死ぬまでのおしゃべり

ちゃっぷ

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第三話

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 とある週末。

 俺はいつものようにジメジメして、ホコリがそこかしこに降り積もっていて、カーテンの隙間から西日が突き刺さる部屋で目覚める。

 死ななければいけないという気持ちは、そこまでない。

 けれど週末だから……風呂に入って髭を剃って、スーツに身を包んで髪を結んで、煙草とライターをポケットに突っ込んだら部屋を出る。

 目的はもちろん、廊下の端、階段近くにある屋上へと続くはしごだ。

 けれどその日はどうしてか、はしごのそばにたくさんの警察官がいた。

 周りには規制テープが張られていて、住民なのかわからない人々が集まっていて、近づける雰囲気じゃなかった。

 何事かと階下を覗き込んでみると、マンションの駐車場にはパトカーや救急車もいて、警察官が規制する向こう側にはこれまたたくさんの人が集まっていた。

 ただ事ではない様子に、人見知りなりに勇気を振り絞って、はしごのそばに集まっていた一人に声を掛けてみる。

「……あの、どうかしたんですか?」

「ん? あぁ、飛び降り自殺があったらしいんですよ。詳しいことは分からないけど、屋上から飛び降りたんじゃないかってことで、警察が捜査してるんですって」

「……え?」

 屋上からの飛び降り自殺……その言葉を聞いた時に、小娘の姿が脳裏に浮かんだ。

 階下から甲高いサイレンの音が聞こえて、ハッとなって廊下から慌てて覗き込むと、救急車が一目散にどこかへ行ってしまった。

 俺は急いで向き直り、親切な人にさらに尋ねる。

「あ、あの……! 飛び降りた人は、無事なんですか? どんな人だったとか、分かりますか!?」

 俺のあまりの勢いに気圧されているその人は、戸惑い気味に「そ、そんなのわからないよ……」と答えて、逃げるようにどこかに走り去っていった。

「そう……ですよね」

 俺はきっと、もうあの人には聞こえていないであろう声を漏らす。

 当然だろう、ただの野次馬に飛び降りた人のことなんて分かるはずない。

 けれど俺は……小娘が飛び降りたんだと、思った。

 毎週末、屋上で会っていたんだ。

 他の人なんて見たことない……彼女以外に飛び降りる人物なんて、思い当たらない。

 だから小娘が飛び降りたのだろうと、自然と思った。

 なんで彼女が飛び降りたのかは分からない。

 恋人とのことで問題が起きたか、男性関係で恨みでも買っていたか、家族との問題だろうか……。

 部外者の俺には、何一つ分からない。

 足元が歪んだように感じてグラリと身体が揺れて、マンションの壁に思いっきりぶつかる。

 けれど痛みは感じない。

 頭にあるのは、俺も死ななきゃいけない……小娘が行ったのであれば、俺も行こうと……ただそれだけだった。

「レディファーストなんて言ったけど、ほんとに先に行ってどうするんだよ……」

 誰にも聞こえないであろう声を漏らして、俺は俯く。

 できれば彼女と同じように屋上から飛び降りたかったけれど、警察が出入りして見張っているこの状態では難しいだろう。

 少し残念ではあるけれど、自分の部屋のベランダから飛ぼう。

 そもそも最上階に住んでいるのだから、屋上から飛び降りても大差ないだろう。

 なのに自分は、死のうと思った時にわざわざ屋上に行った。

 その時、初めて気がついた。

 あぁ、俺は死ななきゃいけないなんて思っていたのに、最初から死ぬつもりなんてなかったんじゃないかと。

 彼女がお手本を見せてくれて、初めて飛び降りようと思った自分。

 そんな自分を小さく嘲笑いながら部屋に戻ろうと踵を返すと、背後でなにやら騒がしい声が聞こえてきた。
 
「こら、入ってきちゃダメだよ!」

 若い男性の声が聞こえる……野次馬の誰かが、興味本位から動画撮影のために入り込もうとでもして止められたのだろうか。

 そう思いながらも、心底どうでも良いと思った。

「ちょっと! どいてよ!!」

 けれどその後に聞こえてきた若い女性の声は、聞き逃すことができなかった。

 聞き覚えのある声。

 でも……確証はない。

 恐る恐る……振り返ってみると、そこには警察に押されながらも、懸命に屋上へのはしごに手を伸ばしている小娘の姿があった。

 無事だったのか、何で屋上に行こうとしているのかなんて、考えている余裕はなかった。

 ただ反射的に、そちらの方に足が向かっていて、口が自然と開いた。

「あの、すみません」

 俺の声がすると警察官に必死の抵抗を見せていた小娘の動きがピタッと止まって、まん丸に見開かれた瞳でこちらを見つめていた。

 彼女を抑え込んでいた警察官が「なに? この子の保護者ですか?」と訪ねてきたので、コクンっとうなずいた。

 するとはぁー……と深いため息を吐いた警察官が、彼女の背中を押しながらこちらに歩いてきて「あまり危ない場所に近づけさせないでくださいね」と言ってきた。

 小娘はまだ目をまん丸にしながら俺を凝視していて、身体は硬直している。

 俺だって……同じだ。

 小娘本人に間違いがないか、身体に傷はないか、ちゃんと生きているか……彼女をじっと見つめて確認する。

 確認ができたら震える喉で息を吐いて、彼女の手を引いて今いる場所と反対側の階段まで歩く。

 反対側の階段まではそれなりに距離がある。

 長い廊下を歩いている間、お互いに無言だった。

 階段まで到着したら、俺はくるりと振り返って……小娘を抱きしめた。

 小娘の身体は小さくて、温かくて……俺の目からは涙が次々に溢れ出してくる。

「……い、生きてて良かった……!」

 震える喉でそう言って、俺は……初めて自分が生きていて良かったと思えた。

 生きていたから彼女に出会えて、また再会できた……早まらなくて良かったと、いつだか小娘が言っていたことを思いながら、ひたすらに泣いた。

 すると腕の中で、小娘のすすり泣く声が聞こえ始めた。

 背中に小娘の腕が回されて、ギュッと抱きしめ返される。

「……こっちのセリフだよ。私、てっきりおじさんが飛び降りたのかと……。ほんと、生きててよかった……!」

 彼女もきっと、同じことを思っているだろうなと思った。

 自分も相手も、生きていて良かったと。

「俺は、お前に……生きていてほしい。頼むから、死なないでくれ」

 泣きながら、そんな情けないセリフが溢れる。

 小娘はうんうんと頷きながら「私も、おじさんに生きていてほしい。生きて」と震える声で返す。

 そうしてお互いに抱きしめ合いながら泣いて、泣いて……泣いた。

 お互いに声を出して泣くタイプではなかったおかげで、特に注目を浴びることはなく、その日は「死ぬなよ」と言い合って、笑顔で家に帰った。

 家に帰ってから、俺はあまりの疲労感から部屋にあるソファに倒れ込んだ。

 はぁー……とため息を吐いて、油断するとまた涙が溢れ出してきそうになるので、腕で目元を抑え込んで堪える。

 そして思う。

 どうか生きててくれ、死ぬなと。
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