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愚か者たちの祝福
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(静かだなあ……)
湯気の立ち昇る茶碗を両手で覆うように触れて、私はほっと一息ついた。
見慣れた部屋。日々の生活で馴染んだ机と椅子。微かな風にはためいて、陽光に透けているカーテン。私が二度目の魔王退治に出掛けた時と同じ、部屋の片隅に積まれたままの薪。
(薪、減らないなあ……)
ここ数日、にわかに冬の気配が強まってきた。今朝も硝子窓に霜の模様が描かれているのを見たところだ。本来なら、そろそろ本格的に冬越しの準備をしなくちゃならないところなんだけど。
台所には、火の気が絶えて久しい。
女神様が用意してくれたこの家、私にとっては一年以上を過ごした我が家に帰ってきて、もう一ヶ月が経つ。その間、私は一回も台所で火を起こしていない。
でも、食べ物は自然と出てくる。私が今飲もうとしているこのお茶も、勝手に出てきたのである。
何を言っているのか分からないと思うけれど。
「……ええと、リュック君?」
声を上げてみたけれど、部屋はしんと静まり返ったまま、私以外の気配は感じ取れなかった。
「……」
でも、いるのである。魔導具の発明家がどこかにいて、別空間から時折現れ、怪しい道具で調理した食べ物を並べ、私の家を便利グッズで満たしては去っていくのである。私にはその気配すら悟らせずに。何それこわい。
そしてこれは、魔王から私たちが救い出した女神様が、私たち全員の願いを聞いてくれた結果でもある。
(女神様、なんてことをしてくれたんですか……!)
いちおう、女神様は私の「変わらず静かな生活を送りたい」という願いを優先してくれたらしくて、私がわざわざ会いに行かない限り、彼らが姿を現すことはない。だから表向きは確かに「静かな生活」なんだけれど。
居るのである。
奴らが、全員。
ぞわぞわする。
とっても背中がぞわぞわするぞ。
「……わっ」
その日も家の扉を開けて、一歩足を踏み出した途端、籠に入れて置いてあった野菜がころころと転がってきた。いつもながら艶々した、瑞々しい野菜だ。
(ごんぎつねだね……これはごんぎつねの仕業で間違いない、きっとそうだ)
虚しい妄想を繰り広げながら、野菜を拾い集めて机の上に置き、私は家の外に出た。
荒漠とした平野。緩やかに傾斜していて、その先の谷底へと続き、さらにその先は遥か青く霞んだ山々の峰が連なっている。風と日差しに晒されて風化した岩がゴロゴロと転がっている、その陰に隠れるように、見覚えのある人物が座り込んでいた。
片手に剣、片手にノートを開き、何やら一心に書き込んでいる。その横には積み上がったノートが整然と重ねられていて、ちょっとした小さな塔みたいだ。
「……王子」
「!」
私が声を掛けると、王子は驚愕のあまりピシリと固まった。
(まあ、この一ヶ月間で、私から話し掛けるのは初めてだからね、仕方ないね)
「……リルカ殿。番犬として報告いたします。この一ヶ月間、処刑すべき不審な人物は見当たりませんでした。敢えて言えば三名おりますが、処刑いたしますか?」
「三名ってつまり、彼らだよね……それはともかく、本当に私の番犬をやってるんだ?」
「無論です」
そう、女神様に願った彼の望みがこれだ。「彼女の番犬になりたい」
主となる人間の考えなどガン無視した発想である。
(別に、放っておけばいいんだけど……)
「じきに冬になるから、このまま野宿だと行き倒れない? この辺りは結構雪が降るし、埋もれたら死なない?」
「それは良い処刑方法ですね」
王子がキラキラした笑顔で言った。
王子としても人間としても、人生を完全にドブに捨てて犬と化しているのに、その笑顔は爽やか度を増している。それでいいのか。人として生まれた意義を見失い過ぎじゃないのか。そもそも最初から犬として生まれてくれば平和だったんじゃないのか。
しかし、わざわざ突っ込みを入れてやるほど仲が良いわけでもないので、私は冷たい目で王子を一瞥し、
