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4・濃厚な三十分
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チャイムが鳴る。文化部は終了の合図だ。
巻耳は顔を真っ赤にして呼吸を整えていた。一年生の銀杏とにこにこしながら話していたときとは別人のようだった。しかしちらりと見えた彼の横顔には艶があり、なんだか満足そうである。
巻耳はよろよろしながら制服を身に着けた。身体に力が入らないのか、ずっと無言で先輩の鳥兜に寄りかかっている。背の高い鳥兜は小柄な少年に腕を回して支えていた。巻耳の肌を舐めた触手は再びビンの中に封印されている。
鳥兜は巻耳を刺激しないように、低く静かな声で日日草を呼んだ。
「日日草、俺たちの荷物を頼む。俺のは廊下に近いところ」
「はい」
日日草が立ち上がって部室の後ろ側に行く。並べられた机に生徒のかばんや画材が散らばっている。日日草は二つのかばんを手に取った。端がすりむけてちょっと古くなったものと、グレーの猫のバッジが付いたものだ。
鳥兜はみんなが見ている前で巻耳をお姫様抱っこした。巻耳は顔をうつむけて先輩の肩に頭をもたせかける。
何が起こっているんだ……?
銀杏は疑問と感謝がない混ぜになっていた。三十分……準備時間をのぞけば二十分くらいではあったが、こっそり本で読んだときのような刺激的なシーンが目の前で繰り広げられていた。
そして、保護者のような先輩と、彼に身をゆだねている少年と。二人の仲睦まじい姿を見せられて、銀杏はふしぎな憧れに似た気持ちを感じていた。
日日草が持ってきた荷物を先輩に渡しているあいだも、周りにいた部員はなかなか帰り支度を始めなかった。鳥兜に帰宅をうながされるギリギリまで、自分のスケッチブックやノートを真っ黒にしていた。
寝食を忘れて打ち込む、という表現が合うだろうか。銀杏にとっての絵に対する気持ちは「好き」レベルだが、彼らはそれを超えた情熱と執念を持っていた。欲望と言えばそれまでだが……。
最後に鳥兜が銀杏へ声をかけた。
「新入生の子。うちのクラブはこういう特殊なことやってるけど、気に入ったらまた見に来るといい。それと日日草、部室に残るなら戸締まりも頼むぞ」
「は、はい」
「了解です」
日日草はイーゼルに囲まれた机に近寄った。脚付きの皿にコロンと置かれたリンゴとバナナをつかみ、鳥兜に抱っこされている巻耳のお腹の上にそっと乗せる。巻耳はうつむいて顔を隠している。鳥兜がお礼を言った。
「ありがとう」
「おつかれさまでした」
日日草に続いて部員全員も挨拶する。
鳥兜は巻耳を腕に抱いたまま、二人分のかばんを持って部室から出ていった。
彼らの後ろ姿を見送りながら、銀杏もやっと夢のような体験から現実に帰ってくる思いがした。心の中に謎の熱いエネルギーが生まれている。周囲のやる気に影響を受けて右手がうずいているのかもしれない。
「じゃあね、日日草」
「ばいばい」
部員たちが荷物を持って次々と部室から出ていった。銀杏は上の空で先輩たちにぺこりとお辞儀をした。
誰もいなくなった美術部の部室は広かった。カーテンを引いていない窓から夕陽が差してくる。明るいオレンジ色の光はあたたかく、部屋の照明はいらなかった。
「どう? 面白かった?」
日日草がぼんやりしている銀杏にたずねる。銀杏は色々考えていたのだが、うまく言葉が出てこない。
「……すごかった」
「この特別練習は週に一回やるんだ。モデルをやった一部の人は謎の自意識が満たされる」
日日草は近くにある木製のスツールに腰かけた。銀杏を手招きする。銀杏は机の上の空になった皿を見て少し心配になった。
「果物あげちゃったけど、デッサンに使うんじゃなかったの?」
「いいんだ。これは今日のモデルへの報酬」
報酬にしては安い気がするが……。銀杏の表情を見て日日草は言葉を足す。
「大丈夫だよ。今日のためにみんなもう描き上げてあるから。それに、巻耳はリンゴやバナナよりもっと良いものをもらえる」
「良いもの?」
首をかしげている銀杏に、日日草はいたずらっぽい笑みを見せた。
「今、巻耳と鳥兜先輩は二人きりってことだよ」
「……はっ」
何かを察した銀杏はそれ以上問うのをやめた。
巻耳は顔を真っ赤にして呼吸を整えていた。一年生の銀杏とにこにこしながら話していたときとは別人のようだった。しかしちらりと見えた彼の横顔には艶があり、なんだか満足そうである。
巻耳はよろよろしながら制服を身に着けた。身体に力が入らないのか、ずっと無言で先輩の鳥兜に寄りかかっている。背の高い鳥兜は小柄な少年に腕を回して支えていた。巻耳の肌を舐めた触手は再びビンの中に封印されている。
鳥兜は巻耳を刺激しないように、低く静かな声で日日草を呼んだ。
「日日草、俺たちの荷物を頼む。俺のは廊下に近いところ」
「はい」
日日草が立ち上がって部室の後ろ側に行く。並べられた机に生徒のかばんや画材が散らばっている。日日草は二つのかばんを手に取った。端がすりむけてちょっと古くなったものと、グレーの猫のバッジが付いたものだ。
鳥兜はみんなが見ている前で巻耳をお姫様抱っこした。巻耳は顔をうつむけて先輩の肩に頭をもたせかける。
何が起こっているんだ……?
