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12.貴方の染み
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血の匂い。辺り一面に立ち込めている。
嗅覚は、すぐに麻痺する。
使い物にならない。遮断する。
一番強く感じ取れるのは温度だ。空気を揺らすもの。冷たい恐怖。殺意。圧縮され、熱を帯びる呼気。人間の発するもの。
感じるのと、動くのは同時だ。剣を跳ね上げ、切り落とし、裂き、反動で撃ち返す。
歩き、斬り、歩き、突き殺し、歩く。
少しずつ動いていく地平に、埋め尽くされる敵。
自分の前に、死者が重なり合って道を拓くさまを幻視する。
数十秒先の未来。
立ち昇る、濃厚な血の匂いに、無意識に眉を顰める。鉄の風味を纏った酸素を吸い込む。嗅覚は、本当に足手まといだ。どのみち、さして時間もかからず再び麻痺するだろうが。
辺り一面に広がる血と、血肉の中で、私は──
「……わあぁっ!」
喉の奥から、叫びの塊を吐き出すように、私は仰け反った。
手が、虚空を掴んであがく。
「主殿? 大丈夫かね?」
落ち着いた声とともに、乾いた大きな手のひらが、私の手を包み込んだ。
私はしばらくはあはあと荒い呼吸を繰り返し、唾を飲み込んで、それから目の前の彼を見上げた。
「……あれ? 殿下?」
見慣れた金の眼が、じっと私を見下ろしている。顎の辺りの筋肉がやや強張ってはいるが、平静に私を観察する眼差し。
その顔を見た途端、一気に全身の力が抜けた。
「あの……私、いったい」
夢でも見ていたのだろうか。それにしては、暗く、重たくのしかかって来る夢の光景が、あまりに現実らしくて、未だに目の前にちらついている。
落ち着こうとして、周囲をきょろきょろと見回していると、殿下の手に力が篭った。
「……主殿、すまない」
「え? イシルディア殿下?」
何を謝られたのだろう?
「君に、染みをつけてしまった」
染み?
問いかける前に、私の手を片手で包んだまま、もう一方の手が上がり、私の頬に触れた。汗で貼り付いた髪を指先でそっと退け、額へ上ってくる。
「……殿下。その、私、汗かいて……」
「冷えている。これでは風邪を引きそうだな」
ばさっと音を立てて、殿下が私の肩に、温かいマントを羽織らせてくれた。
身を起こし、寝台を離れていく殿下を、私はぼーっと見ていて……ん? 寝台?
(知らない部屋だ)
薄明が差し込む、妙にがらんとした広い部屋。調度品は立派で、品格が高く、そして生活感がない。客用寝室か何かのようだ。
「私の邸のひとつに運んだんだ。ギルドからの帰りに、君がいきなり倒れたのでね」
「え? えと、それは、ご迷惑をお掛けして……」
「君の責任じゃない。それより、少し、歩けるかね?」
「はい」
ぎこちなく足を動かし、殿下の後に続いた。隣室に通され、すでにお茶の支度が整っているテーブルに着かされる。横に立って、テーブルに最後の仕上げをしているのは、見たことがある土気色の顔をした執事だった。
「あ、ゴラムさん」
イシルディア殿下に仕える、ゴーレム執事だ。
私が名を呼ぶと、私に向けて深々とお辞儀をし、それから殿下の指図を仰ぐようにそちらを向いた。
「ご苦労だった」
「はい。では、クロエ様、どうぞお大事に」
それだけ述べて、丁重な足取りで下がっていく。
その後ろ姿を見送っていると、殿下がぼそりと言った。
「主殿。温かいものでも飲んで、身体を温めたほうがいい。顔色が真っ白だ」
「は、はい」
温かい、ミルクと花の匂いのするお茶。カップを持ち上げて、ちびちびと飲みながら、私はその香りを吸い込んだ。少し、正気に戻れた気がする。これはあの匂いとは違う。一面に立ち込める、血と、死の匂いとは──
「それで、何を見たのかね?」
唐突に問いかけられて、喉がひゅっと鳴った。
見上げると、向かいに腰を下ろした殿下が、半ば眉を顰めてこちらを見ている。
「それは……」
「推測はついているが。人を沢山殺す夢。それとも魔物か。どのみち、血腥い夢だろう」
「……はい」
「それは私の記憶だ。いや、実際にあったことそのままではなく、色々な記憶の混ぜこぜからできたイメージだが。ろくでもないものを見せてしまったな。……すまなかった」
殿下は不機嫌そうだ。もちろん、私に怒っているわけではないみたいだけれど。
「殿下? それは、殿下が謝られるようなことなんでしょうか?」
「この現象自体は、私の知るところではない……と、言いたいところなんだが。いつかはこうなるだろうと、少し前から分かっていたんだ」
「?」
「記憶の共有だ。君と再度契約を結んでから、少しして、君の記憶の断片を夢に見た」
「えっ」
そんなことがあるのだろうか。あったとしたら。……何を、見られたの?