「……一応、他の二人の事も見回っておこうと思うので。ついてきて下さい」
「はっ」
優雅に礼を取った王子を従えて、私は自分の家の周りを一周した。
家の裏手からは鬱蒼とした森が広がって、その一部を切り取るようにして耕された畑がある。作物の一部は収穫が進んでいるけれど、大部分は手付かずのままだ。いつの間にか建てられていた小屋の向こうから、ごんぎつね一号……ではない、ナイジェルが赤い髪を靡かせて笑顔で手を振るのを眺めて、私は無表情で踵を返した。
「あの様子だと、冬越しは大丈夫そうかな。こっちは……」
同じく、家の裏手にある家畜小屋の扉を、思い切り開く。
中から「うわっ」と小さな悲鳴が聞こえて、獣の温かい呼気と匂いが立ち昇ってきた。暗がりの中に踏み込むと、羊のふわふわした毛の向こうに青い髪が見え隠れして見えた。
「……羊が増えてる」
いつの間に増えたのか、見覚えのない生き物が身を寄せ合い、「メー」とか「べエエ」とか鳴きながら、青い髪の生き物を必死に守っているようだ。一緒に暮らすうちに同族とでも思い込んだのかな。
「セランさん? 家畜を増やし過ぎでは?」
「す、すまぬ……だが、この毛並みの癒やし無くては、愚かな私は眠ることさえ出来ないのです……」
「アニマルセラピーか。まあ、卵と牛乳は届けてくれてるんでいいけど」
ごんぎつね二号である。
問題は、彼もまた、勝手に私の周りに居着いて自分の人生を台無しにしようとしていることだけど……いや、彼らの人生がどうなろうと別にいい。いいんだけど。
「雪に埋もれて死なれたりしたら後味悪いので、それだけは止めて欲しいんだけど、問題なのは王子だけかな」
振り向いて王子を見上げると、王子はまるで本物の王子のように鷹揚に微笑み(いや、実際に王子のはずなんだけど)、
「ああ、ならば、貴方の門前に犬小屋を建てさせて頂こう。俺の健康状態についてはご心配に及ばない。貴方に害なす者を片っ端から処刑できる番犬になれたのだから、心の底から幸福です」
「健康状態はともかく、精神状態は手遅れなんだね」
私はしみじみと言った。
やっぱり、人間なんて簡単に改心しない。
改心すると期待するだけ無駄だ。私は別に期待してなかったけども、下手に関わってしまった結果、こっそりと家の周りに棲み着かれた上に出て行ってくれなくなってしまった。私にとっては悲劇だし、彼らは真剣で大真面目だ。問題は、傍から見れば喜劇でしかないし、私もそれを分かっているところだ。本当につらい。いつか虫か何かを追っ払うように「シッシッ」と追っ払って絶望させてやりたいと思う。今はまだしないけど。
湯気の立ち昇る茶碗を両手で覆うように触れて、私はほっと一息ついた。
見慣れた部屋。日々の生活で馴染んだ机と椅子。微かな風にはためいて、陽光に透けているカーテン。私が二度目の魔王退治に出掛けた時と同じ、部屋の片隅に積まれたままの薪。
(薪、減らないなあ……)
ここ数日、にわかに冬の気配が強まってきた。今朝も硝子窓に霜の模様が描かれているのを見たところだ。本来なら、そろそろ本格的に冬越しの準備をしなくちゃならないところなんだけど。
台所には、火の気が絶えて久しい。
女神様が用意してくれたこの家、私にとっては一年以上を過ごした我が家に帰ってきて、もう一ヶ月が経つ。その間、私は一回も台所で火を起こしていない。
でも、食べ物は自然と出てくる。私が今飲もうとしているこのお茶も、勝手に出てきたのである。
何を言っているのか分からないと思うけれど。
「……ええと、リュック君?」
声を上げてみたけれど、部屋はしんと静まり返ったまま、私以外の気配は感じ取れなかった。
「……」
でも、いるのである。魔導具の発明家がどこかにいて、別空間から時折現れ、怪しい道具で調理した食べ物を並べ、私の家を便利グッズで満たしては去っていくのである。私にはその気配すら悟らせずに。何それこわい。
そしてこれは、魔王から私たちが救い出した女神様が、私たち全員の願いを聞いてくれた結果でもある。
(女神様、なんてことをしてくれたんですか……!)
