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第一章 観察日記
13 覚悟した別離
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空気が、震えた。
それ以外の形容の仕方を、私は知らない。それほどに、激しい振動が肌に突き刺さり、私は目をパチリと開いた。
「な、なに……?」
それは、音の様な、音でないもの。まるで、聞こえない音階の音波に身体だけが反応したかの様だった。
布団から這いずり出、四つん這いのまま障子を開ける。縁側の雨戸をガラガラと横に開けると、まだ仄暗い夜明け前の空が見えた。その中に浮かび上がる、無数の黒い点。まるで空に噴き出すモノクロの血飛沫の様で、思わず身体が硬直する。
――あれは、一体。
目を凝らしてその光景を眺めていると、点が遥か上空へと散らばって行く。あれは、鳥だ。山の木々で身体を休めていた無数の鳥達が、一斉に飛び立っているのだ。恐らくは、あの振動の所為で。
何があったのか。ゴラくんがマンドラゴラ特有の叫び声を上げたのか、と一瞬考えたけど、まだ全部出るタイミングじゃなかった筈だ。地震が来る直前、山は静かに唸る様に震えることがある。あれか。そう思い暫く緊張しながら待ったけど、地震でもない様でそれ以上何も起こらない。
やがて上空を旋回していた鳥達が自分達の巣に徐々に戻って行くと、ようやく自分のすべきことを思い出した。
「……ゴラくん!」
ゴラくんは動けない。彼の身に何か起きても、逃げられない。慌てて立ち上がると、顔も洗わず枕元に用意しておいた散策用の服一式を身につけた。ぼうっとしているなんて、保護者失格だ。ゴラくんの足が解放された後、山から降りた先の世界を教えないとなのに、これじゃ駄目だ。圧倒的に瞬間的な判断力が足りていない。
瞬発力も覇気もない所為で、自ら願って外界からドロップアウトした。こんな田舎なら緊急性を必要とされる機会なんてほぼないだろうし、あったとしても自分一人の身に対してだけだと高を括っていた。最悪、命の危険が及ぼうと、自分だけなら。
私の心の奥深くに、絵画の背景の中に映り込む目立つことのない色の様に、諦観にも似たその思いはずっと存在していた。それを今、急激に強く認識する。
だけど、これから先、当面は一人じゃない。ゴラくんの身の安全を守る責務が、私にはある。だから、出来ないと最初から諦めちゃ駄目だ。しっかりしろ、美空。
着替え終わると、用意していたリュックを背負い、玄関へと走る。スニーカーの紐をきっちりと締め、水が入って普段よりも重いリュックの存在を肩に感じながら、玄関を飛び出した。
空は白ばみ始め、不気味なほどの朝焼けが山の僅かな隙間からこちらを覗いているみたいだった。ゾクリとし、頭を横に振り、おかしな考えを頭から振り落とす。
「美空、しっかりして! ビビるなビビるな!」
得意の独り言を繰り出すと、少し身体の強張りが和らいだ気がした。
私には、生きていく上での活力も覇気も足りていないのだろう。周りのスピードにもついていけず、代わりについて回るのは疎外感と劣等感だ。人と群れられないのに、勝手に孤独を感じている。考えれば考えるほど甘ったれた考えにしか思えないけど、最近はそれを意識することもなくなりつつあった。
父の逝去以降、もう同族はいないのだと薄らぼんやりと感じていた感覚は、最早存在していなかった。
私しか歩かない山への道は、落ち葉だらけで歩き難い。ふかふかになった土の上は滑り易く、逸る気持ちを押し留めつつ、一歩一歩緩やかな傾斜を確実に踏み締めていった。結局は、これが一番確実で早いから。まるで私の人生がそうである様に、ゆっくりと進む。私はこの生き方しか知らない。だからこうして進むしかない。
私の孤独を埋めてくれていた、ゴラくんの元へと。
◇
落ち葉に何度も足を取られながら、前へ前へと進む。