(恥ずかしいこととかだったら、どうしよう)
私は本当に、全く、全然、聖人君子というわけじゃないのだ。
青くなったり赤くなったりしている私を見ていて、殿下はちらりと苦笑を覗かせた。
幾分、彼を縛っていた硬い空気が解けて、瞳に穏やかな光が浮かぶ。
「気分が和むような、いい夢だったよ。家族と食卓を囲んで、食べ物の美味しさに感極まったり、真新しい本の表紙をいつまでも飽かず撫でていたり、遠くから家の灯を見て懐かしさに耽ったりしていた。なるほど、幸せというのはこういうものなのか、と思ったな」
淡々と話してくれる内容は、殿下が気を遣ってくれているのか、さほど恥ずかしいものではない、とは思うものの……やはり私は気恥ずかしくて、椅子の上で身を捩りたくなるのを堪えた。
「……殿下に、色々、私のことが筒抜けになってるってことですか」
「いや、そこまでは。ごく僅かな断片、たまに浮かぶ印象みたいなものだ。もっとも、私もどんな仕組みになっているのか分からない。人間同士で、召喚士と召喚獣の契約を結んだせいか? 同じ種ゆえに、共振の度合いが大きいのか、それとも、我々が魔力を共有する頻度と密度が高すぎるのか。推論でしかないし、今まで、主殿が私の夢を見るという確信もなかった。だから、黙って、話を先延ばしにしていたんだが」
殿下の声音には、はっきりと悔恨の色が滲み出ていたので、私は急いで言った。
「それって、殿下は全く悪くないじゃないですか。謝ったりしないで下さい」
「悪いと思っているのは、君と記憶を共有した、そのこと自体ではないよ」
「何であってもです。殿下の記憶がどんなものであっても、殿下のことを全然知らないでいるよりは、知っていた方がずっといいです」
力を込めて言った。
殿下は目を丸くし、それから軽く笑いを堪える顔になった。
「さすがは、私の主殿だな」
そのまま、瞳を閉じる。
「私は、……嫌だった。私の中の昏いものが、君の幸福な輝きに染みをつけるのが嫌だったんだ。私は、このとおり、あまりまともな生き方をしていない。後悔をしているわけではないが……」
私は、ごくりと唾を呑み込んだ。
今なら、聞けるかもしれない。聞いてはいけないことなのかもしれない。でも、ずっと聞いてみたかったことだ。
「殿下はなぜ、将軍を引退したんですか?」
口にしてから、心臓の鼓動が早まったが、私はお茶のカップを両手で包んで堪えた。
殿下が目を開き、私を見る。
私の緊張が伝わったのだろう。宥めるような笑みが口元に浮かんだ。
「戦うことが嫌になったわけではないよ。人の死を積み上げることに嫌気はさしていたが、それは仕方がないことだ。ただ、他に方法はないのかと、疑問に思ってね」
「方法?」
「人の身に、魔獣を封印し、しかもそれを国の守護として使うこと。確かに効率はいいが、……同じことを再現しようとして、強大な魔物を呼び、人の身体に封じ込んだ連中がいてね」
「……どうなったんです?」
「その教団は、暴走した魔物によって全滅。器にされた人間は……気の毒なことに、もちろん、助からなかった」
実際に、その光景を見たのだろう。状況から察すると、そういうときに真っ先に駆り出されるのはイシルディア殿下であったはずだ。
「私の身に封じられている魔獣は、かつては神獣と呼ばれていたらしい。真名は、神獣ゼグシュノク」
「ゼグシュノク……真名?!」
私はぎょっとした。
「わ、私に教えてもいいんですか?!」
「むしろ、主殿以外には伝えられない。王家の者も知らないことだ。我々の始祖は、神獣を打ち倒して封印まで成したというのに、真名は得られなかった。だから、封印の石アンカラドと、魔封じの一族が必要とされている」
魔封じの一族。
王都には、そう呼ばれている氏族がいる。今は公爵家で、ようするに貴族様だ。私にとっては雲の上の人たちだし、その呼び名も、単に貴族の家に伝わる伝承か何かなのだと思っていたけれど、違うらしい。