いちおう、女神様は私の「変わらず静かな生活を送りたい」という願いを優先してくれたらしくて、私がわざわざ会いに行かない限り、彼らが姿を現すことはない。だから表向きは確かに「静かな生活」なんだけれど。
居るのである。
奴らが、全員。
ぞわぞわする。
とっても背中がぞわぞわするぞ。
「……わっ」
その日も家の扉を開けて、一歩足を踏み出した途端、籠に入れて置いてあった野菜がころころと転がってきた。いつもながら艶々した、瑞々しい野菜だ。
(ごんぎつねだね……これはごんぎつねの仕業で間違いない、きっとそうだ)
虚しい妄想を繰り広げながら、野菜を拾い集めて机の上に置き、私は家の外に出た。
荒漠とした平野。緩やかに傾斜していて、その先の谷底へと続き、さらにその先は遥か青く霞んだ山々の峰が連なっている。風と日差しに晒されて風化した岩がゴロゴロと転がっている、その陰に隠れるように、見覚えのある人物が座り込んでいた。
片手に剣、片手にノートを開き、何やら一心に書き込んでいる。その横には積み上がったノートが整然と重ねられていて、ちょっとした小さな塔みたいだ。
「……王子」
「!」
私が声を掛けると、王子は驚愕のあまりピシリと固まった。
(まあ、この一ヶ月間で、私から話し掛けるのは初めてだからね、仕方ないね)
「……リルカ殿。番犬として報告いたします。この一ヶ月間、処刑すべき不審な人物は見当たりませんでした。敢えて言えば三名おりますが、処刑いたしますか?」
「三名ってつまり、彼らだよね……それはともかく、本当に私の番犬をやってるんだ?」
「無論です」
そう、女神様に願った彼の望みがこれだ。「彼女の番犬になりたい」
主となる人間の考えなどガン無視した発想である。
(別に、放っておけばいいんだけど……)
「じきに冬になるから、このまま野宿だと行き倒れない? この辺りは結構雪が降るし、埋もれたら死なない?」
「それは良い処刑方法ですね」
王子がキラキラした笑顔で言った。
王子としても人間としても、人生を完全にドブに捨てて犬と化しているのに、その笑顔は爽やか度を増している。それでいいのか。人として生まれた意義を見失い過ぎじゃないのか。そもそも最初から犬として生まれてくれば平和だったんじゃないのか。
しかし、わざわざ突っ込みを入れてやるほど仲が良いわけでもないので、私は冷たい目で王子を一瞥し、
「……一応、他の二人の事も見回っておこうと思うので。ついてきて下さい」
「はっ」
優雅に礼を取った王子を従えて、私は自分の家の周りを一周した。
家の裏手からは鬱蒼とした森が広がって、その一部を切り取るようにして耕された畑がある。作物の一部は収穫が進んでいるけれど、大部分は手付かずのままだ。いつの間にか建てられていた小屋の向こうから、ごんぎつね一号……ではない、ナイジェルが赤い髪を靡かせて笑顔で手を振るのを眺めて、私は無表情で踵を返した。
「あの様子だと、冬越しは大丈夫そうかな。こっちは……」
同じく、家の裏手にある家畜小屋の扉を、思い切り開く。
中から「うわっ」と小さな悲鳴が聞こえて、獣の温かい呼気と匂いが立ち昇ってきた。暗がりの中に踏み込むと、羊のふわふわした毛の向こうに青い髪が見え隠れして見えた。
「……羊が増えてる」
いつの間に増えたのか、見覚えのない生き物が身を寄せ合い、「メー」とか「べエエ」とか鳴きながら、青い髪の生き物を必死に守っているようだ。一緒に暮らすうちに同族とでも思い込んだのかな。
「セランさん? 家畜を増やし過ぎでは?」
「す、すまぬ……だが、この毛並みの癒やし無くては、愚かな私は眠ることさえ出来ないのです……」
「アニマルセラピーか。まあ、卵と牛乳は届けてくれてるんでいいけど」
ごんぎつね二号である。
問題は、彼もまた、勝手に私の周りに居着いて自分の人生を台無しにしようとしていることだけど……いや、彼らの人生がどうなろうと別にいい。いいんだけど。
「雪に埋もれて死なれたりしたら後味悪いので、それだけは止めて欲しいんだけど、問題なのは王子だけかな」
振り向いて王子を見上げると、王子はまるで本物の王子のように鷹揚に微笑み(いや、実際に王子のはずなんだけど)、
「ああ、ならば、貴方の門前に犬小屋を建てさせて頂こう。俺の健康状態についてはご心配に及ばない。貴方に害なす者を片っ端から処刑できる番犬になれたのだから、心の底から幸福です」
「健康状態はともかく、精神状態は手遅れなんだね」
私はしみじみと言った。
やっぱり、人間なんて簡単に改心しない。
改心すると期待するだけ無駄だ。私は別に期待してなかったけども、下手に関わってしまった結果、こっそりと家の周りに棲み着かれた上に出て行ってくれなくなってしまった。私にとっては悲劇だし、彼らは真剣で大真面目だ。問題は、傍から見れば喜劇でしかないし、私もそれを分かっているところだ。本当につらい。いつか虫か何かを追っ払うように「シッシッ」と追っ払って絶望させてやりたいと思う。今はまだしないけど。
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