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「本当にようございました」
翌日、日も高く昇った頃。
夫婦の寝室へ続く居室に、侍女長が頃合いを見計らいワゴンを押して軽食を運んできた。サーシャはまだベッドの上で眠っている。
「……分かっている」
「いいえ! 旦那様は何ひとつお分かりではありませんでした!」
ソファに座る俺の前に、侍女長が乱暴にカップを置く。ソーサーにオレンジ色の液体が溢れた。
「こうでもしなければ、旦那様は本当に奥様から逃げるおつもりだったでしょう」
「そんなつもりは……」
「ありましたわ!」
「……」
黙って眼の前のカップに口を付ける。紅茶の甘い香りが鼻腔を擽る。この紅茶は領地で生産されたものだ。サーシャは気に入るだろうか。
「ずっと寂しく待ち続けた奥様のお気持ちを分かっておいでなら、こんなに長いことお一人にするはずがありません!」
「……」
領地で起こった橋の崩落事故の対応に手間取り、城へ戻るのが遅くなったのは事実だ。サーシャを一人待たせているのも分かっていた。
だが、時間が経てば経つほど、まだ若く美しい彼女が十五も離れた俺の妻になることが、果たして彼女の幸せなのだろうかと考え始めるようになった。
このまま何不自由なく過ごさせ、白い結婚を保ち離縁すれば、彼女は本当の自由を手に入れると、それが彼女のためだと、そう考えたのだ。
何より彼女を妻にと願ったのは、自分だというのに。
あの夢のように美しかった夜を共に過ごした幼かった姫が、成人し美しく成長していくのを俺はずっと遠くから見ていた。それは所謂、父性のような感情だった。そのはずだ。
だが、ある日の貴族院議会で彼女の降嫁先にと隣国が挙げられた時、俺は咄嗟に手を挙げていた。
あの姿を失ってしまうのかと、もう二度と見ることがなくなるのかと思うと、そのまま黙っていられなかったのだ。
あの時の王太子のニヤついた顔を俺は一生忘れない。あれは完全に、俺が挙手するのを分かっていたのだ。
(……昨夜もだ)
帰城したのは一昨日の夜だった。
汚れているから、起こしたくないからと夫婦の部屋に行くのを躊躇し、翌日は溜まった書類があるからと顔を見に行くこともしなかった。ただ遠くから、庭の花を楽しむ姿を見つめていた。
そんな俺に業を煮やしたのだろう使用人たちが、やけに熱心に湯殿を勧めてくるのを不思議に思いながら一人向かったのだが、まさかそこに彼女がいるとは。
(いくらなんでもやり方が強引すぎるだろう)
だが結局、それくらいが良かったということか。
美しく聡明な彼女が幼くなどあるものか。黄金の髪、空のような青い瞳、真っ白な陶器のような肌。
俺はそんな高貴な雰囲気をまとう彼女に、腰が引けていたのかもしれない。
『……私は、ずっとお慕いしていました』
俺はその言葉に、年甲斐もなく胸が踊った。かあっと身体が熱くなるのを感じたのだ。そしてやはり、手放せるはずがないのだと理解した。
(幼かった姫との思い出だけではなく、これからは俺の妻としての思い出を作っていけばいい)
そして、この想いは父性などではなく愛なのだと、彼女に伝えなければならない。
「――今日はもう誰も近づけないでくれ。用があればこちらから呼ぶ」
「お夕食はどうなさいますか?」
「廊下に置いておいてくれ」
「まあ、ふふ、承知いたしました」
何やら嬉しそうに笑みを漏らしながら、侍女長はそのまま頭を下げ退室した。
サーシャはそろそろ目を覚ます頃だろうか。
今は俺の手中にある美しい彼女に、俺の想いを伝えねばならない。
俺は侍女長が置いていったワゴンをそのまま押し、寝室へと続く扉を開けた。
翌日、日も高く昇った頃。
夫婦の寝室へ続く居室に、侍女長が頃合いを見計らいワゴンを押して軽食を運んできた。サーシャはまだベッドの上で眠っている。
「……分かっている」
「いいえ! 旦那様は何ひとつお分かりではありませんでした!」
ソファに座る俺の前に、侍女長が乱暴にカップを置く。ソーサーにオレンジ色の液体が溢れた。
「こうでもしなければ、旦那様は本当に奥様から逃げるおつもりだったでしょう」
「そんなつもりは……」
「ありましたわ!」
「……」
黙って眼の前のカップに口を付ける。紅茶の甘い香りが鼻腔を擽る。この紅茶は領地で生産されたものだ。サーシャは気に入るだろうか。
「ずっと寂しく待ち続けた奥様のお気持ちを分かっておいでなら、こんなに長いことお一人にするはずがありません!」
「……」
領地で起こった橋の崩落事故の対応に手間取り、城へ戻るのが遅くなったのは事実だ。サーシャを一人待たせているのも分かっていた。
だが、時間が経てば経つほど、まだ若く美しい彼女が十五も離れた俺の妻になることが、果たして彼女の幸せなのだろうかと考え始めるようになった。
このまま何不自由なく過ごさせ、白い結婚を保ち離縁すれば、彼女は本当の自由を手に入れると、それが彼女のためだと、そう考えたのだ。
何より彼女を妻にと願ったのは、自分だというのに。
あの夢のように美しかった夜を共に過ごした幼かった姫が、成人し美しく成長していくのを俺はずっと遠くから見ていた。それは所謂、父性のような感情だった。そのはずだ。
だが、ある日の貴族院議会で彼女の降嫁先にと隣国が挙げられた時、俺は咄嗟に手を挙げていた。
あの姿を失ってしまうのかと、もう二度と見ることがなくなるのかと思うと、そのまま黙っていられなかったのだ。
あの時の王太子のニヤついた顔を俺は一生忘れない。あれは完全に、俺が挙手するのを分かっていたのだ。
(……昨夜もだ)
帰城したのは一昨日の夜だった。
汚れているから、起こしたくないからと夫婦の部屋に行くのを躊躇し、翌日は溜まった書類があるからと顔を見に行くこともしなかった。ただ遠くから、庭の花を楽しむ姿を見つめていた。
そんな俺に業を煮やしたのだろう使用人たちが、やけに熱心に湯殿を勧めてくるのを不思議に思いながら一人向かったのだが、まさかそこに彼女がいるとは。
(いくらなんでもやり方が強引すぎるだろう)
だが結局、それくらいが良かったということか。
美しく聡明な彼女が幼くなどあるものか。黄金の髪、空のような青い瞳、真っ白な陶器のような肌。
俺はそんな高貴な雰囲気をまとう彼女に、腰が引けていたのかもしれない。
『……私は、ずっとお慕いしていました』
俺はその言葉に、年甲斐もなく胸が踊った。かあっと身体が熱くなるのを感じたのだ。そしてやはり、手放せるはずがないのだと理解した。
(幼かった姫との思い出だけではなく、これからは俺の妻としての思い出を作っていけばいい)
そして、この想いは父性などではなく愛なのだと、彼女に伝えなければならない。
「――今日はもう誰も近づけないでくれ。用があればこちらから呼ぶ」
「お夕食はどうなさいますか?」
「廊下に置いておいてくれ」
「まあ、ふふ、承知いたしました」
何やら嬉しそうに笑みを漏らしながら、侍女長はそのまま頭を下げ退室した。
サーシャはそろそろ目を覚ます頃だろうか。
今は俺の手中にある美しい彼女に、俺の想いを伝えねばならない。
俺は侍女長が置いていったワゴンをそのまま押し、寝室へと続く扉を開けた。
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