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第一章

異形の者

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 ──美沙みさ

 不意の大きな音に驚き顔を上げる。 電車が地下に潜ろうとしていた。隣に座っていたサラリーマン風の男性が私をちらりといぶかしげに睨んだのが横目にわかった。
   
 美沙の手の感触を今でもはっきりと思い出せる。
 そういえばあの日、美沙は右手の人差し指に絆創膏を巻いていた。血が滲んでいたのを心配して声をかけたことを覚えている。

 あのアンティークの時計盤のようなものが妙にひっかかる。確か美沙の遺品整理の時……


 記憶を辿っているところに、横浜駅に到着することを告げるアナウンスが流れてくる。

 広大な迷路のような横浜駅を慣れた足取りで通り抜けて、きた東口を出た。そこから十分ほど海の方へ歩くと、私の住んでいるマンションがある。社会人になってから住み始めたのだが、横浜駅から近いこと、海の見える景色が美しいことからとても気に入っている。

 マンションに着くとオートロックの六桁の暗証番号を素早くプッシュして、エレベーターホールへ向かう。ちょうど若い夫婦がエレベーターから降りてきた。今から夜景でも見に行くのだろうか? などと、どうでも良いことを考えながらエレベーターへ飛び乗り、12階のボタンを連打した。

 自宅に着くと早速と冷蔵庫からチーズを取り出し、義父にもらった赤ワインを開ける。
 美沙とは生前、よくこの組み合わせで朝まで飲み明かしたものだ。アルコールが入ると決まって紅くなった頰に手をあてる仕草が可愛かった。そんな美沙との幸せな生活があっけなく終わるなんて……

 つらい記憶を追い払うように、ぐいとワイングラスを傾けた。
   
 アルコールが脳の血管に染み渡りはじめ、やっと心地よくなってきたところで、あのアンティークの時計盤を探してみようとソファから立ち上がった。

 美沙の遺品は寝室のクローゼットにしまっている。クローゼットを開けると、所狭しと積み上げられた美沙の衣装ケースが目に入った。彼女は洋服も大好きだった。気持ちの整理がまだできていない私は処分できずにいたのだ。
   
 結局、一番奥の最も取り出しにくい場所にあったダンボール箱からそれは出てきた。風呂敷に包まれていたが、私はそれが探していたものであるとなぜか確信することができた。時計盤がまるで声なき声で私を呼んでいるかのようであった。
  
 風呂敷を丁寧にめくり、そっとテーブルの上に置いた。

 ふと、自分の後ろに気配を感じて振り向く。もちろん誰もいるわけがない。
 視線を手元に戻そうとした時、ふいにテーブルの脇に置いていたワイングラスを倒してしまいそうになった。私はワイングラスを落とすまいと慌てて手を伸ばす──

  「つっ!」

 時計盤の中央から突き出している鋭利な円錐で腕を切ってしまったのだ。かなり深く切ったようで鮮血が時計盤に滴り落ちる。

 その時だった。
 時計盤の三本の針がカリカリと不気味な音を立ててゆっくりと動きだしたのだった。   

 悪魔、道化、女性、それぞれの針が違う速度で廻る。四、五周廻ったところで、ゆっくりと女性、道化、悪魔の順で止まっていった。
 悪魔の針が止まった瞬間、自分のいるリビングが異様な空気に包まれたのがわかった。冷たい汗が背筋を伝い、体が小刻みに震え始める。

 先ほどの違和感どころではない。後ろから氷の刃で心臓を刺されるような感覚。全身が総毛立ち、冷や汗が滝のように滴り落ちる。いる、後ろに何か!
 
 私はありったけの勇気を絞り出し、後ろを振り返る──

「お、お前は……」

 腰が抜けて、床に座り込む。背中がテーブルにぶつかりグラスが床に落ちたのがわかる。


 ──そこにいたのは、明らかにこの世の存在ではないとわかる異形の者だった。

 一見すると人間の女性のような体躯の「そいつ」は、赤く長い髪、細長い手をだらんと前に垂らし、俯きながら猫背気味の体制でゆらゆらと揺れながら立っていた。
   全身に黒いラバースーツを着たスラリとしたマネキンのような姿で、太ももから腹、胸の辺りまで毛細血管のような赤い筋が無数に浮き出ているのが不気味さを一層際立てせていた。

 「そいつ」はゆっくりと頭をもたげる。徐々にわかる「そいつ」の異様な顔に私の心臓は激しく鼓動していく。
 

 目のないマネキン。言わばデスマスク──それは虚ろで悲しげな若い女性の顔を思わせるものだった。


 恐怖がピークに達する。このままこの場にいると、異常なまでの心拍数に耐えきれず死んでしまいそうだ。
 気がつけば、私はここにいるはずもない妻の美沙の名前を呼んでいた。

「美沙……美沙……」

 美沙の名前を聞いた「そいつ」は突然、頭を抱えだした。そして全身赤い塵となり霧散していく。

 いったい何が起きたのだ?
 霧となり消えていく異形の者を私は呆然と眺めたまま、しばらく動くことができなかった。


 数分ほどそうしていただろうか。皮肉にも怪我をした腕の痛覚が蘇ったおかげで、体が動くようになったのだった。
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