「完結」熊さん!もう一杯

leon

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第一話:熊さんの居酒屋

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都会の裏路地、ネオンの喧騒から少し離れた場所に、その店はあった。木造の古びた建物に、赤提灯がゆらゆら揺れる。看板には達筆な文字で「熊の隠れ家」と書かれている。扉を開けると、鼻をくすぐるのは焼き魚の香りと、どこか懐かしい木材の匂い。そして、カウンターの向こうには、でっぷりとしたヒグマが立っていた。
「いらっしゃい! まぁ、座んな! 飲むか? 食うか?」
熊五郎、通称クマさんが、ドスの効いた声で客を迎える。体は2メートルを超え、毛むくじゃらの腕でジョッキを磨く姿は、初めての客なら腰を抜かしそうになる。だが、常連たちは知っている。この熊、見た目とは裏腹に、心は繊細で、酒と料理の腕はピカイチだ。
その夜、店のカウンターには3人の客がいた。
佐藤健太、28歳。スーツはヨレヨレ、目はしょぼしょぼ。今日も上司に怒られ、プレゼンの資料をボツにされたサラリーマンだ。
「クマさん、いつものハイボール……いや、今日は何か強いのを」
健太がぐったりと呟くと、クマさんはニヤリと笑った。
「お前、顔が死んでるぞ。よし、俺の特製ハチミツハイボールだ!」
ゴツい爪でレモンを握り潰し、山から直送されたハチミツをドボドボ注ぐ。出来上がった黄金色のドリンクは、まるで魔法の薬のようだった。
隣の席では、山田美咲がスケッチブックにペンを走らせていた。35歳、フリーランスのイラストレーター。締め切りが3つ重なり、目にはクマ(動物じゃない方)ができている。
「クマさん、ビールもう一本! 締め切りが……締め切りがぁ!」
「ハハッ、描く前に飲む! それが美咲の流儀だろ?」
クマさんが冷えたビールを滑らせると、美咲は一気に半分を飲み干し、「生き返る!」と叫んだ。
そして、座敷の隅では、田中じいさんが日本酒の徳利を傾けていた。70歳、元漁師。クマさんとは20年来の付き合いらしいが、誰もその馴れ初めを知らない。
「クマよ、最近の若いモンは軟弱だな! 俺の若い頃はな、嵐の海でマグロと格闘して……」
「じいさん、毎週その話だぞ。俺の山での話も負けねえからな!」
クマさんがドンと胸を叩くと、店内に笑い声が響いた。
健太はハチミツハイボールを一口飲んで、目を丸くした。
「うわ、なんだこれ! 甘いのにキリッとして……クマさん、魔法でも使ってる?」
「ハハ、魔法じゃねえ。山のハチミツと、俺の愛情だ!」
クマさんがウィンク(に見える仕草)をするも、熊の顔ではただの目パチにしか見えない。健太は思わず吹き出した。
その時、店の引き戸がガラリと開いた。スーツ姿の男が入ってきた。無表情で、年齢は分からない。クマさんが「お、来たか!」と声を上げたが、男は無言でカウンターの端に座った。
「アイツ、毎週金曜に現れるんだ。名前も知らねえが、酒の飲み方がハンパねえ」とクマさんが囁く。健太と美咲はチラリと男を見たが、すぐに自分のグラスに戻った。
「さて、健太! 今日の悩みは何だ? まぁ、飲みな! 話はそれからだ!」
クマさんの声が、居酒屋の夜を温かく包み込んだ。


