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眠りの園
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ちゅうっ……くちゅ
「ふぅう……!」
眠りの園に、一人の王子がいました。
まだ年若い王子は顔を赤くしながら涙を一筋こぼしました。ぞくぞくした心地良さが腰から全身に広がっていきます。
眠りの園は墓地でした。名も無き人々の眠る土地はずいぶん昔に手入れがされなくなり、草花が自由に生えています。
月明かりの下で、王子の吐息がとろけました。
「ん……ぁ」
王子はたくし上げた服の裾で涙をぬぐいました。あらわになった素肌に赤い花がひとつ、ぴたりとくっついています。それは花びらをすぼめて王子の宝を包みこみ、もぞもぞと動いていました。
「もう、いいだろう……おねがい」
王子は花の中から自分の宝を引き抜こうとするのですが、身体に力が入りません。地面に膝をついて大きく息をはいたとき、赤い花はさっきより強い力で王子の宝に喰いつきました。
くちゅ!
「!!」
王子は頭を垂れて、近くにあった雑草をつかみました。何かにすがりついていないと我を忘れてしまいそうだったのです。
王子のしなやかな黒い髪はぼさぼさに乱れていました。王宮にいたときは寝ぐせひとつつけたことがなかったのに!
ほろりと、また涙がこぼれました。
貪欲な赤い花は王子の宝をひとつ残らず奪っていきました。
もう何も得るものがないとわかると、赤い花はするすると王子の身体から離れていきました。この花は明日の太陽が昇る前にしおれてしまうでしょう。昨夜、王子は別の赤い花に襲われました。あの花も、新しい光を浴びる前に土へ還っていったのです。
「うう、ひどい……」
身体がふらふらしています。赤い花は凶暴です。けれど、王子は乱暴されているあいだはなぜだか夢を見ているような心地がしました。
とろんとした目でおとなしくなった赤い花を見ると、花びらの奥で花蕊が小さく動いています。風が吹いているのではありません。何十本もの蕊が王子の宝をごくごく飲みこんでいるのです。
この赤い花は他の場所にも咲いているかもしれません。
亡くなった人の魂が芽を出したものだとなんとなく王子は考えていました。天上の星に召し上げられなかった罪人が大地の下から現れたのだと。赤い色は、彼らの怒りと嘆き、そして強い生命力の色であると。
花が咲くのは夜。暗がりの中でも赤い色が目に留まります。打ち捨てられた瓦礫の陰から立ち上がった花は「おいで、おいで」と王子を誘っているように見えました。
美しいと思って近づくと、赤い花は素晴らしい速さで襲いかかり、強盗のように哀れな人間の宝を奪っていきます。
花が静かになったので、王子はようやく気分が落ち着いてきました。衣服をととのえると、近くの大きな木の根元に座り、丸まって眠りました。
「朝日を見たくない……」
眠っているあいだに、自分も大地の下に潜っていけたら良いのに、と王子は思いました。死んだら自分も花の種に変身するのでしょうか。それは痛いのでしょうか。
花になった王子の魂も赤い色をしているのでしょうか?