イシルディア殿下の語るところによると、彼らは始祖の代、闇の魔獣を倒すために壮絶な貢献を果たした。なんでも、封印を成すために、一族のほとんど全てが死んでしまったらしい。
生き残った者はその使命を引き継ぎ、代々の黒竜の儀式を担ったり、魔獣の封印が外れた際は、再び命を捨てて封じる役割を果たすという。
「もっとも、今、貴族の一人二人が死んだところで、封印の役には立たないが」
殿下は、完全に乾いた声で言う。
私としても、初めて目にした「魔封じの一族」が、先日のダーシェンさんなので、黙っていることしかできない。
いや、別に弱い人ではなかったんだけど……殿下を前にすると、その、何というか。
「魔封じの一族でもできないことを、君がやってみせてくれた」
殿下がぎしり、と音を立てて椅子の上で身じろぎする。私が見ている前で、彼は帯剣を取り外し、テーブルの上に横たえた。
鞘に包まれた魔剣アンカラド。ただそこにあるだけで、空気の温度が変わるほどの魔力が感じられる。
細かく流麗な細工の施された鞘を見ていると、一見、とにかく豪華な装飾だと思ってしまうが、見れば全てが魔法の紋章だ。これだけ細かくびっしりと、そして魔力のある紋を刻み込むためには、いったい何世代の魔術師たちの力が必要とされたのだろう。
「王太子殿下には、伝えていないが。今、私は神獣ゼグシュノクを支配下に置いている。この剣の青い光は、その証だ」
「支配……」
「君が、命をかけて、私に魔力を注ぎ込んでくれた。本来、私とは相反する光の魔力だったのに、一切反撥が起きないどころか、私の助けになってくれた。そのお陰で、真名を剥ぎ、支配下に置くことができた。今でもそうだ」
「今?」
「君と契約の紋章を合わせるたびに、君の魔力が流れ込んでくる。君は、私の魔力量のほうが圧倒的だと思っているかもしれないが……私が受け取るものの方が、よほど、貴重だ」
そういえば、最近、トーナメントの前に手のひらを合わせるとき、殿下は笑わない。以前はもっと、にこやかな表情を向けてくれていたはずだが……
「え、ええと?」
私は顔を顰めて、なんとか情報を整理しようと試みた。
「それって、つまり。私が、殿下を助けられているってことですよね……ことでしょうか?」
「そうだ。そのとおりだ」
私が躊躇いを見せたので、殿下は眉をひそめ、苦笑いを浮かべた。
「……君は、本当に、自分の価値を知らない」
責めるようではなかったが、重たい口調だった。
「……そうですか?」
「そうだ。将軍位を下りてからずっと、どこかに、何か道があるのではないかと探していた。神や魔物の力は、人が容易に扱えるものではない。だが、人は種として弱く、選択肢すらろくに選べない。一度魔性に堕ちてしまえば、友や弟子ですら救えない」
「……」
「君から私に流れ込んでくるものは、善きものだけだ。それでいて、弱くはない。私を救ってくれた。そのことが、私にとってはどれだけ驚きだったか……」
殿下は低く笑ったが、無意識のものだったらしい。
何か別のことを考えているような目で、私を見やり、
「それでいて、私は君に、暗い染みをつけることぐらいしかできない。だから、君にすまないと思った。だが、もっと悪いことに、それでも君の手を離すという選択肢が、私にはないんだ」
嗅覚は、すぐに麻痺する。
使い物にならない。遮断する。
一番強く感じ取れるのは温度だ。空気を揺らすもの。冷たい恐怖。殺意。圧縮され、熱を帯びる呼気。人間の発するもの。
感じるのと、動くのは同時だ。剣を跳ね上げ、切り落とし、裂き、反動で撃ち返す。
歩き、斬り、歩き、突き殺し、歩く。
少しずつ動いていく地平に、埋め尽くされる敵。
自分の前に、死者が重なり合って道を拓くさまを幻視する。
数十秒先の未来。
立ち昇る、濃厚な血の匂いに、無意識に眉を顰める。鉄の風味を纏った酸素を吸い込む。嗅覚は、本当に足手まといだ。どのみち、さして時間もかからず再び麻痺するだろうが。