朝日が徐々に足許を照らし出し、初めは見えない泥の中を突き進んでいる様な気がして怖かったけど、今はもう大丈夫だ。この道を進めば、あの笑顔にきっと会える。そう思えば、足も前へと進んだ。ゴラくんが生えている場所向かう為に、くねくねと曲がる山道を登っていく。十分ほど歩くと、その最後にある湾曲した道を進み顔を上げれば、目に飛び込んでくるのは、広い空に逆光の笑顔。な、筈だった。
「……ゴラ、くん?」
いつもなら、もう視界に入ってくる彼の姿がない。途端、途轍もない焦燥感に追われ、最後の坂を滑りながら駆け上った。ゴラくんがいなくなった、あの笑顔がもう見られなくなったら私は――。
「ぎゃっ」
思い切り足が滑り、枯れ葉の山の中に顔面から突っ込む。幸いふかふかなのでそこまで痛くはなかったけど、身体の前面に葉がくっつき視界を奪った。やはり先程の振動は、ゴラくんが足を引っこ抜く時に上げた叫び声だったのだ。もしかして、自分で引っ張って痛くて叫んだのか。どうしよう、どうしよう、自由になった彼は、もうここに用がないと思ったのか。
――皆、私を置いて去っていく。
途方も無い絶望が押し寄せ、その場に尻もちをついたまま動くことが出来なくなった。このままこの坂を登り切れば、もしかしたらそこに彼が待っているかもしれない。だけど、私がこんなに音を立てていても顔を覗かせもしない。ということは、やはり彼は自由の身になったからここから去ったのだ。どこか別の場所へと。
そのことが確定するのが怖くて、その場に釘で打ち込まれたかの様に動けなくなった。自分に必死で言い聞かせる。
大丈夫、大丈夫。父が土に還ってしまった時も、母がここから楽しそうに去って行った時も、私はちゃんと乗り越えられたから。一人で生きるのが私の運命だから、その人生のほんの一瞬交わった点であるゴラくんがいなくなっても、私は大丈夫。
――途轍もなく濃い一瞬ではあったけど。
胸を掻きむしりたくなるほどの息苦しさを覚え、枯れ葉の上に額を付け、手で胸を押さえた。美空、こういう時は深呼吸だ。空気を吸い、自分が呼吸しながら生きていることを思い出せ。繰り返し自分に言い聞かせ、すーはーと大きめに呼吸を繰り返す。すると単純なもので、先程までの息苦しさは段々と薄れてきた。ほら、もう大丈夫だ。
ふと脳裏に、いそいそと用意したゴラくんの寝室の光景が映し出される。あれを片付けるのか、と再び絶望が押し寄せた。男物の大きな浴衣はどうしよう。私は着られないから、布を切って巾着袋でも作ろうか。作り方は知らないけど、そこは便利なネット社会。きっと探せば何でも出てくる。
宅配便の名雲さんは、箱の中の浴衣の柄までは見ていない。だから私が同じ柄のグッズを色々持っていても、きっと心の中で笑いはしない筈だ。
ぎゅっと瞑っていた瞼を開ける。顔を上げると、前髪に枯れ葉が付いていた。それを手でひょいひょい取ると、ゆっくりと立ち上がる。あの場所に、寝袋を置いてきてしまっている。未使用品だから、ネットで売ればそれなりにいい値段で売れそうだと考えながら、足を一歩前へと出す。
楽しかった一ヶ月を過ごせた、そう思おう。これにて観察日記は完了だ。せめて写真の一枚でも撮っておけばよかった。今更ながら、ゴラくんがその後も私といるものだと漠然と信じていたことに驚愕する。いなくなるなんて、思ってなかった。だから過去のものになってしまう写真を取る気になれなかった。馬鹿みたいだ。
でも、彼の姿はこの目に焼き付いている。忘れることはないだろうし、もし忘れたとしても忘れるのは悲しい別れの方だと願いたかった。
サク、サク、と一歩ずつ確実に登っていく。きっとそこには、いつもの広々とした空間が広がっている。ゴラくんがいたことも、ひょっとしたらただの想像だったのかもしれない。孤独に過ごすあまり、楽しい夢を見た可能性だってあるじゃないか。これが本当に幻覚だとしたら相当やばいけど、それでも私は「楽しかった」と言える気がした。心が温かくなる夢を見せてくれてありがとう、と。
「……みっ」
俯いて足許をしっかりと見ながら歩いていた私の耳に、聞いたことのない低い声が飛び込んできた。「み」? ……幻聴だろうか。
「みそら……!」
「――え?」
