3 / 12
第一章
異形の者
しおりを挟む
──美沙
不意の大きな音に驚き顔を上げる。 電車が地下に潜ろうとしていた。隣に座っていたサラリーマン風の男性が私をちらりと訝しげに睨んだのが横目にわかった。
美沙の手の感触を今でもはっきりと思い出せる。
そういえばあの日、美沙は右手の人差し指に絆創膏を巻いていた。血が滲んでいたのを心配して声をかけたことを覚えている。
あのアンティークの時計盤のようなものが妙にひっかかる。確か美沙の遺品整理の時……
記憶を辿っているところに、横浜駅に到着することを告げるアナウンスが流れてくる。
広大な迷路のような横浜駅を慣れた足取りで通り抜けて、きた東口を出た。そこから十分ほど海の方へ歩くと、私の住んでいるマンションがある。社会人になってから住み始めたのだが、横浜駅から近いこと、海の見える景色が美しいことからとても気に入っている。
マンションに着くとオートロックの六桁の暗証番号を素早くプッシュして、エレベーターホールへ向かう。ちょうど若い夫婦がエレベーターから降りてきた。今から夜景でも見に行くのだろうか? などと、どうでも良いことを考えながらエレベーターへ飛び乗り、12階のボタンを連打した。
自宅に着くと早速と冷蔵庫からチーズを取り出し、義父にもらった赤ワインを開ける。
美沙とは生前、よくこの組み合わせで朝まで飲み明かしたものだ。アルコールが入ると決まって紅くなった頰に手をあてる仕草が可愛かった。そんな美沙との幸せな生活があっけなく終わるなんて……
つらい記憶を追い払うように、ぐいとワイングラスを傾けた。
アルコールが脳の血管に染み渡りはじめ、やっと心地よくなってきたところで、あのアンティークの時計盤を探してみようとソファから立ち上がった。
美沙の遺品は寝室のクローゼットにしまっている。クローゼットを開けると、所狭しと積み上げられた美沙の衣装ケースが目に入った。彼女は洋服も大好きだった。気持ちの整理がまだできていない私は処分できずにいたのだ。
結局、一番奥の最も取り出しにくい場所にあったダンボール箱からそれは出てきた。風呂敷に包まれていたが、私はそれが探していたものであるとなぜか確信することができた。時計盤がまるで声なき声で私を呼んでいるかのようであった。
風呂敷を丁寧にめくり、そっとテーブルの上に置いた。
ふと、自分の後ろに気配を感じて振り向く。もちろん誰もいるわけがない。
視線を手元に戻そうとした時、ふいにテーブルの脇に置いていたワイングラスを倒してしまいそうになった。私はワイングラスを落とすまいと慌てて手を伸ばす──
「つっ!」
時計盤の中央から突き出している鋭利な円錐で腕を切ってしまったのだ。かなり深く切ったようで鮮血が時計盤に滴り落ちる。
その時だった。
時計盤の三本の針がカリカリと不気味な音を立ててゆっくりと動きだしたのだった。
悪魔、道化、女性、それぞれの針が違う速度で廻る。四、五周廻ったところで、ゆっくりと女性、道化、悪魔の順で止まっていった。
悪魔の針が止まった瞬間、自分のいるリビングが異様な空気に包まれたのがわかった。冷たい汗が背筋を伝い、体が小刻みに震え始める。
先ほどの違和感どころではない。後ろから氷の刃で心臓を刺されるような感覚。全身が総毛立ち、冷や汗が滝のように滴り落ちる。いる、後ろに何か!
私はありったけの勇気を絞り出し、後ろを振り返る──
「お、お前は……」
腰が抜けて、床に座り込む。背中がテーブルにぶつかりグラスが床に落ちたのがわかる。
──そこにいたのは、明らかにこの世の存在ではないとわかる異形の者だった。
一見すると人間の女性のような体躯の「そいつ」は、赤く長い髪、細長い手をだらんと前に垂らし、俯きながら猫背気味の体制でゆらゆらと揺れながら立っていた。
全身に黒いラバースーツを着たスラリとしたマネキンのような姿で、太ももから腹、胸の辺りまで毛細血管のような赤い筋が無数に浮き出ているのが不気味さを一層際立てせていた。
「そいつ」はゆっくりと頭をもたげる。徐々にわかる「そいつ」の異様な顔に私の心臓は激しく鼓動していく。
目のないマネキン。言わばデスマスク──それは虚ろで悲しげな若い女性の顔を思わせるものだった。
恐怖がピークに達する。このままこの場にいると、異常なまでの心拍数に耐えきれず死んでしまいそうだ。
気がつけば、私はここにいるはずもない妻の美沙の名前を呼んでいた。
「美沙……美沙……」
美沙の名前を聞いた「そいつ」は突然、頭を抱えだした。そして全身赤い塵となり霧散していく。
いったい何が起きたのだ?