辺り一面に広がる血と、血肉の中で、私は──
「……わあぁっ!」
喉の奥から、叫びの塊を吐き出すように、私は仰け反った。
手が、虚空を掴んであがく。
「主殿? 大丈夫かね?」
落ち着いた声とともに、乾いた大きな手のひらが、私の手を包み込んだ。
私はしばらくはあはあと荒い呼吸を繰り返し、唾を飲み込んで、それから目の前の彼を見上げた。
「……あれ? 殿下?」
見慣れた金の眼が、じっと私を見下ろしている。顎の辺りの筋肉がやや強張ってはいるが、平静に私を観察する眼差し。
その顔を見た途端、一気に全身の力が抜けた。
「あの……私、いったい」
夢でも見ていたのだろうか。それにしては、暗く、重たくのしかかって来る夢の光景が、あまりに現実らしくて、未だに目の前にちらついている。
落ち着こうとして、周囲をきょろきょろと見回していると、殿下の手に力が篭った。
「……主殿、すまない」
「え? イシルディア殿下?」
何を謝られたのだろう?
「君に、染みをつけてしまった」
染み?
問いかける前に、私の手を片手で包んだまま、もう一方の手が上がり、私の頬に触れた。汗で貼り付いた髪を指先でそっと退け、額へ上ってくる。
「……殿下。その、私、汗かいて……」
「冷えている。これでは風邪を引きそうだな」
ばさっと音を立てて、殿下が私の肩に、温かいマントを羽織らせてくれた。
身を起こし、寝台を離れていく殿下を、私はぼーっと見ていて……ん? 寝台?
(知らない部屋だ)
薄明が差し込む、妙にがらんとした広い部屋。調度品は立派で、品格が高く、そして生活感がない。客用寝室か何かのようだ。
「私の邸のひとつに運んだんだ。ギルドからの帰りに、君がいきなり倒れたのでね」
「え? えと、それは、ご迷惑をお掛けして……」
「君の責任じゃない。それより、少し、歩けるかね?」
「はい」
ぎこちなく足を動かし、殿下の後に続いた。隣室に通され、すでにお茶の支度が整っているテーブルに着かされる。横に立って、テーブルに最後の仕上げをしているのは、見たことがある土気色の顔をした執事だった。
「あ、ゴラムさん」
イシルディア殿下に仕える、ゴーレム執事だ。
私が名を呼ぶと、私に向けて深々とお辞儀をし、それから殿下の指図を仰ぐようにそちらを向いた。
「ご苦労だった」
「はい。では、クロエ様、どうぞお大事に」
それだけ述べて、丁重な足取りで下がっていく。
その後ろ姿を見送っていると、殿下がぼそりと言った。
「主殿。温かいものでも飲んで、身体を温めたほうがいい。顔色が真っ白だ」
「は、はい」
温かい、ミルクと花の匂いのするお茶。カップを持ち上げて、ちびちびと飲みながら、私はその香りを吸い込んだ。少し、正気に戻れた気がする。これはあの匂いとは違う。一面に立ち込める、血と、死の匂いとは──
「それで、何を見たのかね?」
唐突に問いかけられて、喉がひゅっと鳴った。
見上げると、向かいに腰を下ろした殿下が、半ば眉を顰めてこちらを見ている。
「それは……」
「推測はついているが。人を沢山殺す夢。それとも魔物か。どのみち、血腥い夢だろう」
「……はい」
「それは私の記憶だ。いや、実際にあったことそのままではなく、色々な記憶の混ぜこぜからできたイメージだが。ろくでもないものを見せてしまったな。……すまなかった」
殿下は不機嫌そうだ。もちろん、私に怒っているわけではないみたいだけれど。
「殿下? それは、殿下が謝られるようなことなんでしょうか?」
「この現象自体は、私の知るところではない……と、言いたいところなんだが。いつかはこうなるだろうと、少し前から分かっていたんだ」
「?」
「記憶の共有だ。君と再度契約を結んでから、少しして、君の記憶の断片を夢に見た」
「えっ」
そんなことがあるのだろうか。あったとしたら。……何を、見られたの?