銀杏は疑問と感謝がない混ぜになっていた。三十分……準備時間をのぞけば二十分くらいではあったが、こっそり本で読んだときのような刺激的なシーンが目の前で繰り広げられていた。
そして、保護者のような先輩と、彼に身をゆだねている少年と。二人の仲睦まじい姿を見せられて、銀杏はふしぎな憧れに似た気持ちを感じていた。
日日草が持ってきた荷物を先輩に渡しているあいだも、周りにいた部員はなかなか帰り支度を始めなかった。鳥兜に帰宅をうながされるギリギリまで、自分のスケッチブックやノートを真っ黒にしていた。
寝食を忘れて打ち込む、という表現が合うだろうか。銀杏にとっての絵に対する気持ちは「好き」レベルだが、彼らはそれを超えた情熱と執念を持っていた。欲望と言えばそれまでだが……。
最後に鳥兜が銀杏へ声をかけた。
「新入生の子。うちのクラブはこういう特殊なことやってるけど、気に入ったらまた見に来るといい。それと日日草、部室に残るなら戸締まりも頼むぞ」
「は、はい」
「了解です」
日日草はイーゼルに囲まれた机に近寄った。脚付きの皿にコロンと置かれたリンゴとバナナをつかみ、鳥兜に抱っこされている巻耳のお腹の上にそっと乗せる。巻耳はうつむいて顔を隠している。鳥兜がお礼を言った。
「ありがとう」
「おつかれさまでした」
日日草に続いて部員全員も挨拶する。
鳥兜は巻耳を腕に抱いたまま、二人分のかばんを持って部室から出ていった。
彼らの後ろ姿を見送りながら、銀杏もやっと夢のような体験から現実に帰ってくる思いがした。心の中に謎の熱いエネルギーが生まれている。周囲のやる気に影響を受けて右手がうずいているのかもしれない。
「じゃあね、日日草」
「ばいばい」
部員たちが荷物を持って次々と部室から出ていった。銀杏は上の空で先輩たちにぺこりとお辞儀をした。
誰もいなくなった美術部の部室は広かった。カーテンを引いていない窓から夕陽が差してくる。明るいオレンジ色の光はあたたかく、部屋の照明はいらなかった。
「どう? 面白かった?」
日日草がぼんやりしている銀杏にたずねる。銀杏は色々考えていたのだが、うまく言葉が出てこない。
「……すごかった」
「この特別練習は週に一回やるんだ。モデルをやった一部の人は謎の自意識が満たされる」
日日草は近くにある木製のスツールに腰かけた。銀杏を手招きする。銀杏は机の上の空になった皿を見て少し心配になった。
「果物あげちゃったけど、デッサンに使うんじゃなかったの?」
「いいんだ。これは今日のモデルへの報酬」
報酬にしては安い気がするが……。銀杏の表情を見て日日草は言葉を足す。
「大丈夫だよ。今日のためにみんなもう描き上げてあるから。それに、巻耳はリンゴやバナナよりもっと良いものをもらえる」
「良いもの?」
首をかしげている銀杏に、日日草はいたずらっぽい笑みを見せた。
「今、巻耳と鳥兜先輩は二人きりってことだよ」
「……はっ」
何かを察した銀杏はそれ以上問うのをやめた。
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