つい先日のことが何百年も前のように感じられます。王子は大きな罪を犯しました。
王宮で、親交の深い隣国との晩餐会がおこなわれました。その大切な場で、王子はうっかり粗相をしたのです。
風邪が治ったばかりの病み上がりの身体で出席したため、頭がぼーっとしていて相手の国の名前を一文字まちがえてしまいました。たった一文字違うだけで、言葉は品のない暴言になりました。王子は弁解する時間も与えられませんでした。謝罪も断られてしまいました。華やかな食事の席はあっという間に冷めた雰囲気になりました。
次期国王となる第一王子は、食事会を台無しにしてしまったのです。
王子の失態は国の威厳と名誉に傷をつけました。会が終わったあと、父である現国王よりさまざまな王族の権利を剥奪されました。王子は着の身着のまま城の裏門からこっそり這い出しました。見送りをしてくれる人はいません。罪人の向かう場所は眠りの園です。荒地へ向かう道中、見張りの兵が数人立っていました。かつての王子に声をかける者はなく、昨日までの王子のかがやく笑顔を知っている者であっても、こっそり目をそらしました。
王子は、民草と同じ扱いで葬られる運命にありました。
ピューィ
ピピピ
どこからか鳥のさえずりが聞こえてきます。
王子は目を覚ましました。明るい光が眠りの園に降りそそいでいました。
起き上がって自分の身体を見てみると、まだ人間の形をしています。てのひらに刻まれた太い線を見つめながら、王子はため息をつきました。それと同時に、ほっとしていました。まだ生きています。
墓地の近くには川が流れています。王子は冷たい水をがまんして顔を洗いました。手ですくった水を飲んでみると、いくぶんさわやかな気持ちになりました。
ぬるい風が吹いています。川の上流を見ると、遠くに豊かな緑が広がっているようです。
「森だ」
ふいに王子の目がきらりと光りました。あとで探検してみようと思ったとき、ぽかぽかと体温が上がるのを感じました。そして、
ぐうー
そうです。王子は生きているのです。何か食べなければいけません。
お腹が鳴る音なんて、王宮にいたときはほとんど聞いたことがありませんでした。
王子は昨夜眠った木のある場所に戻ってくるまで、うつむきながら歩いていました。食べられる草を探していたのです。よく目をこらして、王宮で学んだことを思い出しながら。
それから眠りの園を簡単に歩き回ってみましたが、王子を襲った赤い花はどこにもありませんでした。予想していた通り、朝が来る前に大地の下で眠りについてしまったのでしょうか。
他に見つけた赤い色の花といえば、名前を知っている季節の花くらいでした。
「ふしぎだな……蕾すらないなんて」
月明かりにひっそりたたずむ妖艶な花。昨夜身体に触れられたときの感覚を思い出して、王子はぶるっと震えました。
一晩寝て起きてみれば、王子は自分の心が意外と元気であることに安心しました。
王子は罪を犯しました。しかし、罰として永遠に眠りの園に閉じこめられるわけではありませんでした。
赦しを請う権利は与えられていたのです。
眠りの園の墓守として務めを果たし、大地の下で眠る魂の安寧を祈ることが、王子に課せられた使命でした。
「たとえ王宮に帰れたとしても、もう『王子』には戻れないんだろうなあ」
おそらく、今ごろ自分の部屋はきれいに掃除されているでしょう。王子が全身全霊で反省しても、かつての日常はもう手に入らないことを知っていました。
気がつくと、ここは墓地だというのに死者のありかを示す墓石が見つかりません。丈の高い草花に隠されてしまったのでしょうか。
草むしりをするべきだろうか、と王子が辺りをきょろきょろしていると、風雨にさらされて崩れた建物が見えました。屋根は無く、柱と壁が残っているだけの廃墟です。ずうっと昔、眠りの園の墓守が使っていた小屋かもしれません。
王子は弟たちの顔を思い出しながら、廃墟のざらざらした壁をてのひらで撫でました。生まれたばかりの妹は、髪の毛がふわふわしていました。
「お腹すいたな……」
森まで行って木の実を探してみましょうか。ふと気配がして指先を見ると、アリが一匹よじ登っています。王子はしばらくのあいだ、小さな働きアリを眺めていました。やがて、ふうっと息を吹きかけてアリを草むらに落っことしてやりました。
「ん?」
アリが落ちていった先に、白い花が咲いていました。ツツジのような、ひらひらした可憐な花です。一輪だけ、廃墟の隅で太陽の光を浴びています。
王子はなんの気なしにその白い花を手折りました。
プチッと萼をむしると、ほんのりピンク色をした花のお尻から、透明な雫がたれてきます。王子はあわてて花を口にふくみました。幼いころ、庭に咲いている花をおやつにしていたことが思い出されます。
(甘い)
王子は白い花からにじみ出てくる蜜を味わいました。わずかな水分をちゅう、と吸い出します。
