最後の十分

つらつらつらら

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5・野薔薇

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 美術部は週三回、特別練習は週末の三十分。銀杏ぎんなんは土日のあいだに入部届を書いてしまおうかと思っていた。一応、仮入部の後でもいいと日日草にちにちそうに言われたのだが、迷う理由が思いつかなかった。

 銀杏は家に帰って自分の部屋にこもり、いつも使っているスケッチブックを引っ張り出してきた。安い紙に気楽に描いた空の風景をパラパラめくって、新しい一ページを開く。真っ白でさらさらの紙だ。

 銀杏はベッドに座り、楽な姿勢で鉛筆を持った。シャープペンシルでも良いのだが、鉛筆のやわらかな描き心地が好きだった。丸みを帯びた芯が紙に触れたとき、銀杏はなんとなく手癖で人物のラインをとった。巻耳おなもみ先輩がポーズをとってくれたことを思い出しながら。顔のパーツは適当にくっつけておく。

「……」

 ……違う。これじゃない。形と記憶が一致しないので、練り消しを紙の上で転がした。練り消しは消しゴムよりカスが出ないので重宝するのだ。あと、紙がぐしゃっとなりにくい。

 何度か挑戦してみたあと、やっとそれっぽいポーズができた。人物画の資料なら本棚に入っているのだが、手を伸ばすのが面倒だったため、銀杏は惰性だせいで絵を描き続けた。とにかく今日見た衝撃をアウトプットしておきたかった。

 男性のお尻の形はピーマンを参考にすると良いと聞いたことがある。銀杏は一本の細長いヒモを描き足し、の中の少年にまとわりつかせた。
 おや、なかなかえっちな感じにできたのではないか……?
 銀杏は一度スケッチブックから顔を上げて、画面全体をぼんやり見渡した。

「…………違う。これじゃない」

 うーーーん。目を細めて自己嫌悪におちいる。これは……下手だ。
 正気になったせいか、銀杏はなんだか恥ずかしくなってきた。絶対に紙の裏から透かして見たくない。描いた絵をビリッと破いてゴミ箱に捨てた。
 あきらめて本棚へ向かう。人物画の資料をパラパラ見ながら、もっと上手になりたいと思った。
 もやもやした思いを形にしたい。


「おはよー、銀杏」

 週が明けて登校すると、教室にはすでに日日草が窓際の席で待っていた。銀杏も挨拶を返して隣に座り、学生かばんを開ける。階段が長かったので少し息がはずんでいた。

「日日草……、一年生の教室が三階にあるのってつらいよね」
「ははは、僕は去年も三階まで往復したぜ。なんなら美術部の部室も三階だから」
「ゴリラじゃん……」

 日日草は得意そうに笑ってこぶしで胸を叩いた。落ち着いた色のブレザーに彼の明るい髪はよく映える。
 始業のチャイムと一緒に担任が教室に入ってくるまでの自由時間、周囲のおしゃべりは動物園のようににぎやかだった。その中であっても、日日草の軽やかな声は銀杏の耳に心地よく聞こえた。

「銀杏、今日は月曜だからクラブあるけど、一緒に来るかい?」
「うん。一応自分のスケッチブック持ってきたよ。あとで見せるね」
「オッケー」

 銀杏はかばんに手を入れてスケッチブックの表紙だけをチラと見せた。一般人(!)が多いところで趣味をさらすのはちょっと恥ずかしい。


 今日の美術部はなんだか真面目な雰囲気だった。生徒のおしゃべりがひかえめなせいかもしれない。二年の先輩、巻耳おなもみと三年の鳥兜とりかぶとはまだ来ていない。先日の刺激的な場面を思い出した銀杏は、彼らにどんな顔をして会えばいいのかわからなかったので少しほっとした。

 銀杏が日日草に連れられて部室に入ったとき、前回はいなかった人がいることに気がついた。
 メガネをかけた知的な印象の生徒は、部室の後ろ半分に並べられた机のひとつに座って絵筆を動かしていた。

「こんにちは」

 日日草も真面目な声で挨拶した。顔を上げた相手は茶褐色の髪を耳にかけて大人びた雰囲気をしている。銀杏は緊張しながら日日草の後についていった。

野薔薇のばら部長、入部希望の子を連れてきました」
「まだ仮入部期間なのに、意志が強いね」

 野薔薇、と呼ばれた背の高い生徒は持っていた絵筆を陶製とうせいの水入れの上に置き、イスから立ち上がった。

「こんにちは。銀杏といいます……」
「部長の野薔薇です。よろしく」

 部長という偉い人を前にして、銀杏はかたい声を出してしまった。野薔薇は口の端をゆるめただけでほほ笑みはしなかったが、穏やかな表情はなんだか貴族のように見えた。

 野薔薇がいくつか入部に関する注意事項を伝えたあと、作業中の作品に戻ろうとした彼を日日草が呼び止めた。

「先輩、よかったら銀杏の絵を見てあげてください」
「えっ、え? いや、ほんのらくがきだし!? あとでちゃんとしたもの持ってくるから……」

 突然何を言い出すのか。ぎょっとして銀杏は声がうわずった。日日草はにやにやしながら銀杏を横目で見ている。野薔薇も興味を持ったのか、作業中の水彩絵具のパレットのふたを閉めた。

「俺からもお願いできるかな」
「は……はーい……」

 観念した銀杏は手にげていた学生かばんを開けて、おそるおそるスケッチブックを取り出した。日日草に渡すと、彼はみんなに見えるように近くの机に置いた。野薔薇と、他にも暇な部員が何人か寄ってくる。まるで公開処刑のようで、銀杏は穴があったら入りたくなった。日日草にだけ見せてあげようと思っていたのに。あと、ファンとしてしたっている巻耳先輩にも……。

「それじゃあいくよー」

 日日草が陽気な声でスケッチブックを開く。最初のページには銀杏の家の庭から見える青空が描かれていた。水彩絵具で簡単に色をつけてある。

 おおー、と声をもらす部員たちの横で、ふと野薔薇が青空の濃い色の部分を指さして言った。

「この青、綺麗だね。ウルトラマリンとプルシャンブルーを混ぜた色かな」
「あっ、はい! あと、少しだけ緑が入ってるんです……」

 緑。この「隠し味」は秘密にしておこうと思っていたのだが…………銀杏はつい色の名前まで明かしてしまった。野薔薇はうなずいて、にごらない色の組み合わせだ、と静かな声で分析した。

「ありがとう……ございます……」

 野薔薇の言う「綺麗だね」は、ただのお世辞ではないと感じた。使った絵具まで当てられた。絵描きの本質を見抜かれた銀杏は野薔薇に対して降伏と信頼を誓った。

 他にも、夕焼けの雲の暗い色がどうとか、冬の青空と柿の木のオレンジ色のバランスが良いとか、日日草や他の部員にも褒められて、はじめはカチカチに緊張していた銀杏は魂が浄化されてしまった。新入生ということで「おもてなし」をされているのだが、素直に嬉しかった。ああ、絵を描くのって楽しい。

 日日草がスケッチブックを閉じる。銀杏を見てにやりとしたので、銀杏は今日も特別な収穫を得たことに感謝せざるを得なかった。
 なごやかな時間は終わり、野薔薇部長が壁の時計を見た。

「今日は顧問の先生も来るから。君の絵も見てもらうといい」
「わあ……、はい」

 顧問の先生が来たらすぐに入部届を出してしまおうか。銀杏はもどかしさと期待でごちゃごちゃした感情になっていた。




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