(恥ずかしいこととかだったら、どうしよう)
私は本当に、全く、全然、聖人君子というわけじゃないのだ。
青くなったり赤くなったりしている私を見ていて、殿下はちらりと苦笑を覗かせた。
幾分、彼を縛っていた硬い空気が解けて、瞳に穏やかな光が浮かぶ。
「気分が和むような、いい夢だったよ。家族と食卓を囲んで、食べ物の美味しさに感極まったり、真新しい本の表紙をいつまでも飽かず撫でていたり、遠くから家の灯を見て懐かしさに耽ったりしていた。なるほど、幸せというのはこういうものなのか、と思ったな」
淡々と話してくれる内容は、殿下が気を遣ってくれているのか、さほど恥ずかしいものではない、とは思うものの……やはり私は気恥ずかしくて、椅子の上で身を捩りたくなるのを堪えた。
「……殿下に、色々、私のことが筒抜けになってるってことですか」
「いや、そこまでは。ごく僅かな断片、たまに浮かぶ印象みたいなものだ。もっとも、私もどんな仕組みになっているのか分からない。人間同士で、召喚士と召喚獣の契約を結んだせいか? 同じ種ゆえに、共振の度合いが大きいのか、それとも、我々が魔力を共有する頻度と密度が高すぎるのか。推論でしかないし、今まで、主殿が私の夢を見るという確信もなかった。だから、黙って、話を先延ばしにしていたんだが」
殿下の声音には、はっきりと悔恨の色が滲み出ていたので、私は急いで言った。
「それって、殿下は全く悪くないじゃないですか。謝ったりしないで下さい」
「悪いと思っているのは、君と記憶を共有した、そのこと自体ではないよ」
「何であってもです。殿下の記憶がどんなものであっても、殿下のことを全然知らないでいるよりは、知っていた方がずっといいです」
力を込めて言った。
殿下は目を丸くし、それから軽く笑いを堪える顔になった。
「さすがは、私の主殿だな」
そのまま、瞳を閉じる。
「私は、……嫌だった。私の中の昏いものが、君の幸福な輝きに染みをつけるのが嫌だったんだ。私は、このとおり、あまりまともな生き方をしていない。後悔をしているわけではないが……」
私は、ごくりと唾を呑み込んだ。
今なら、聞けるかもしれない。聞いてはいけないことなのかもしれない。でも、ずっと聞いてみたかったことだ。
「殿下はなぜ、将軍を引退したんですか?」
口にしてから、心臓の鼓動が早まったが、私はお茶のカップを両手で包んで堪えた。
殿下が目を開き、私を見る。
私の緊張が伝わったのだろう。宥めるような笑みが口元に浮かんだ。
「戦うことが嫌になったわけではないよ。人の死を積み上げることに嫌気はさしていたが、それは仕方がないことだ。ただ、他に方法はないのかと、疑問に思ってね」
「方法?」
「人の身に、魔獣を封印し、しかもそれを国の守護として使うこと。確かに効率はいいが、……同じことを再現しようとして、強大な魔物を呼び、人の身体に封じ込んだ連中がいてね」
「……どうなったんです?」
「その教団は、暴走した魔物によって全滅。器にされた人間は……気の毒なことに、もちろん、助からなかった」
実際に、その光景を見たのだろう。状況から察すると、そういうときに真っ先に駆り出されるのはイシルディア殿下であったはずだ。
「私の身に封じられている魔獣は、かつては神獣と呼ばれていたらしい。真名は、神獣ゼグシュノク」
「ゼグシュノク……真名?!」
私はぎょっとした。
「わ、私に教えてもいいんですか?!」
「むしろ、主殿以外には伝えられない。王家の者も知らないことだ。我々の始祖は、神獣を打ち倒して封印まで成したというのに、真名は得られなかった。だから、封印の石アンカラドと、魔封じの一族が必要とされている」