花のお尻に舌を這わせて最後の蜜を舐め取りました。
みずみずしさを失った白い花はしわしわになりました。王子は花の命を奪ったことに少しためらいがありましたが、それを両手に乗せて「ありがとう」と言いました。
花が生えていたところの地面を軽く掘り、しおれた花を埋めました。ふしぎなことに空腹はおさまっています。
墓守の小屋だったらしい廃墟は瓦礫だらけでした。王子は雨宿りできそうなわずかな空間を探して邪魔な石をどかしました。草むしりをしたらここに持ってきて寝床を作れるかもしれません。腕まくりした部分にはいつのまにか虫さされがひとつできていました。
王子は悲しくて泣いたりしませんでした。涙をこぼすのは赤い花に宝を奪われたときだけです。
日が高くなり、ぬるい風がびゅうと王子の黒髪を逆立てました。
王子は今、見晴らしの良い場所に立っています。眠りの園はどこにいても景色が良いのですが、ここは川のせせらぎが心地良く聞こえてきます。
草むらの中で王子は膝をつき、手を合わせました。それからしばらく默して大地の下で眠る死者に祈りを捧げました。
もしも王宮に戻れたとしても、もう王族として扱ってもらえないかもしれません。それならば、聖職者になってみるのもいいかもしれないと思いました。
眠りの園へたどり着いてからまだ少ししか経っていません。王子は、墓守とは名ばかりのただの少年でした。奇妙な花が咲く墓地から早く脱出したいと思っていました。
いつのまにか、死者への祈りはやがて自分が救われるための強い欲へと変わっていきます。
「どうか私をお助けください」
遠くで、または近くで、ギャーとしわがれた声が聞こえました。カラスのようです。餌を求めて徘徊しているのでしょう。
王子がうすく目を開けると、腕を伸ばしても届かない距離の先に一羽の黒いカラスがいました。顔を横に向けて、不気味な瞳でこちらをじっと見ています。緑の雑草に囲まれてぽつんとたたずんでいる黒い鳥はよく目立ちました。光の角度で青や紫に艶めく翼は美しいものです。
アンサツシロ
カラスがくちばしをひらきました。
ギャアー
王子は心の中に聞こえてきた「声」をつぶやきました。
「国王を暗殺しろ」
幻聴にしては、妙にはっきりと記憶に残りました。
血相を変えて王子が立ち上がると同時にカラスは飛び立ちました。青空を横切って森の方へ去っていきます。黒い点を見送りながら、王子はもう自分が昨日までの「王子」ではなくなったことを理解しました。
心の中に憎しみの芽が生まれました。
きれいな王子でいたかったのです。やさしい目をして、家族や国の民を慈しむ立派な王になりたかったのです。
王子はウサギのように素早く身をひるがえしました。
それから、ざぶん、と服を着たまま目の前の冷たい川に飛びこみました。
脱いだ服を草むらに広げて乾かしているあいだ、王子はさっきの白い花が他にもないかと近くを歩いていきました。なんだか甘いものが欲しかったのです。
見捨てられた墓地にやって来る人間はいません。王子が墓守の務めを果たしているか確かめるために王宮の者が訪れることもありませんでした。
はじめは拠点となる廃墟の小屋をうろうろしていましたが、王子は勇気を出してひらけた場所へ行ってみました。乾いた草は素足の裏に心地良く、さくさくと音を立てます。
ぬるい風が肌を撫でていきました。なんとなく身体が軽くなった気がして、王子は軽くジャンプをしてみました。
「あっ」
一瞬草むらの奥に白い花が見えました。そおっと近づくと、やっぱりそれは王子が求めていた白い花でした。
ぷちっ
手で軽くつまみ、太陽の光にかざしてみます。繊細な五枚の花びらは貴婦人が身にまとう華やかなドレスのようです。
王子はためらいなく花のお尻に口づけしました。ところが、舌でつんつんと触ってみても、甘い蜜はなかなか出てきません。王子はぐいぐい舌を押しこみました。唾液をからめて、じっくりと花のお尻を虐めてやったのです。
ほどなくして、魂の渇きを癒してくれる甘露がにじみ出てきました。王子は夢中で花に吸いつきました。
じりじりと素肌を焼く陽射しが、とても心地良く感じられました。
白い花を味わったあとは、しばらく空腹がおさまりました。服も乾いたようです。王子はお気に入りの詩をそらんじたりして午後のゆるやかな時間を過ごしました。
墓地は平和です。風が吹いて、花が揺れています。虫は緑の葉に上手く隠れていますし、鳥のさえずりは遠くから聞こえてくるだけです。人間は王子ひとりでした。
「小さな獣でもいればいいんだけどなあ」
川の向こうにある森へ行くには、ちょっとした準備が必要かもしれません。王子は先日読んだ冒険物語を思い出しながら、捕まえられそうな獣がいたらどうやって罠を仕掛けようかと思いを巡らせました。きちんと調理できるかは自信がなかったのですが。
バササッ