顔を上げる。すると、そこにいたのは。
「ゴラくん……?」
「みそら、みそら……!」
ゴラくんが、地面に転がっていた。
それ以外の形容の仕方を、私は知らない。それほどに、激しい振動が肌に突き刺さり、私は目をパチリと開いた。
「な、なに……?」
それは、音の様な、音でないもの。まるで、聞こえない音階の音波に身体だけが反応したかの様だった。
布団から這いずり出、四つん這いのまま障子を開ける。縁側の雨戸をガラガラと横に開けると、まだ仄暗い夜明け前の空が見えた。その中に浮かび上がる、無数の黒い点。まるで空に噴き出すモノクロの血飛沫の様で、思わず身体が硬直する。
――あれは、一体。
目を凝らしてその光景を眺めていると、点が遥か上空へと散らばって行く。あれは、鳥だ。山の木々で身体を休めていた無数の鳥達が、一斉に飛び立っているのだ。恐らくは、あの振動の所為で。
何があったのか。ゴラくんがマンドラゴラ特有の叫び声を上げたのか、と一瞬考えたけど、まだ全部出るタイミングじゃなかった筈だ。地震が来る直前、山は静かに唸る様に震えることがある。あれか。そう思い暫く緊張しながら待ったけど、地震でもない様でそれ以上何も起こらない。
やがて上空を旋回していた鳥達が自分達の巣に徐々に戻って行くと、ようやく自分のすべきことを思い出した。
「……ゴラくん!」
ゴラくんは動けない。彼の身に何か起きても、逃げられない。慌てて立ち上がると、顔も洗わず枕元に用意しておいた散策用の服一式を身につけた。ぼうっとしているなんて、保護者失格だ。ゴラくんの足が解放された後、山から降りた先の世界を教えないとなのに、これじゃ駄目だ。圧倒的に瞬間的な判断力が足りていない。
瞬発力も覇気もない所為で、自ら願って外界からドロップアウトした。こんな田舎なら緊急性を必要とされる機会なんてほぼないだろうし、あったとしても自分一人の身に対してだけだと高を括っていた。最悪、命の危険が及ぼうと、自分だけなら。
私の心の奥深くに、絵画の背景の中に映り込む目立つことのない色の様に、諦観にも似たその思いはずっと存在していた。それを今、急激に強く認識する。
だけど、これから先、当面は一人じゃない。ゴラくんの身の安全を守る責務が、私にはある。だから、出来ないと最初から諦めちゃ駄目だ。しっかりしろ、美空。
着替え終わると、用意していたリュックを背負い、玄関へと走る。スニーカーの紐をきっちりと締め、水が入って普段よりも重いリュックの存在を肩に感じながら、玄関を飛び出した。
空は白ばみ始め、不気味なほどの朝焼けが山の僅かな隙間からこちらを覗いているみたいだった。ゾクリとし、頭を横に振り、おかしな考えを頭から振り落とす。
「美空、しっかりして! ビビるなビビるな!」
得意の独り言を繰り出すと、少し身体の強張りが和らいだ気がした。
私には、生きていく上での活力も覇気も足りていないのだろう。周りのスピードにもついていけず、代わりについて回るのは疎外感と劣等感だ。人と群れられないのに、勝手に孤独を感じている。考えれば考えるほど甘ったれた考えにしか思えないけど、最近はそれを意識することもなくなりつつあった。
父の逝去以降、もう同族はいないのだと薄らぼんやりと感じていた感覚は、最早存在していなかった。
私しか歩かない山への道は、落ち葉だらけで歩き難い。ふかふかになった土の上は滑り易く、逸る気持ちを押し留めつつ、一歩一歩緩やかな傾斜を確実に踏み締めていった。結局は、これが一番確実で早いから。まるで私の人生がそうである様に、ゆっくりと進む。私はこの生き方しか知らない。だからこうして進むしかない。
私の孤独を埋めてくれていた、ゴラくんの元へと。
◇
落ち葉に何度も足を取られながら、前へ前へと進む。
朝日が徐々に足許を照らし出し、初めは見えない泥の中を突き進んでいる様な気がして怖かったけど、今はもう大丈夫だ。この道を進めば、あの笑顔にきっと会える。そう思えば、足も前へと進んだ。ゴラくんが生えている場所向かう為に、くねくねと曲がる山道を登っていく。十分ほど歩くと、その最後にある湾曲した道を進み顔を上げれば、目に飛び込んでくるのは、広い空に逆光の笑顔。な、筈だった。
「……ゴラ、くん?」
いつもなら、もう視界に入ってくる彼の姿がない。途端、途轍もない焦燥感に追われ、最後の坂を滑りながら駆け上った。ゴラくんがいなくなった、あの笑顔がもう見られなくなったら私は――。
「ぎゃっ」
思い切り足が滑り、枯れ葉の山の中に顔面から突っ込む。幸いふかふかなのでそこまで痛くはなかったけど、身体の前面に葉がくっつき視界を奪った。やはり先程の振動は、ゴラくんが足を引っこ抜く時に上げた叫び声だったのだ。もしかして、自分で引っ張って痛くて叫んだのか。どうしよう、どうしよう、自由になった彼は、もうここに用がないと思ったのか。
――皆、私を置いて去っていく。
途方も無い絶望が押し寄せ、その場に尻もちをついたまま動くことが出来なくなった。このままこの坂を登り切れば、もしかしたらそこに彼が待っているかもしれない。だけど、私がこんなに音を立てていても顔を覗かせもしない。ということは、やはり彼は自由の身になったからここから去ったのだ。どこか別の場所へと。
そのことが確定するのが怖くて、その場に釘で打ち込まれたかの様に動けなくなった。自分に必死で言い聞かせる。
大丈夫、大丈夫。父が土に還ってしまった時も、母がここから楽しそうに去って行った時も、私はちゃんと乗り越えられたから。一人で生きるのが私の運命だから、その人生のほんの一瞬交わった点であるゴラくんがいなくなっても、私は大丈夫。
――途轍もなく濃い一瞬ではあったけど。
胸を掻きむしりたくなるほどの息苦しさを覚え、枯れ葉の上に額を付け、手で胸を押さえた。美空、こういう時は深呼吸だ。空気を吸い、自分が呼吸しながら生きていることを思い出せ。繰り返し自分に言い聞かせ、すーはーと大きめに呼吸を繰り返す。すると単純なもので、先程までの息苦しさは段々と薄れてきた。ほら、もう大丈夫だ。
ふと脳裏に、いそいそと用意したゴラくんの寝室の光景が映し出される。あれを片付けるのか、と再び絶望が押し寄せた。男物の大きな浴衣はどうしよう。私は着られないから、布を切って巾着袋でも作ろうか。作り方は知らないけど、そこは便利なネット社会。きっと探せば何でも出てくる。
宅配便の名雲さんは、箱の中の浴衣の柄までは見ていない。だから私が同じ柄のグッズを色々持っていても、きっと心の中で笑いはしない筈だ。
ぎゅっと瞑っていた瞼を開ける。顔を上げると、前髪に枯れ葉が付いていた。それを手でひょいひょい取ると、ゆっくりと立ち上がる。あの場所に、寝袋を置いてきてしまっている。未使用品だから、ネットで売ればそれなりにいい値段で売れそうだと考えながら、足を一歩前へと出す。
楽しかった一ヶ月を過ごせた、そう思おう。これにて観察日記は完了だ。せめて写真の一枚でも撮っておけばよかった。今更ながら、ゴラくんがその後も私といるものだと漠然と信じていたことに驚愕する。いなくなるなんて、思ってなかった。だから過去のものになってしまう写真を取る気になれなかった。馬鹿みたいだ。
でも、彼の姿はこの目に焼き付いている。忘れることはないだろうし、もし忘れたとしても忘れるのは悲しい別れの方だと願いたかった。
サク、サク、と一歩ずつ確実に登っていく。きっとそこには、いつもの広々とした空間が広がっている。ゴラくんがいたことも、ひょっとしたらただの想像だったのかもしれない。孤独に過ごすあまり、楽しい夢を見た可能性だってあるじゃないか。これが本当に幻覚だとしたら相当やばいけど、それでも私は「楽しかった」と言える気がした。心が温かくなる夢を見せてくれてありがとう、と。
「……みっ」
俯いて足許をしっかりと見ながら歩いていた私の耳に、聞いたことのない低い声が飛び込んできた。「み」? ……幻聴だろうか。
「みそら……!」
「――え?」
顔を上げる。すると、そこにいたのは。
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