魔封じの一族。
王都には、そう呼ばれている氏族がいる。今は公爵家で、ようするに貴族様だ。私にとっては雲の上の人たちだし、その呼び名も、単に貴族の家に伝わる伝承か何かなのだと思っていたけれど、違うらしい。
イシルディア殿下の語るところによると、彼らは始祖の代、闇の魔獣を倒すために壮絶な貢献を果たした。なんでも、封印を成すために、一族のほとんど全てが死んでしまったらしい。
生き残った者はその使命を引き継ぎ、代々の黒竜の儀式を担ったり、魔獣の封印が外れた際は、再び命を捨てて封じる役割を果たすという。
「もっとも、今、貴族の一人二人が死んだところで、封印の役には立たないが」
殿下は、完全に乾いた声で言う。
私としても、初めて目にした「魔封じの一族」が、先日のダーシェンさんなので、黙っていることしかできない。
いや、別に弱い人ではなかったんだけど……殿下を前にすると、その、何というか。
「魔封じの一族でもできないことを、君がやってみせてくれた」
殿下がぎしり、と音を立てて椅子の上で身じろぎする。私が見ている前で、彼は帯剣を取り外し、テーブルの上に横たえた。
鞘に包まれた魔剣アンカラド。ただそこにあるだけで、空気の温度が変わるほどの魔力が感じられる。
細かく流麗な細工の施された鞘を見ていると、一見、とにかく豪華な装飾だと思ってしまうが、見れば全てが魔法の紋章だ。これだけ細かくびっしりと、そして魔力のある紋を刻み込むためには、いったい何世代の魔術師たちの力が必要とされたのだろう。
「王太子殿下には、伝えていないが。今、私は神獣ゼグシュノクを支配下に置いている。この剣の青い光は、その証だ」
「支配……」
「君が、命をかけて、私に魔力を注ぎ込んでくれた。本来、私とは相反する光の魔力だったのに、一切反撥が起きないどころか、私の助けになってくれた。そのお陰で、真名を剥ぎ、支配下に置くことができた。今でもそうだ」
「今?」
「君と契約の紋章を合わせるたびに、君の魔力が流れ込んでくる。君は、私の魔力量のほうが圧倒的だと思っているかもしれないが……私が受け取るものの方が、よほど、貴重だ」
そういえば、最近、トーナメントの前に手のひらを合わせるとき、殿下は笑わない。以前はもっと、にこやかな表情を向けてくれていたはずだが……
「え、ええと?」
私は顔を顰めて、なんとか情報を整理しようと試みた。
「それって、つまり。私が、殿下を助けられているってことですよね……ことでしょうか?」
「そうだ。そのとおりだ」
私が躊躇いを見せたので、殿下は眉をひそめ、苦笑いを浮かべた。
「……君は、本当に、自分の価値を知らない」
責めるようではなかったが、重たい口調だった。
「……そうですか?」
「そうだ。将軍位を下りてからずっと、どこかに、何か道があるのではないかと探していた。神や魔物の力は、人が容易に扱えるものではない。だが、人は種として弱く、選択肢すらろくに選べない。一度魔性に堕ちてしまえば、友や弟子ですら救えない」
「……」
「君から私に流れ込んでくるものは、善きものだけだ。それでいて、弱くはない。私を救ってくれた。そのことが、私にとってはどれだけ驚きだったか……」
殿下は低く笑ったが、無意識のものだったらしい。
何か別のことを考えているような目で、私を見やり、
「それでいて、私は君に、暗い染みをつけることぐらいしかできない。だから、君にすまないと思った。だが、もっと悪いことに、それでも君の手を離すという選択肢が、私にはないんだ」
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