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嵐
しおりを挟む「……クロエ殿」
何度目か分からない食事を持ってきた人物が、そっと私の名を呼んだ。ぼんやりと天井を見上げていた私は、のろのろと視線をその人物に向ける。
「……貴方は……」
そこには、フードを目深にかぶった三年ぶりに見るヨハンの姿があった。戦場でともに患者の治療に当たった、医師見習いだったヨハン。私が倒れた時も懸命に治療してくれた人だ。
「ヨハン……? どうしてここに……」
「しっ、静かに……」
ヨハンは顔の前で人差し指を立てると、そばにいた衛兵にひとつ頷いた。衛兵はさっと近付いてくると、腰にぶら下げていた鍵を使い扉を開ける。
「何をしているの」
「逃げましょう、クロエ様」
三年前より大人びた顔をしたヨハンは、強い光を宿した瞳で私を真っすぐ見つめる。
「……駄目よ、そんな事をしては貴方に迷惑がかかるわ」
「いいえ、大丈夫です。……これは僕だけが考えたことではないんです」
「え?」
「……クロエ殿」
側にいた衛兵がそっと近付き、私の前で跪いた。被っていた兜を脱ぎ、小脇に抱え頭を下げる。
「自分は三年前の戦で貴女に救われました。……次は自分に、自分たちに貴女を救わせてください」
「……駄目。貴方たちがどんな罰を受けるか分からないわ」
「クロエ殿。このままでは貴女が謀殺の罪で処刑されてしまう」
「そうです。クロエ殿、信じて下さい。これは……宰相閣下もご存じです」
「宰相閣下が?」
「閣下のご伝言です」
衛兵はそう言うと、そっと懐から水の入った瓶を取り出した。キュッと音を立てて栓を抜くと、こぽりと音を立てて水がゆっくりと首をもたげるように瓶から立ち上がる。水面が石を投げたように小さな波紋を浮かべた。
『この後一時間ほど雨を降らせる。貴女は貴女のすべき事をするといい』
宰相の声がふわりと水を通して響くと、役目を終えたのかパシャンと水が床に落ちた。じわりと水が床を濡らし石畳の隙間に染みていく。
「宰相閣下は水魔法の権威です。聞いてはいましたが、凄いですね」
ヨハンが苦笑するのを見て、思わず私も笑みを漏らした。
「ライ……殿下の容態は?」
「大分落ち着いたようです。間もなく目が覚めるのではないかと閣下が」
「そう。ルシル様も向かうでしょうし、大丈夫そうね」
――貴女ではないと皆分かっている。だからどうか……信じて待っていて欲しい
宰相の言葉はこのことを指していたのだろうか。
まさか牢からの脱走を示唆しているとは思わなかったけれど。……普通思わない。それに、宰相の言う私のすべきこと。それは暗に私に動けと言っているのだ。
「……分かったわ」
「急ぎましょう」
頷く二人を見て、私は粗末なベッドから腰を上げた。
そう、ここで待つだけでは何も始まらない。私は私のすべきことをしなければ。
――ライナルトのために。
*
目を開けると視界が白く霞んでいた。
霞む視界の向こうにあるのは見慣れた天蓋の模様。ぼんやりとした白い光が室内に広がり、時間の感覚を狂わせる。
じっとして自分の身体を探る。倦怠感はあるが、怪我をしている訳ではないようだ。魔力も十分に感じられる。
一体何があった? そう、クロエと一緒に湖に行って釣りをして、それで……
「……クロエ…」
ガバッと身体を起こす。ぐらりと眩暈がしたが、どうやら血が足りないようだ。
血……、そうだ、四阿で食事をしている時に急に感じた違和感。胃が焼け付くように痛み、込み上げる気持ちの悪い鉄の味。その不快感に口から吐き出した、あれは血だった。……クロエの俺を呼ぶ声。久しぶりに聞いた、ライと呼ぶ声。
「殿下?」
天蓋のカーテンの向こうから聞きなれない女性の声がした。カーテンを自ら開け、床に足を降ろす。
「駄目です、まだ横になっていて下さい!」
慌てて俺をベッドに戻そうと駆け寄って来た人物を見上げる。