王子が草むらの真ん中であぐらをかきながら考えごとをしているとき、空から黒いものが飛んできました。さっきのカラスです。地面に降りる直前、素早く翼を動かして着地の衝撃をゆるめました。すぐそばに生えている雑草がバタバタとさわぎました。
「おまえ……」
王子は座ったままカラスをにらみつけました。カラスのことをとっさに「敵だ」と思いました。自分の心の底に黒い種を植えつけた敵です。
少し距離を置いた場所から、カラスは顔を横に向けてじっと王子を見ていました。よく肥えた大きな体。黒々とした翼の艶。人間を恐れない不遜な態度。
「あっちへ行け。石を投げるぞ」
威嚇しながら王子はちらりと周りを見るのですが、鳥を驚かせることができそうな小石は落ちていませんでした。
王子が怒った様子を見せても意にも介さず、カラスは器用にその辺りの地面をくちばしでつつき始めました。どうやら小さな虫を探しているようです。王子に拒絶されても知らんぷりしていました。
王子は立ち上がりました。何かを察したカラスはぴょんと飛び退いてこちらを見ています。
(自分は泣きながら大地の下に眠ることはないだろう)
大いなる怒りが身の内から湧いてきます。
王子はにこりともせずカラスを見下ろしました。捕まえようとして手を出したとき、
バッッ!!
カラスが急に頭を上げて翼を羽ばたかせました。
ギャーアァァァ
それは
鳥のしわがれた声だったのか
人間の悲鳴だったのか
誰にもわかりませんでした
カラスの鋭いくちばしが王子の胸の真ん中目がけて飛びこんでいきました。
………………ちゅう
ぬるり
王子は、自分は眠っているのだろうと思っていました。
赤い夢を見ているのだと。
今夜もなめらかな素肌にうっすら汗を浮かべて、王子は赤い花の前でひざまずいています。
これは、太陽が昇れば解放される夢なのでしょう。
死肉を求めてカラスが一羽舞い降りてきました。群れからはぐれたのでしょうか。つがいもいない、眠りもしない、むなしくギャーと鳴く孤独な闇のかたまりが月の光に照らされています。
「ふぅう……!」
眠りの園に、一人の王子がいました。
まだ年若い王子は顔を赤くしながら涙を一筋こぼしました。ぞくぞくした心地良さが腰から全身に広がっていきます。
眠りの園は墓地でした。名も無き人々の眠る土地はずいぶん昔に手入れがされなくなり、草花が自由に生えています。
月明かりの下で、王子の吐息がとろけました。
「ん……ぁ」
王子はたくし上げた服の裾で涙をぬぐいました。あらわになった素肌に赤い花がひとつ、ぴたりとくっついています。それは花びらをすぼめて王子の宝を包みこみ、もぞもぞと動いていました。
「もう、いいだろう……おねがい」
王子は花の中から自分の宝を引き抜こうとするのですが、身体に力が入りません。地面に膝をついて大きく息をはいたとき、赤い花はさっきより強い力で王子の宝に喰いつきました。
くちゅ!
「!!」
王子は頭を垂れて、近くにあった雑草をつかみました。何かにすがりついていないと我を忘れてしまいそうだったのです。
王子のしなやかな黒い髪はぼさぼさに乱れていました。王宮にいたときは寝ぐせひとつつけたことがなかったのに!
ほろりと、また涙がこぼれました。
貪欲な赤い花は王子の宝をひとつ残らず奪っていきました。
もう何も得るものがないとわかると、赤い花はするすると王子の身体から離れていきました。この花は明日の太陽が昇る前にしおれてしまうでしょう。昨夜、王子は別の赤い花に襲われました。あの花も、新しい光を浴びる前に土へ還っていったのです。
「うう、ひどい……」
身体がふらふらしています。赤い花は凶暴です。けれど、王子は乱暴されているあいだはなぜだか夢を見ているような心地がしました。
とろんとした目でおとなしくなった赤い花を見ると、花びらの奥で花蕊が小さく動いています。風が吹いているのではありません。何十本もの蕊が王子の宝をごくごく飲みこんでいるのです。
この赤い花は他の場所にも咲いているかもしれません。
亡くなった人の魂が芽を出したものだとなんとなく王子は考えていました。天上の星に召し上げられなかった罪人が大地の下から現れたのだと。赤い色は、彼らの怒りと嘆き、そして強い生命力の色であると。
花が咲くのは夜。暗がりの中でも赤い色が目に留まります。打ち捨てられた瓦礫の陰から立ち上がった花は「おいで、おいで」と王子を誘っているように見えました。
美しいと思って近づくと、赤い花は素晴らしい速さで襲いかかり、強盗のように哀れな人間の宝を奪っていきます。
花が静かになったので、王子はようやく気分が落ち着いてきました。衣服をととのえると、近くの大きな木の根元に座り、丸まって眠りました。
「朝日を見たくない……」
眠っているあいだに、自分も大地の下に潜っていけたら良いのに、と王子は思いました。死んだら自分も花の種に変身するのでしょうか。それは痛いのでしょうか。
花になった王子の魂も赤い色をしているのでしょうか?
