おとうさんはやくたすけにきて 娘と蝶の都市伝説

花丸 京

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1章

謎の古文書

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 1
翻訳された謎の古文書こもんじょは、いきなり本文から始まっていた。
『これは過去から続く伝聞をしたためたものである。
まだ全国統一もなされていない、王も出現していない時代のある日、村に一人の若い娘がやってきた。
娘は、人と仲良くなるために旅にでた、と妙な目的を村人に告げた。

毛皮の衣をまとい、背丈はすらりとし、頭はわれわれよりも小さめで、手足も長かった。
筋肉が引き締まったしっかりした体つきだった。
お前はそうやって出会った人と仲よくなるために旅をつづけているのかと聞くと、娘はそうだと答えた。

そしてここまできたとき、ふいに、新たな使命を思い出したので、今はこのまま歩いていくだけだと告げた。
この先は雪と氷の山だけだ、と忠告したが、もし自分が山で氷に埋もれてもそっとしておいて欲しい、そして氷がける時がきたら迎えにきてください、待っています。

そう答え、ぴょう~と口笛を吹きながらいってしまった。
村の一人が跡をつけたが、娘は山のふもとの洞窟の中に入っていき、氷に閉じ込められ、二度とでてこなかった。
すぐに寒波がやってきて、山は再び厚い氷におおわれた』

文章はそれで終わっていた。

「なんだよ、これは……」
秦周一はたしゅういちは、白髪しらが混じりの髭面で息を殺した。
翻訳された文章に目を走らせ、思わず声をもらした。
これが長い間、秦家が代々大切に保管してきた古文書の内容だったのだ。
肩の力が抜け、みるみる視界がぼやけた。

──その日、秦は仕事着の白衣のボタンも掛けず、西日の当たる漢方薬局『龍玉堂りゅうぎょくどう』の店舗の中央に立っていた。
そして壁に掛かった、妻の明日子あすこと四歳だった娘の雪子ゆきこの写真を見上げていた。
この世から妻と娘が消えてしまってからというものの、どこかたがが外れてしまた。

『おれは、また中国の奥の雲南省うんなんしょうにでかけるよ。それに龍玉堂を受け継ぐ同じ血筋の親類がいるので、もうこの店を閉めようと思っている。もしかしたら今回は長い旅になるかもしれない。うまくいくように見守っていてくれ』
二人にそう告げ、でかけてきた旅だった。
そしてついに古文書を読み解く希代きたいな人物に出会ったのである。

だが──。
「しかし秦さん、ここにある山は、雲南の奥、チベット自治区との国境にある梅里雪山メイリーシュエンシャンと書かれています」
書道家の楊正寧ようせいねいが説明する。
描かれた地図に秦の焦点が合わなかった。

「地図はとても正確で、いまもこのとおりのはずです。この×印には『洞窟』があるそうです。この古文書は、古代人によって残されたものでしょう。実は偶然ですが私の親類は、この地図が描かれている雲南省の徳欽ダーチンという町に住んでいます。親類は梅里雪山のふもとの小さな村、明永氷河みんえいひょうがのある明永村の出身です。

若いとき、私は何度も遊びにいきました。なにしろ私の遠い遠い祖先が、薬を作って暮らしていた土地ですからね。そんな人は、今はどこにも住んでいませんが、一族としてあなたの祖先も梅里雪山の麓で暮らしていたのでしょう。もし現地のこの洞窟にいきたいのなら、村の知人に案内するよう手紙を書いてあげますよ」

心熱に語りかける書道家の声が聞こえた。
秦と書道家は、どうやら遠い時代に、同族らしかったことも判明した。
書道家は、数千年ぶりかで出会った同族を前に思案気に顎をなでた。

「しかし、妙な内容ですな。見知らぬ娘が突然やってきて、人と仲良くなりにきたと言ったんですな。とにかく娘は×印のある氷の洞窟に閉じ込められたというんですな」
その古文書には、秦国しんこく始皇帝しこうていが求めた不老長寿の秘薬や、未知の薬草について書かれている訳でもなかったのだ。

「行ってみますか?」
 老齢の書道家は、ようすを探るように訊ねた。
「もちろんです。でも、一度日本に帰ってからにしたいです」
とりあえずは日本に戻らなければならなかった。