霧となり消えていく異形の者を私は呆然と眺めたまま、しばらく動くことができなかった。
数分ほどそうしていただろうか。皮肉にも怪我をした腕の痛覚が蘇ったおかげで、体が動くようになったのだった。
不意の大きな音に驚き顔を上げる。 電車が地下に潜ろうとしていた。隣に座っていたサラリーマン風の男性が私をちらりと訝しげに睨んだのが横目にわかった。
美沙の手の感触を今でもはっきりと思い出せる。
そういえばあの日、美沙は右手の人差し指に絆創膏を巻いていた。血が滲んでいたのを心配して声をかけたことを覚えている。
あのアンティークの時計盤のようなものが妙にひっかかる。確か美沙の遺品整理の時……
記憶を辿っているところに、横浜駅に到着することを告げるアナウンスが流れてくる。
広大な迷路のような横浜駅を慣れた足取りで通り抜けて、きた東口を出た。そこから十分ほど海の方へ歩くと、私の住んでいるマンションがある。社会人になってから住み始めたのだが、横浜駅から近いこと、海の見える景色が美しいことからとても気に入っている。
マンションに着くとオートロックの六桁の暗証番号を素早くプッシュして、エレベーターホールへ向かう。ちょうど若い夫婦がエレベーターから降りてきた。今から夜景でも見に行くのだろうか? などと、どうでも良いことを考えながらエレベーターへ飛び乗り、12階のボタンを連打した。
自宅に着くと早速と冷蔵庫からチーズを取り出し、義父にもらった赤ワインを開ける。
美沙とは生前、よくこの組み合わせで朝まで飲み明かしたものだ。アルコールが入ると決まって紅くなった頰に手をあてる仕草が可愛かった。そんな美沙との幸せな生活があっけなく終わるなんて……
つらい記憶を追い払うように、ぐいとワイングラスを傾けた。
アルコールが脳の血管に染み渡りはじめ、やっと心地よくなってきたところで、あのアンティークの時計盤を探してみようとソファから立ち上がった。
美沙の遺品は寝室のクローゼットにしまっている。クローゼットを開けると、所狭しと積み上げられた美沙の衣装ケースが目に入った。彼女は洋服も大好きだった。気持ちの整理がまだできていない私は処分できずにいたのだ。
結局、一番奥の最も取り出しにくい場所にあったダンボール箱からそれは出てきた。風呂敷に包まれていたが、私はそれが探していたものであるとなぜか確信することができた。時計盤がまるで声なき声で私を呼んでいるかのようであった。
風呂敷を丁寧にめくり、そっとテーブルの上に置いた。
ふと、自分の後ろに気配を感じて振り向く。もちろん誰もいるわけがない。
視線を手元に戻そうとした時、ふいにテーブルの脇に置いていたワイングラスを倒してしまいそうになった。私はワイングラスを落とすまいと慌てて手を伸ばす──
「つっ!」
時計盤の中央から突き出している鋭利な円錐で腕を切ってしまったのだ。かなり深く切ったようで鮮血が時計盤に滴り落ちる。
その時だった。
時計盤の三本の針がカリカリと不気味な音を立ててゆっくりと動きだしたのだった。
悪魔、道化、女性、それぞれの針が違う速度で廻る。四、五周廻ったところで、ゆっくりと女性、道化、悪魔の順で止まっていった。
悪魔の針が止まった瞬間、自分のいるリビングが異様な空気に包まれたのがわかった。冷たい汗が背筋を伝い、体が小刻みに震え始める。
先ほどの違和感どころではない。後ろから氷の刃で心臓を刺されるような感覚。全身が総毛立ち、冷や汗が滝のように滴り落ちる。いる、後ろに何か!
私はありったけの勇気を絞り出し、後ろを振り返る──
「お、お前は……」
腰が抜けて、床に座り込む。背中がテーブルにぶつかりグラスが床に落ちたのがわかる。
──そこにいたのは、明らかにこの世の存在ではないとわかる異形の者だった。
一見すると人間の女性のような体躯の「そいつ」は、赤く長い髪、細長い手をだらんと前に垂らし、俯きながら猫背気味の体制でゆらゆらと揺れながら立っていた。
全身に黒いラバースーツを着たスラリとしたマネキンのような姿で、太ももから腹、胸の辺りまで毛細血管のような赤い筋が無数に浮き出ているのが不気味さを一層際立てせていた。
「そいつ」はゆっくりと頭をもたげる。徐々にわかる「そいつ」の異様な顔に私の心臓は激しく鼓動していく。
目のないマネキン。言わばデスマスク──それは虚ろで悲しげな若い女性の顔を思わせるものだった。
恐怖がピークに達する。このままこの場にいると、異常なまでの心拍数に耐えきれず死んでしまいそうだ。
気がつけば、私はここにいるはずもない妻の美沙の名前を呼んでいた。
「美沙……美沙……」
美沙の名前を聞いた「そいつ」は突然、頭を抱えだした。そして全身赤い塵となり霧散していく。
いったい何が起きたのだ?
霧となり消えていく異形の者を私は呆然と眺めたまま、しばらく動くことができなかった。
数分ほどそうしていただろうか。皮肉にも怪我をした腕の痛覚が蘇ったおかげで、体が動くようになったのだった。
0
あなたにおすすめの小説
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
セクスカリバーをヌキました!
桂
ファンタジー
とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。
国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。
ステラはセクスカリバーを抜けないまま武闘会に出場して……
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる