上 下
54 / 100
第九章 特訓開始

54.夢を見たっていいじゃないか

しおりを挟む
 家の狭いスペースにイーゼルを立てるのは果たして如何なものか。しかも、油絵の具の場合換気も必要だしとにかく乾かない。でも油絵の具程ではないがアクリルもそこそこ臭う。それに汚れる。しかも乾くと落ちない。でも外はみずちが寒がる。

 ということで、亮太はシュウヘイとタケルに予め断っておき、店で絵を描くことにした。店の裏の物置にはキャンバスが置けるスペースもあり、開店時間までは店の中に干してもおける。やる気になれば、ちゃんとやれるだけの場所はあったのだ。今まではそれにあれこれと理由をつけて避けていただけなのだと、今になってようやく認識した。

 亮太は窓際に椅子を抱え、優しく差し込む午前の陽の光を横顔に受けて亮太を見つめるコウを見ながら、何故こんなにも狂おしい程求めていたものをあっさりと捨てることが出来ていたのか心の中で首を傾げていた。

 美大時代は自分で木材を釘でトンカン打って好きな大きさの木枠を作り、好きな大きさのキャンバス地に切り大型のステープラーでバシバシ木枠に打ち付け、ローラーで大胆に白いアクリル絵の具を塗ってキャンバスを作ったこともあったが、そこまで出来る程の場所も時間もないことから今回は買ってきた定形サイズのキャンバスを使用することにした。そこに薄く下書きを鉛筆で入れていく。もう構図は決まっていた。実際に描く前から、描きたいコウの姿が頭にこびり付いていた。

「コウ、もう少し背中を向けてくれ」
「こうか?」

 コウの細い首から背中にかけてのラインとこちらに向ける笑み、それに光。もう何日も一緒に暮らしているのにそういえばコウの上半身裸は見たことがなかった。色を重ねていく際に中がどうなっているのかある程度分かっているとただの想像よりも遥かに良い物が描ける。ここは寒いので、その内家でちょっと見せてもらおう、亮太はそんなことを思いながら鉛筆を走らせる。

 コウはかなりの少食なので、女子にもてたいならもう少し筋肉がついてもいいのかなあとは思う。

 そんなことをつらつらと考えながら、それでも手だけは動く。

 モデルのコウの腕にはみずちがくるりと巻き付いて、亮太を見つめるコウを見上げてはコウを描く亮太を見てうふうふ言っている。余程この状況が嬉しいらしかった。

 これでコウに恋人が出来て結婚して亮太の家から出て行ったら、みずちは相当落ち込むのではないか。それが心配ではあったが、だからといってコウが羽ばたく機会をそれだけの為に奪う訳にもいかないだろう。

 そういった将来に向けて動き出していることを、極力みずちには気付かせない様にする他ないだろう。少なくとも八岐大蛇の退治を完遂するまでは。

 昼飯時になったら帰ることになっている。腕時計をチラリとみると、もう十一時になるところだった。

 早起きしてランニングに筋トレ、それから絵を描き昼飯。正直この年にはそこそこきついスケジュールだが、昼寝の時間はこの後もらえる。

 本当だったら、一日中ずっとこうしていたかったがそういう訳にもいかない。

「コウ、今日はここまでにしよう」
「もうそんな時間か。残念」
「えー」

 そう言ってもらえるのは嬉しい。嬉しいが後がある。

 亮太は二人に笑いかけた。

「明日もあるから」
「まあそうだな。帰ったら私のコウが大きくなったか見てみよう」

 そう言って笑うコウは、真っ赤な大きな一輪の花の様だった。亮太は思わず目を擦った。やばい、こいつは男、男だ。ここのところみずちの所為で接触が多過ぎて、人恋しかったあまり少し気が緩み過ぎているのかもしれない。亮太はノーマルだ。客の中には色んな人間がいるのでそういうことがあることも勿論知ってはいるが、亮太はやはり女性がよかった。こればかりはどうしようもない。

 コウは、アキラ程子供でもなく狗神程男臭くないので、つい錯覚してしまうのだ。ああもう、嫌になる。嫌になるが見ていたいし見させてくれてしまう。

 我ながら酷いおっさんっぷりだと思った。本当にコウにこんなことを一瞬でも感じたことがバレたら、心底軽蔑されてしまうに違いない。

 そもそも暫くの間女ひでりだったのがいけないのかもしれない。こいつらに会うまで、亮太は何だか色んなことを面倒臭がっていた気がした。何故なのかはもう今となっては分からない。

「俺も恋人作ろうかな」

 ポツリと呟くと、思ったよりも店に声が響いてしまった。その後のしん、としたこの雰囲気。非常に居心地が悪い。そんな変なことは言ってない筈なのだが。

「さあ帰ろう、アキラが腹空かせて待ってるぞ」
「……そうだな」

 微妙な空気の中、亮太は道具を片付け始めた。



「亮太、明日の天気は雨です」

 帰宅早々、玄関に出迎えに来た狗神が開口一番にそう言った。狗神が天気予報をよくチェックしているのは、そういえばそういう理由だったのだと今更ながらに気付いた。

「明日はお休みですよね?」
「そうだけど、日中はさすがに拙くないか?」
「はい。なので、暗くなってきた夕刻辺りまで待ちたいのですが」
「昼飯抜いて酒も飲まないで待ってる感じだな」
「いや、亮太は食べてもいいのですが」
「匂いがしたらアキラが辛いだろうが」
「亮太は本当にもう、亮太ですね」

 狗神がそう言って笑った。

「イヌガミ、あんまり焦るんじゃねえよ」

 最近、狗神には焦りが見え始めている様に亮太には見えた。とにかく急いでいる。落ち着かない。段々と期限が近付いているからなのだろうが、そのピリピリとした雰囲気は周りにも自然と影響してしまう。

 みずちに必要なものと正反対のその空気がいい訳がなかった。

「私は焦ってなど」
「焦ってるだろうが。苛々していいことなんざねえよ。もっとどんと構えろ。一番の年長者だろ?」

 狗神が気にするであろう言葉を選んだ。狗神はプライドが高い。それは長年生きてきた所以であろうが、だから自分よりも若造に諭されるのには抵抗があるのだろう。だが弱みも見せたくないのだ。

「……はい」
「ちゃんと皆目標に向かって進んでる。誰も逃げようなんざ思っちゃいねえよ。もっと周りを信頼しろ。な?」
「……何かしていないと落ち着かなくて」

 狗神がポツリとと言った。

「じゃあ私に家事を教えてくれないか?」

 亮太の後ろから入ってきたコウが提案してきた。

「コウ様に、家事をですか?」

 コウが頷く。

「亮太が昼寝している間は暇だし、私も少しは役に立ちたいけど、今までろくに家事なんてさせてもらえなかったし」
「まあ、いい、ですけど」
「じゃあ決まりだ」

 コウが笑った。

「これからアキラはほぼ毎週首との対峙が待っている。体力の消耗も激しいだろうから、なるべく休ませてあげたいんだ」

 はにかんで言うコウの言葉はさすがは神の現身うつしみ、それはとても慈愛に満ちたものだった。そういえば、コウは一体何の神様なんだろう?

「お気遣い、感謝致します……!」

 狗神が深く頭を下げた。亮太はその様子をほっこりしながら眺めていたが、時計を見るともう大分いい時間だ。

 二人に声をかけた。

「さあ、飯にしよう。アキラがひっくり返るぞ」
「はい、そうですね」

 亮太も部屋に上着を置きに向かった。アキラは相変わらず呑気にテレビを観ている様に見えるが、こちらに意識が向けられているのが分かった。

「亮太」
「何だ」
「私も、先を夢見ていいのかな」

 思わず胸が詰まった。アキラはずっと諦めていたのだ。頼りになる筈の 須佐之男命スサノオノミコトは役に立たず、時間だけがなくなってきて、その状況で将来について夢を見ることなど出来まい。

 でも横では亮太もコウもみずちも先に進もうとしている。狗神は焦りを見せ、アキラは置いていかれる様な気持ちだったのではないか。

 先を見せる。それはとても大事なことなのだ。きっと。

 だから亮太はしゃがんで狗神に聞こえない様小さな声で言った。

「夢を見ろよ。いい大人の女になって、レンを落とせよ」
「……おっさん発言」
「いいんだよ、おっさんなんだから」

 それでもアキラの顔は満更でもなさそうだった。

「いい女ね……」

 そして考え込み始めたのだった。
しおりを挟む

処理中です...