【完結】人魚姫だけどこの場合は王子を刺しても仕方ないよね

雪野原よる

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後日談1 シアン

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「シアン!」「シアン」「シアン!」

 私の名前を呼ぶ声が、いくつも海の波の中に渦巻いた。

 細い白い手が何本も伸びてくる。私を掴み、引き寄せるその腕の中に、皺の寄った手や、太くいかつい腕も混じっているのを見て、私は自然と微笑んでいた。

(……みんな!)

「み……みんな、ただいま」
「おかえり!!!」

 声を出すのは久しぶりだ。しばらく使っていなかった声は喉に引っかかって、頼りなく掠れていたけれど、自分のものを取り戻せた喜びが胸の底で騒いだ。

 嬉しい。嬉しい、嬉しい!

 帰って来られた!





 船上で、私は正々堂々と王子様と一騎打ちして(王子様は最後まで私を舐めて掛かっていたけれど)、彼の心臓にナイフを一突きして仕留め、周りの人々が呆然としている隙に、勢いよく海の中に飛び込んだ。

 散々「馬の骨」と私を軽く扱ったのだから、もともと、私は得体が知れない者だと分かっていたはず。ナイフを向けられて、それから驚いている場合ではないと思うわ。王族として、あまりに底が浅すぎる。

 とにかく……私は、自由だ!

 不格好な人間の足は掻き消えて、代わりに滑らかな尾びれが優雅にくねった。泳ぐことを覚えたばかりの幼い人魚のように、わざわざ海水を叩いて大きく波紋を広げる。全てがしっくりと、カチッと嵌まる感じがした。泳げる! 私はまた泳げるわ!

「シアン」「シアン」

 お姉さまたちが同時に私を抱き締めようとして、私も抱き着こうとしたけれど、何しろお姉さまたちは五人もいるので大分混乱が生じた。でも結局、私はひとりひとりに抱き締められて、私も抱き締め返した。

「お姉さまたち、ありがとう」

 お姉さまたちの短くなった髪が、海の水の中でたなびく。

 明日になったら、ありったけの真珠を集めて、珊瑚と琥珀を連ねて、お姉さまたちの髪を飾る飾りを作ろう。お祖母さまと、お父さまにも何か……何がいいかしら?

 人魚は泣けないと言うけれど、だからといって深い感情が無いわけじゃない。水の中では、涙を流す機能が無意味なだけだ。私は人になっていた時、遠くの海上にお祖母さまやお父さまを見て、涙を流すことを覚えた。今はもう泣かないけれど、

「お祖母さま!」
「シアン……シアン」
「私を叱って、お祖母さま」
「何を言って……全くもう、馬鹿な子……」

 身を震わせながら、お祖母さまが私を抱き締めた時、本当に胸が締め付けられて泣きたくなった。

 その身体は痩せて、骨ばって、記憶にあるよりずっと小さくて。信じられないほど脆く感じられた。(私が帰って来なかったら、亡くなられていたかもしれない)──そんな考えが胸中をよぎって、ゾッとした。

 泣き笑いしたくなるような気持ちで、お祖母さまの肩に押し付けていた顔を上げたとき、少し離れて手をまごまごさせながら佇んでいるお父さまの姿が目に入って、今度は笑ってしまった。

 お父さまは偉大なる大王だけれど、不器用だから、女ばかりの海底城で、いつもどこか浮いている感じがあった。今も、私たちの間に上手く混じれなくて気まずそうにしている。私と目が合うと、いかつく太い眉がへにょりと下がった。

「お父さま、戻りました」
「あ、ああ。……よくぞ戻った」

 本当に、帰って来られて良かった。

 お父さまの頭の両側に、鮮やかな色をした小魚たちが泳いでいる。お父さまの気持ちを表すように、ぴょんぴょん跳ねたりくるくる回ったりしているのを見て、私は晴れ晴れとした気持ちでにっこりした。





 その夜は、お城の大広間に即席の布団を並べて皆で眠った。

 私を真ん中にして、隣にはお祖母さま。周りを取り囲むようにお姉さまたちがきゃあきゃあと場所を取り合って、遠慮したお父さまは少し離れて、扉の側に。

 こんな風に、家族全員で一つところで寝るなんて、子供の頃だってしなかったことだ。でも子供に返ったみたいで楽しいのは……ひょっとして、私たちがもう子供ではないからかもしれない。

「お祖母さま」
「お休みなさい、シアン」

 真っ直ぐ横たわったお祖母さまが、厳めしく言う。

 それからしばらく沈黙があって、

「……貴方が帰ってきて……嬉しく思いますよ」

 顔を背けて、ぼそりと言った。

 ごく小さな、囁くような声で。

「はい、お祖母さま」
「……」

 それきり返事は返って来なかったけれど。

 傍にあるお祖母さまの手を握っても、振りほどかれることはなかった。

 はしゃいでいたお姉さまたちはすぐに眠ってしまって、眠りの中でも泳いでいるのか、たまに私の寝床の中まで転がってきた。布団の波間に投げ出されたほっそりした白い手、短くなった髪や温かい頬。私はひとり、目を覚ましたまま、貝の形を象った王宮の天井が、ゆったりとした波が打ち寄せるままに浮かび上がったり、ぴったりと閉まったりするさまを見上げていた。

 深い海の底で光る魚や生き物たちが、微かにその身を光らせて泳ぎ過ぎていく。

 懐かしい故郷。

 帰ってきたんだわ。

 身体の奥で、幸福の熱がちりちりと胸を焦がした。
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