健太はハチミツハイボールをもう一口飲んだ。甘さと炭酸のシュワッとした刺激が、疲れ切った体に染み渡る。まるで、クマさんが山から持ってきたハチミツに、ほんの少しの魔法が混ざっているみたいだった。
「で、健太。今日は何をやらかした?」
クマさんがカウンターを拭きながら、ニヤニヤと健太を見た。ゴツい爪が布を握る姿は、なんだか不器用で愛らしい。健太はため息をつき、グラスを置いた。
「やらかしたっていうか……またプレゼンの資料、ボツにされたんですよ。上司に『佐藤、これじゃ小学生の自由研究だ』って。ハハ、笑うしかないですよね」
健太の声は自嘲気味だった。28歳、就職して5年。なのに、未だに同期の後ろを追いかけるばかりで、自信なんてカケラもない。
「ほぉ、小学生の自由研究か。それはひでえな!」
クマさんが豪快に笑うと、店の梁がビリビリ震えた。隣の美咲がスケッチブックから顔を上げ、ビールを片手に口を挟んだ。
「健太、それマジで言われたの? ひどいね、上司! でもさ、うちのクライアントも似たようなもんよ。『この絵、なんか違う』って。なんか、って何!?」
美咲の声がだんだんヒートアップし、ペンを振り回す。スケッチブックには、クマさんの顔をモデルにしたらしい、シュールな熊のイラストが乱雑に描かれていた。
「美咲、お前も大概だな! その絵、俺をバカにしてねえか?」
クマさんが目を細めてスケッチを覗き込む。美咲は「芸術よ、芸術!」と笑いながらビールを飲み干した。
その様子を、座敷の田中じいさんが徳利を傾けながら眺めていた。
「ふん、若いモンはすぐ落ち込む。俺の時代はな、船の上でミスったら海に放り込まれたもんだ! クマよ、お前もそう思うだろ?」
「じいさん、俺は山育ちだ。海の話はわかんねえよ!」
クマさんがドンとカウンターを叩くと、健太と美咲が同時に笑い出した。店の空気が、まるで炭酸の泡のようにはじけた。
健太は少しだけ心が軽くなった気がした。ハチミツハイボールのせいか、クマさんの豪快な笑い声のせいか、それともこの店の居心地の良さのせいか。
「クマさん、なんで居酒屋なんかやってるんですか? 熊なのに」
健太がふと尋ねると、店内の空気が一瞬だけ変わった。美咲が「ほんと、それ! 私も気になる!」と身を乗り出し、田中じいさんまで「む、いい質問だな」と徳利を置いた。
クマさんはジョッキを磨く手を止め、遠くを見るような目をした。
「んー、まぁ、昔の話だ。山にいた頃、腹減ってハチミツ探してたら、なんか人間のキャンプに迷い込んじまってな。そしたら、酒ってモンを初めて飲んだんだ。ウマくて、楽しくて、気づいたら人間の言葉まで覚えてた。で、思ったんだ。こんなウマいモンを、いろんな奴と一緒に飲みたいってな!」
「いや、待って! それめっちゃ雑な説明!」
美咲が突っ込むと、クマさんは「細けえことはいいんだよ!」と笑い飛ばした。田中じいさんが「ハハ、らしいな!」と徳利を掲げ、健太もつられてグラスを上げた。
だが、カウンターの端に座るスーツ男だけは、黙ってウイスキーを飲んでいた。彼の目は、クマさんの話を聞いているのかいないのか、どこか遠くを見ているようだった。クマさんがチラリと男を見やり、「アイツ、絶対何か隠してるぜ」と健太に囁いた。
「え、なになに? スパイ? やくざ?」
健太が小声で返すと、クマさんは「宇宙人だ!」と真顔で言い放ち、二人でクスクス笑った。
「さて、健太! 仕事の話、戻そうぜ。ボツくらった資料、どうすんだ?」
クマさんがハチミツの瓶を手に、ドンとカウンターに置いた。健太はグラスを握りしめ、ぼそっと呟いた。
「どうするって……もう、辞めたいですよ。自分、向いてないのかも」
その言葉に、店内の笑い声が少しだけ静まった。美咲がスケッチブックを閉じ、田中じいさんが徳利を置いた。クマさんは、大きな目を細めて健太を見た。
「辞める? ハハ、そりゃ楽な道だな! でもな、健太。山でハチミツ探すのだって、簡単じゃねえ。蜂に刺され、崖から落ちそうになりながら、必死で探すんだ。それでも、甘いハチミツ見つけた時のうまさは、格別だろ?」
健太はポカンと口を開けた。クマさんのたとえ話、めっちゃ熊っぽいけど、なんか刺さる。美咲が「クマさん、詩人!」と拍手し、田中じいさんが「ふむ、悪くねえ」と頷いた。
「で、健太。お前のハチミツはなんだ? 仕事で、どんな甘いモンを味わいたい?」
クマさんの声は、ゴツい見た目とは裏腹に、どこか優しかった。健太は少し考え、口を開いた。
「ハチミツ、か……。なんか、誰かに『佐藤、よくやった』って言われたい、かな。ちっちゃい夢ですけど」
「ちっちゃくねえ! 立派なハチミツだ!」
クマさんがドンとカウンターを叩き、健太の背中をバシンと叩いた。力強すぎて、健太はハイボールをこぼしそうになった。
「よし、決めた! 健太、次のプレゼンで絶対『よくやった』って言わせてやる! 俺が特訓してやるぜ!」
「え、特訓!? クマさんに!?」
健太が目を丸くすると、美咲が「面白そう! 私も見たい!」と手を挙げ、田中じいさんが「ふん、俺も昔の営業術を教えてやる!」と乗り気になった。
その時、スーツ男が静かに立ち上がり、ウイスキーの代金をカウンターに置いた。クマさんが「お、帰るか? また金曜な!」と声をかけると、男は小さく頷き、店を出て行った。
「アイツ、絶対宇宙人だよな?」
クマさんがニヤリと笑うと、健太と美咲が「だよね!」と声を揃えた。田中じいさんが「バカ言え、ただの酒飲みだ!」と笑い、店はまた賑やかな空気に包まれた。
健太はハチミツハイボールを飲み干し、グラスを置いた。
「クマさん、特訓って何すんですか? まさか、山でハチミツ探しとか?」
「ハハ、そりゃいいアイデアだ! だが、まずはな……もう一杯、飲みな!」
クマさんが新しいハイボールを差し出し、店の赤提灯がゆらりと揺れた。




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