファでは寝返りを打つたびにこうして目が覚める。
身体の向きを変えようとして、うまく動けないことに気が付いた。
「――え?」
手が、後ろで縛られている。
「なんだ? えっと」
室内を見渡そうと視線を向けると、目の前に彼女が立っていた。
「ど、うしたの。どうして僕の手を」
「出ていくって何」
「え」
「ここを出るの? アンタが?」
まだ薄暗い室内は明かりがついていない。
ぼんやりと闇に浮かび上がるように立つ彼女の手に、何かがある。
「――ねえ、ほどいて」
「アーロン」
抑圧するような大きな声に、びくりと身体が揺れた。嫌な汗が首を流れる。
「出ていくって何? 顔と身体しか取り柄がないアンタが、出て行ってどうやって生きていくの? 身体でも売る?」
「違う、ねえ聞いてよ」
「私が拾ったんでしょう!」
ドンッ! と腹部に衝撃を受ける。
彼女の手にあるのはなんだろう。包丁じゃなくてよかった、と頭の片隅で思う。
「何もできないくせに私から離れてどうするの!? アンタは私に恩を返さないとダメなのよ!」
また、衝撃が来る。
女性の力とはいえ、硬いもので殴られてはいつまでも耐えられない。
次の衝撃は頭にやってきた。目の前にチカチカと星が飛ぶ。
やがて生温かいものが額から流れてきた。
けれど、彼女の罵声と衝撃が止むことはない。
繰り返される暴力に、僕はただひたすら、目を瞑って耐えた。
*
「――う……」
痛みで意識が戻った。
目を閉じた向こうは白くぼんやりしている。目を開けよとしても、違和感があった。
(これは――、瞼が腫れてるな)
彼女に殴られたことを思い出す。
まだソファの上かと思って身じろぎすると、手は自由に動いた。そして背中に当たる柔らかな感触に気が付く。
「――ベッド? 柔らかい……」
「そうよ。清潔なベッド」
「!」
すぐ近くで聞こえた声に、驚いて起き上がろうとするのを優しく押し返される。
「大丈夫、まだ寝ていなさい」
「ビ、ルギッタさん……?」
恐る恐る尋ねる僕の髪を優しく撫でながら「そうよ」と小さく彼女は答えた。
「どうして……」
「約束の時間になってもあなたが現れないから、心配になって家を訪ねたの。部屋の窓が開いていて、そこから覗いてみたら床で倒れているあなたを見つけたわ」
「……」
「アーロン」
あまり見えない視界の向こうで、ビルギッタが優しく僕の手を握った。ああ、見えないのが残念だ。
今、彼女はどんな顔をしているのだろう。
「あなたに暴力を振るった女性は捕まったわ」
「そんな、でも僕が……」
「他にも問題を起こしていて、訴えられているの」
「……」
「それから」
今度は、優しい手が額へと移動した。前髪をかき分けるように撫でる手つきに、気持ちよくてホッと息を吐き出す。
こんなふうに触れられるのは、いつ以来だろう。
「あなたの身の上についても調べたわ」
「!」
「ご家族にも連絡を取ったの」
「……」
ドキドキと心臓がうるさい。
家族に連絡を取った?
僕が新聞を読むのは、尋ね人の欄を確認するためでもあった。
僕は家族に探されているのだろうか、と。
けれど一度も、そこに僕の名前を見たことがない。
「あなたのことは、私が責任をもって面倒を見ていると伝えたわ」
「――え?」
「アーロン」
額を撫でていた手が、頬を包み込む。
「あなたは自分の脚で立っている、素晴らしい人物になったと伝えたわ。あなたはあなたの道を見つけて、誇れる人生を歩んでいる、と」
「誇れる、人生……」
「だからあなたはもう自由に生きていいのよ。誰もあなたを縛り付けたりしない」
「どうして、そこまで……」
「そうね……、あなたが、私の夫の心を伝えてくれたからかしら」
「僕が?」
「夫が伝えたかったことを、あなたが教えてくれた。夫と同じ感性を持っているんだと思って、……うれしかったの」
ビルギッタの指先を濡らすのは、なんだろう。
優しく頬を撫でてくれる彼女の顔を見たい。
「――顔が見たい、ビルギッタさん」
「ふふ。じゃあ早く元気になって」
彼女はそう言って、僕の額に柔らかく優しい口付けを落とした。
*
「ビルギッタ、これ見て」
「なぁに?」
朝食の席で新聞を広げると目に飛び込んできた記事。それは、イーゼンブルグ卿とアレックスの婚約を大々的に報じるものだった。
「やっとだね」
「そうね! 本当に色々あったわねぇ」
ビルギッタはおかしそうに笑いながら、サワークリームをスコーンに乗せる。
「そうだわ、彼らの結婚式に着ていくドレスを新調しなくちゃ」
「君が主役を食ってしまうよ」
「まあ! じゃあ控えめなものを選ぶわ」
「主役になる気はないの?」
僕の言葉に、ビルギッタがこちらを見た。
「アーロン」
「あ、ごめん違うんだ、えっと……」
これではまるで、彼女と結婚したい男みたいだ。そんなことを言って、面倒がられては駄目だ。彼女を困らせるつもりはない。
「――主役はあなたの前でだけでいいわ」
「え?」
彼女はスコーンを小さく切り分けると細い指でつまみ、僕の口元に運んだ。反射的にパクリと食べて、そのまま彼女の指についたクリームを舐め取る。
彼女はくすぐったそうに笑った。
「私は私のために美しくありたいけれど、もし誰かのために着飾るのなら、それはあなたよ、アーロン」
予想しなかった彼女の言葉に、視界が揺れた。ごまかすようにグイッと彼女の腕を引っ張り、膝の上に抱きかかえる。心臓がドキドキと早鐘を打つように響いた。
「――僕は、あなたみたいに強くないんだ」
「そう?」
「あなたのように、愛した人を胸に抱いて強く生きていく自信がない」
「あら、もし私がそれをできているように見えるのなら、それはあなたがいてくれるお陰よ」
「僕の、お陰?」
「そうよ。あなたが私を支えてくれているからだわ。私を支えてくれるのは、あなただけ。そして私が支えたいのも、あなただけよ、アーロン」
「――それは、僕のことを愛してくれてる、ってこと?」
一時の、慰みだけの関係ではなく、人として。僕をそばに置くのには、意味があった?
僕の言葉に、「まあ!」と声を上げて彼女は笑った。変わらず優しい手が僕の頬を包む。
「当然じゃない。――私はあなたを愛してるのよ、アーロン」
「――僕も、愛してるよビルギッタ。ご主人を愛しているあなたごと、僕はあなたを愛してる」
彼女の人生、丸ごと全て、彼女が愛してきたもの全て、それらが今の彼女を形成している。
だから僕は彼女のすべてを、愛しているんだ。
出会ったあの瞬間から、ずっと。
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「なぁに? 何を教えるの?」
「ふふ、僕の答えだよ」
『――アーロンは、叔母さまを愛しているの?』
僕は彼女を愛しているって、ちゃんと言える。彼女を愛する自分でいながら、生きていけるよ。
あの日のアレックスの質問に、そう答えよう。
不思議そうな顔をして僕を見下ろす愛しい人に口付けをして、僕はそんなふうに、幸せをかみしめた。
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kokekokkoさま
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mariさま
お読みいただき、ありがとうございます!
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