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「まあ、なんて広いのかしら……!」
侍女長に案内され足を踏み入れた湯殿は、まるで舞踏会のホールのように広かった。
天井は湯気でよく見えないほど高く、その天井を支える柱の凝った意匠がぼんやりと湯気に見え隠れする。大理石の床は滑らないよう表面が加工され、浴槽は艶々と手触りよく光っている。
手すりに捕まりゆっくりと湯に身体を沈めると、自然とほおっとため息が漏れた。白く濁った湯は柔らかく、美肌の効果があるらしい。
湯浴みを手伝うと言ってくれた侍女たちの申し出を断り、一人で入ったのは正解だったかもしれない。一人になり、張り詰めていた緊張から開放されたような気がした。
――馬車に揺られこの地に一人やって来て、今日で一月が経った。
私たちは既に夫婦の契りを交わしているけれど、それは書面にそれぞれが署名しただけ。私はまだ、夫となるこの城の主、旦那様に会えていない。
管理する領地で事故が起き、そちらの処理に追われているらしい。夏を迎える頃には領地の教会で結婚式を挙げるのだけれど、それまでには会えると信じ、今は一人で旦那様のお帰りを待っていた。
「奥様をおもてなしするよう仰せつかっております」
そう言った侍女たちは言葉どおり、とても良くしてくれている。
快適に過ごせるようにと私の好きな花を部屋に活けてくれたり、食事も美味しく、案内してくれる庭もとても素晴らしいものばかり。旦那様に会えないことに寂しさや不安はあるけれど、大切にしてくれる侍女たちのお陰でなんとか挫けることなく過ごしてきた。
けれどやはり、時間が経てば経つほど不安が募るもの。
「旦那様にいつお会いできるかしら」
先日、ついそんなことを呟いてしまい、侍女たちを困らせてしまった。「すぐに会えます」「もうすぐお戻りになりますから」そんな言葉を何度も聞いて、でも私の気持ちは落ち込んでいった。
もしかしたら、こんな歳の離れた幼い私では駄目なのではないか、このまま結婚式までお会いできないのではないか、その後またどこかへ行かれてしまうのではないか。
そんな思いに時々囚われ、気分がふさぐようになってしまった。
そんな私の気持ちを慮ってか、今日は侍女長が気分転換にと、城の離れにあるこの湯殿に案内してくれたのだ。普段は旦那様が一人で使用するらしい。
「独り占めなんて、すごく贅沢ね」
広く大きな浴槽は階段状になり、腰を下ろすのがとても楽だ。湯気で奥まで確認できないけれど、浴槽にこんこんと湧き出る温泉が流れ込む音が聞こえる。
「……どのくらい広いのかしら」
身体に巻いた浴布を押さえながら、この浴槽を端まで歩いてみることにした。
ゆっくりと前に進めば、脚の周りを湯が絡みつくように流れていく。周囲を見渡しながら進んでいると、ふわりと風が流れた。
(窓があるのかしら)
見ると、湯気が少しだけ流れていく。真っ白な湯気に覆われていた視界が段々と晴れていき、浴槽の奥に黒い影が見えた。
「……? 何かしら、石像……?」
その黒い影は突然、ザバン! と水音を立てて立ち上がった。
「きゃ……っ!?」
「ま、待ってくれ! サーシャ!」
その人影は慌てて叫びそうになる私の名を呼んだ。
浴布を巻いているとはいえ裸も同然。私は慌てて湯に顎まで浸かり、人影に背を向ける。
「だ、誰ですか!?」
「す、すまない! 貴女がいるとは知らず……!」
焦燥を滲ませたその声は、低いけれど優しい響きを持っている。聞いたことのある声、記憶の底に埋もれている、声。
「待っていてくれ、すぐに出て侍女を呼んでこよう」
「お、お待ちください!」
出ていこうとするのを振り返り引き止めると、その人影はぐっと呻き動きを止めた。
ここは、旦那様が普段利用していると侍女たちが言っていた。そして、そして私の名前を呼ぶ、唯一の人は。
「……旦那様、ですか……?」
恐る恐る声を掛けるとその人影はまたひとつ呻き、白い湯気の向こうで項垂れた。
「……こんな場所で顔を合わせるとは。すまない、サーシャ」
どこかから風が吹き、白い湯気がふわりと流れていく。段々と開けていく視界の先に、湯船に腰まで浸かる旦那様が気まずそうな表情で立っていた。
「お、お帰りなさいませ……?」
「……ああ、ただいま……」
「「…………」」
(やっとお会いできたのがお風呂だなんて……!)
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