梅里雪山ばいりせつざんという山は、登山に興味のある者ならば、1991年1月3日に起きた京都大学を中心にした日本登山隊11人と、中国登山隊6人の遭難事故を知らぬ者はいない。
それが、古文書の地図に記されていた山だったのだ。

書道家のようによれば、山の麓にある村が、秦たちの歴史的な故郷でもあるという。
村の近くに明永という氷河があり、洞窟はその氷河の流れに沿った裏路にあった。
時間を見つけ、また行かなければと気にかけながら、日本に帰って一年近くがたった。
南極の氷や世界各地の氷河が融けだすニュースが、しきりにながれた。
『氷が融けたら迎えにきてください。待っています』と告げた古文書の中の娘の言葉が、秦の頭の中で、梅里雪山の山路を点々とした黒い文字の列になって登っていった。


徳川時代、龍玉堂りゅうぎょくどうは京都から新しい日本の都、江戸に移った。
秦周一の祖先は、中国の古代国家、秦国しんこくから来ていた。
何よりの証拠が、『秦国雲南薬草書簡』という秘伝書である。
書簡は秦家の貴重な宝物になった。

書簡は四十ページほどで、その時代時代の新たな薬草の情報が何度も書き直され、最後は漢文で編纂へんさんされていた。
表紙の裏には、初めの口伝くでん情報が竹符に記され、いんの時代に甲骨こうこつに刻まれた象形文字の情報が一まとめにされ、漢字が使われだした周、秦、漢、と代々受け継がれ、新しい情報を加えながら大幅に書き直された、と記されていた。

記録が事実ならば、三国時代以前の口伝の時代を含めた約二千年間の薬草情報ということになった。
中国には、秦の時代にまとめられた『神農本草経しんのうほんどうきょう』という薬草の本があるが、これとはまったく異なる内容だった。
また中国最古の薬草書でもある『呂氏春秋ろししゅんじゅう』とも別の流れを組む薬草本であった。

この秦国雲南薬草書簡しょかんたずさえ、秦を名乗った人物が日本に渡ったのである。
その書簡の書体は象形文字の名残りをとどめた隷書れいしょに近い漢字だった。
内容は、残念ながら何度も書き直されていたため、甲骨文字などの情報は跡形もなく、今の時代から見れば特異な例を除き、古代からの普遍的な薬草情報でしかなかった。

また書簡は、の時代の原本を紙の大きさや形、そして薬草の絵や文字にいたるまでそっくり模写され、現代に至ったものと推測された。
 ところが書簡が収められた古い木箱の底板が二重になっており、そこに二つ折りの茶褐色の一枚の文書が納まっていた。

A4ほどの大きさのその紙には、漢字ではなく、見なれない記号のような文字で並んでいた。
山を表すような三角の絵と簡単な地図も描かれ、同じ文字の説明文が記されていた。なにを意味するのか、ある地点には×印も付いていた。
古びて、今にも崩れそうにぼろぼろになったその古文書も何度か写し直され、そこに仕舞われていたに違いなかった。

薬草の仕入れを兼ね、秦家の祖父も父もその山の地図を携え、中国に渡った。しかし、なにも掴めなかった。
山の地図があっても、雲南省うんなんしょうは日本とほぼ同じ大きさの見渡すかぎりの山国である。
祖父や父は日本や中国の文化研究所などに問い合わせ、写真も送って調べていた。
もちろん、懐に古文書こもんじょのコピーを忍ばせ、何度も雲南省にでむいた。

昔と違い、いまは雲南省全体にバスが走っていた。
都市と都市を結び、飛行機も飛んでいた。
雲南省の漢方薬関係の問屋や店を廻ったおかげで、秦は独自の薬も手に入れた。
同時に何種類もの中国語も覚えた。
だが古文書の方は、だれに見せても首を振るばかりだった。

そして旅立つ前に妻と娘に誓ったとおり、ついに、一人の老書道家と出会ったのである。
雲南省の古い交易都市、麗江れいこうの旧市街地、緑茶取引で栄華を誇った古城の町だった。


古城には、現在も使われているトンパという象形文字があった。
地元で信仰されているトンパ経の経典の絵文字である。
同時に書道家も多く、旧民族が残したと思われる文字を独自で調べている研究家もいた。

老書道家は、取引先の知人の紹介だった。
本業はやはり代々の薬屋で、トンパ文字とは別に、古代民族が残した象形文字を調べていた。
店の名前は雲南薬堂。主の老書道家が店舗を兼ねた一階の板敷の客間で秦を待っていた。
年寄り臭さのない、黒い顎髯あごひげを生やした骨の太そうな老人だった。