「……マリエル嬢。ここで何をしている」
白い法衣を着たマリエルが、眉根を寄せ俺を見ていた。
「聖女としてここに呼ばれました」
「ルシル殿はどうした」
「回復中です」
「クロエは」
そう言うと、マリエル嬢は口を閉ざし俯いた。
「話せないなら用はない。帰れ」
「お、お待ちください殿下、今動かれては御体に障ります!」
「大丈夫だ、毒は抜けた。宰相を呼べ!」
話し声が聞こえたのか、バタバタと室内に衛兵や侍医が入室してきた。
「殿下!」
「宰相を呼べ。私は大丈夫だ」
「お待ちください、先ずは診察を……」
「いらん!」
「落ち着いてください、殿下」
騒ぎを聞きつけた宰相が慌てた様子で駆け付け、ピリピリした俺の様子に気が付いたのか皆を下がらせた。
「殿下」
「クロエは」
「……地下牢に」
「ふざけるな!」
ガシャン! と近くにあった水差しが床に落ちる。水がラグを濡らし広がっていく。
「クロエではない、同じ食事をとったのだ、彼女は無事なのか⁉」
「無事です。本人には体の不調はないと」
「誰の仕業か見当はついているのか」
「……証拠が出ません。クロエ殿にしか向かない」
「……くそ」
髪をガシガシと掻きまたベッドに座る。冷静にならなければ。
「……俺は感知できなかった。何の毒だ?」
「不明です。ただ毒性はさほど強くないのではないかと」
「視覚的な衝撃を狙っただけか」
現に、こうして倦怠感は残るものの即死には至っていない。ごく少量だったのか、そもそも殺傷力が低いのか。
腕をまくると既に採血の跡が見られる。すでに毒性を調べるための検査が行われているだろう。
「毒は何に含まれていたんだ」
「……全てに」
「全て?」
「はい。食事全てに含まれていました」
「クロエも同じものを食べているぞ」
「そうです。……恐らく解毒薬を口にしていたのではないかと」
宰相が顔を曇らせる。
「クロエが目的か」
浮上した婚約を取りまとめる為に排除すべき相手として見られたのだろう。神殿にいる間は問題ないと思っていたが甘かった。
「今日の予定を知っていたのは」
「クロエ殿は予定を周知しておりました。神殿の者は皆把握しています」
「クロエが厨房に入った時にそばにいた者を探せ。いや、神殿の人間を全員取り調べる」
「殿下。我々に神殿への権限はそこまでありません」
「急げ。このままではクロエが」
「あのお方がどんな女性か、殿下が一番ご存じでは?」
「何?」
その言葉に宰相の顔を見上げると、会議でよく見る取り繕った澄ました顔をしている。じっとその顔を見つめると、口端をわずかに上げた。
「……ゴードン、何をした」
「何も。ただ少し、このところ日照りが続いていたので雨を降らせただけです」
「!」
立ち上がり窓に駆け寄り外を見ると、重たい灰色の雲が低く広がり強く雨が降っていた。
「彼女は何でも自分で抱え込む人だが、自分が思っているよりも人に恵まれている。そうは思いませんか、殿下」
「……そうだ。それに加え……、気の毒に、俺に執着されているんだ」
俺の言葉に、宰相は声を上げて笑った。
「詰めが甘すぎましたな」
「時間をかけたかっただけだ」
「そんな悠長なことを言っているから、本人に他の娘を押し付けられるのですよ」
「うるさい」
雨は強く降り続き、激しく窓を叩きだした。
風が鳴り森の木々がごうごうと音を立て、ガタガタと窓を鳴らす。
「……神殿か。ゴードン、クロエを巻き込むとはいい度胸だな」
「このくらいしなければ動かない方にも問題はおありかと」
「はっ! 言うな」
声を上げて笑うと、宰相はすっと頭を下げた。
「これにて一旦下がらせていただきます。殿下、どうぞご無理はなさいませんよう」
「ああ。風も強くなりそうだしな」
窓の外にもう一度目を向けると、遠くで稲光が走るのが見えた。
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