つい先日のことが何百年も前のように感じられます。王子は大きな罪を犯しました。
王宮で、親交の深い隣国との晩餐会がおこなわれました。その大切な場で、王子はうっかり粗相をしたのです。
風邪が治ったばかりの病み上がりの身体で出席したため、頭がぼーっとしていて相手の国の名前を一文字まちがえてしまいました。たった一文字違うだけで、言葉は品のない暴言になりました。王子は弁解する時間も与えられませんでした。謝罪も断られてしまいました。華やかな食事の席はあっという間に冷めた雰囲気になりました。
次期国王となる第一王子は、食事会を台無しにしてしまったのです。
王子の失態は国の威厳と名誉に傷をつけました。会が終わったあと、父である現国王よりさまざまな王族の権利を剥奪されました。王子は着の身着のまま城の裏門からこっそり這い出しました。見送りをしてくれる人はいません。罪人の向かう場所は眠りの園です。荒地へ向かう道中、見張りの兵が数人立っていました。かつての王子に声をかける者はなく、昨日までの王子のかがやく笑顔を知っている者であっても、こっそり目をそらしました。
王子は、民草と同じ扱いで葬られる運命にありました。
ピューィ
ピピピ
どこからか鳥のさえずりが聞こえてきます。
王子は目を覚ましました。明るい光が眠りの園に降りそそいでいました。
起き上がって自分の身体を見てみると、まだ人間の形をしています。てのひらに刻まれた太い線を見つめながら、王子はため息をつきました。それと同時に、ほっとしていました。まだ生きています。
墓地の近くには川が流れています。王子は冷たい水をがまんして顔を洗いました。手ですくった水を飲んでみると、いくぶんさわやかな気持ちになりました。
ぬるい風が吹いています。川の上流を見ると、遠くに豊かな緑が広がっているようです。
「森だ」
ふいに王子の目がきらりと光りました。あとで探検してみようと思ったとき、ぽかぽかと体温が上がるのを感じました。そして、
ぐうー
そうです。王子は生きているのです。何か食べなければいけません。
お腹が鳴る音なんて、王宮にいたときはほとんど聞いたことがありませんでした。
王子は昨夜眠った木のある場所に戻ってくるまで、うつむきながら歩いていました。食べられる草を探していたのです。よく目をこらして、王宮で学んだことを思い出しながら。
それから眠りの園を簡単に歩き回ってみましたが、王子を襲った赤い花はどこにもありませんでした。予想していた通り、朝が来る前に大地の下で眠りについてしまったのでしょうか。
他に見つけた赤い色の花といえば、名前を知っている季節の花くらいでした。
「ふしぎだな……蕾すらないなんて」
月明かりにひっそりたたずむ妖艶な花。昨夜身体に触れられたときの感覚を思い出して、王子はぶるっと震えました。
一晩寝て起きてみれば、王子は自分の心が意外と元気であることに安心しました。
王子は罪を犯しました。しかし、罰として永遠に眠りの園に閉じこめられるわけではありませんでした。
赦しを請う権利は与えられていたのです。
眠りの園の墓守として務めを果たし、大地の下で眠る魂の安寧を祈ることが、王子に課せられた使命でした。
「たとえ王宮に帰れたとしても、もう『王子』には戻れないんだろうなあ」
おそらく、今ごろ自分の部屋はきれいに掃除されているでしょう。王子が全身全霊で反省しても、かつての日常はもう手に入らないことを知っていました。
気がつくと、ここは墓地だというのに死者のありかを示す墓石が見つかりません。丈の高い草花に隠されてしまったのでしょうか。
草むしりをするべきだろうか、と王子が辺りをきょろきょろしていると、風雨にさらされて崩れた建物が見えました。屋根は無く、柱と壁が残っているだけの廃墟です。ずうっと昔、眠りの園の墓守が使っていた小屋かもしれません。
王子は弟たちの顔を思い出しながら、廃墟のざらざらした壁をてのひらで撫でました。生まれたばかりの妹は、髪の毛がふわふわしていました。
「お腹すいたな……」
森まで行って木の実を探してみましょうか。ふと気配がして指先を見ると、アリが一匹よじ登っています。王子はしばらくのあいだ、小さな働きアリを眺めていました。やがて、ふうっと息を吹きかけてアリを草むらに落っことしてやりました。
「ん?」
アリが落ちていった先に、白い花が咲いていました。ツツジのような、ひらひらした可憐な花です。一輪だけ、廃墟の隅で太陽の光を浴びています。
王子はなんの気なしにその白い花を手折りました。
プチッと萼をむしると、ほんのりピンク色をした花のお尻から、透明な雫がたれてきます。王子はあわてて花を口にふくみました。幼いころ、庭に咲いている花をおやつにしていたことが思い出されます。
(甘い)
王子は白い花からにじみ出てくる蜜を味わいました。わずかな水分をちゅう、と吸い出します。
花のお尻に舌を這わせて最後の蜜を舐め取りました。
みずみずしさを失った白い花はしわしわになりました。王子は花の命を奪ったことに少しためらいがありましたが、それを両手に乗せて「ありがとう」と言いました。
花が生えていたところの地面を軽く掘り、しおれた花を埋めました。ふしぎなことに空腹はおさまっています。
墓守の小屋だったらしい廃墟は瓦礫だらけでした。王子は雨宿りできそうなわずかな空間を探して邪魔な石をどかしました。草むしりをしたらここに持ってきて寝床を作れるかもしれません。腕まくりした部分にはいつのまにか虫さされがひとつできていました。
王子は悲しくて泣いたりしませんでした。涙をこぼすのは赤い花に宝を奪われたときだけです。
日が高くなり、ぬるい風がびゅうと王子の黒髪を逆立てました。
王子は今、見晴らしの良い場所に立っています。眠りの園はどこにいても景色が良いのですが、ここは川のせせらぎが心地良く聞こえてきます。
草むらの中で王子は膝をつき、手を合わせました。それからしばらく默して大地の下で眠る死者に祈りを捧げました。
もしも王宮に戻れたとしても、もう王族として扱ってもらえないかもしれません。それならば、聖職者になってみるのもいいかもしれないと思いました。
眠りの園へたどり着いてからまだ少ししか経っていません。王子は、墓守とは名ばかりのただの少年でした。奇妙な花が咲く墓地から早く脱出したいと思っていました。
いつのまにか、死者への祈りはやがて自分が救われるための強い欲へと変わっていきます。
「どうか私をお助けください」
遠くで、または近くで、ギャーとしわがれた声が聞こえました。カラスのようです。餌を求めて徘徊しているのでしょう。
王子がうすく目を開けると、腕を伸ばしても届かない距離の先に一羽の黒いカラスがいました。顔を横に向けて、不気味な瞳でこちらをじっと見ています。緑の雑草に囲まれてぽつんとたたずんでいる黒い鳥はよく目立ちました。光の角度で青や紫に艶めく翼は美しいものです。
アンサツシロ
カラスがくちばしをひらきました。
ギャアー
王子は心の中に聞こえてきた「声」をつぶやきました。
「国王を暗殺しろ」
幻聴にしては、妙にはっきりと記憶に残りました。
血相を変えて王子が立ち上がると同時にカラスは飛び立ちました。青空を横切って森の方へ去っていきます。黒い点を見送りながら、王子はもう自分が昨日までの「王子」ではなくなったことを理解しました。
心の中に憎しみの芽が生まれました。
きれいな王子でいたかったのです。やさしい目をして、家族や国の民を慈しむ立派な王になりたかったのです。
王子はウサギのように素早く身をひるがえしました。
それから、ざぶん、と服を着たまま目の前の冷たい川に飛びこみました。
脱いだ服を草むらに広げて乾かしているあいだ、王子はさっきの白い花が他にもないかと近くを歩いていきました。なんだか甘いものが欲しかったのです。
見捨てられた墓地にやって来る人間はいません。王子が墓守の務めを果たしているか確かめるために王宮の者が訪れることもありませんでした。
はじめは拠点となる廃墟の小屋をうろうろしていましたが、王子は勇気を出してひらけた場所へ行ってみました。乾いた草は素足の裏に心地良く、さくさくと音を立てます。
ぬるい風が肌を撫でていきました。なんとなく身体が軽くなった気がして、王子は軽くジャンプをしてみました。
「あっ」
一瞬草むらの奥に白い花が見えました。そおっと近づくと、やっぱりそれは王子が求めていた白い花でした。
ぷちっ
手で軽くつまみ、太陽の光にかざしてみます。繊細な五枚の花びらは貴婦人が身にまとう華やかなドレスのようです。
王子はためらいなく花のお尻に口づけしました。ところが、舌でつんつんと触ってみても、甘い蜜はなかなか出てきません。王子はぐいぐい舌を押しこみました。唾液をからめて、じっくりと花のお尻を虐めてやったのです。
ほどなくして、魂の渇きを癒してくれる甘露がにじみ出てきました。王子は夢中で花に吸いつきました。
じりじりと素肌を焼く陽射しが、とても心地良く感じられました。
白い花を味わったあとは、しばらく空腹がおさまりました。服も乾いたようです。王子はお気に入りの詩をそらんじたりして午後のゆるやかな時間を過ごしました。
墓地は平和です。風が吹いて、花が揺れています。虫は緑の葉に上手く隠れていますし、鳥のさえずりは遠くから聞こえてくるだけです。人間は王子ひとりでした。
「小さな獣でもいればいいんだけどなあ」
川の向こうにある森へ行くには、ちょっとした準備が必要かもしれません。王子は先日読んだ冒険物語を思い出しながら、捕まえられそうな獣がいたらどうやって罠を仕掛けようかと思いを巡らせました。きちんと調理できるかは自信がなかったのですが。
バササッ
王子が草むらの真ん中であぐらをかきながら考えごとをしているとき、空から黒いものが飛んできました。さっきのカラスです。地面に降りる直前、素早く翼を動かして着地の衝撃をゆるめました。すぐそばに生えている雑草がバタバタとさわぎました。
「おまえ……」
王子は座ったままカラスをにらみつけました。カラスのことをとっさに「敵だ」と思いました。自分の心の底に黒い種を植えつけた敵です。
少し距離を置いた場所から、カラスは顔を横に向けてじっと王子を見ていました。よく肥えた大きな体。黒々とした翼の艶。人間を恐れない不遜な態度。
「あっちへ行け。石を投げるぞ」
威嚇しながら王子はちらりと周りを見るのですが、鳥を驚かせることができそうな小石は落ちていませんでした。
王子が怒った様子を見せても意にも介さず、カラスは器用にその辺りの地面をくちばしでつつき始めました。どうやら小さな虫を探しているようです。王子に拒絶されても知らんぷりしていました。
王子は立ち上がりました。何かを察したカラスはぴょんと飛び退いてこちらを見ています。
(自分は泣きながら大地の下に眠ることはないだろう)
大いなる怒りが身の内から湧いてきます。
王子はにこりともせずカラスを見下ろしました。捕まえようとして手を出したとき、
バッッ!!
カラスが急に頭を上げて翼を羽ばたかせました。
ギャーアァァァ
それは
鳥のしわがれた声だったのか
人間の悲鳴だったのか
誰にもわかりませんでした
カラスの鋭いくちばしが王子の胸の真ん中目がけて飛びこんでいきました。
………………ちゅう
ぬるり
王子は、自分は眠っているのだろうと思っていました。
赤い夢を見ているのだと。
今夜もなめらかな素肌にうっすら汗を浮かべて、王子は赤い花の前でひざまずいています。
これは、太陽が昇れば解放される夢なのでしょう。
死肉を求めてカラスが一羽舞い降りてきました。群れからはぐれたのでしょうか。つがいもいない、眠りもしない、むなしくギャーと鳴く孤独な闇のかたまりが月の光に照らされています。
応援ありがとうございます!
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