「知人から連絡がありました。どんな古文書をお持ちでしょうか。さあ、見せてください」
待ち遠しさを表すように、老書道家はごつごつした十本の指をそろえ、両手の平をさしのべた。
秦もつられたように、上着の内ポケットから折り畳んだ用紙をあわてて取りだした。原書のコピーである。

コピー用紙を手にしたとたん、主は、あっと口を開けた。
「あなた、これを、どこで?」
「秦国雲南薬草書簡という書物と一緒に、私の祖先が残してくれたものです」
「秦国雲南薬草書簡だって?」
 黄色い目を大きく見開いた。

「その書簡は何冊ありました?」
「一冊ですが」
「どんな文字で書かれていました?」
「漢字でした。本とは別に、その紙が本を収めた木の箱の底に入っていました」
「その書簡、今お持ちですか?」
「日本の私の店の金庫にしまってあります」

その答えを聞き終えるや、老書道家はちょっと待ってくれと、席を立った。
大股で店舗兼客間を横切り、隅の急階段を登っていった。
 息つく間もなく、五冊の本を抱え、戻ってきた。
「あなたが持っているのは、これですか?」

席に着くと同時に、テーブルの上に本を並べ、そのうちの一冊をさしだした。
秦家の秘蔵の秦国雲南薬草書簡とそっくり同じものだった。
手に取り、裏表紙をめくって確かめたが、秦家のような説明文は記されていなかった。

「五冊あります。その時代時代の本です。新しい時代がきたときに、新しい情報を付け加え、その時代の文字で書き直してあるんです。もちろん五冊とも写本です。その中の、いちばん古い書簡がこれです。この書簡に使われている文字が、あなたのその文書もんじょに使われている古代文字なのです。

いちばん古い書簡といちばん新しい書簡を比べれば、古代文字が解読できます。でも、すらすらとは解けません。一冊めと五冊めが同じという訳ではないんです。明日の昼までにやっておきましょう。ところで、あなたは間違いなく我々の血縁です。秦国の都からは遠かったのですが、雲南の薬草医の村の噂を聞いた始皇帝しこうてい召抱めしかかえられたのでしょう。秦国が滅びた後、日本に渡ったんですな」

書道家は、いちばん古い一冊、古代文字で書かれた書簡のページをめくり、秦に見せてくれた。
書道家は、楊正寧ようせいねいという名前だった。
秦と楊は、三千年余ぶりかでの再会の握手をした。

日本では稲作が始まり、すでに弥生文化が誕生していた。
そんな時期に、大陸から秦周一の祖先が渡来したのだ。
遣隋使けんずいし遣唐使けんとうしの時代でも船の航海は命がけだった。
どのような旅だったのかは不明である。とにかく困難を乗り越え、海を渡ったのだ。
 

明永村みんえいむらは、標高二千メートルほどの谷にあった。
梅里雪山ばいりせつざんが造りだす明永氷河の河口の村である。
三月半ばだったが、熱帯のミャンマーに近く、ふもとの気候はやや温暖だ。

村の周囲は濃い緑におおわれ、それぞれの季節には、胡桃くるみ、梨、林檎りんご、桃、すももなどが実をつける。
所どころ、見たこともない高山植物が花を咲かせている。
日本からははるか遠い、秦の祖先が暮らしていたとおぼしき山の村ではあったが、あまりにも歴史が古く、感慨の持ちようがなかった。

村長に挨拶をし、地図を見せ、場所を確認した。
「わざわざそんな所にいく人は、誰もいません。その洞窟は、内部が氷っています。もっとも少し前の話ですけど」
無精髭ぶしょうひげにトレッキング姿の秦を、村人たちが無言で見送った。

生薬しょうやくの商売をしている秦は、私的な生薬調査を兼ね、遊び半分できたのでガイドはいらないと断ってあった。
秦は正規の観光の道からはずれ、地図のとおり脇路に入った。急な登りである。
やがて足もとが小石状になり、ざくざくと音をたてだした。

その足音が重なって聞こえた。懐かしさが胸にこみあげた。
若かった妻の明日子と二人、何度そんなふうに連れだって山路を歩いたか。
彼女は山女やまおんなだった。
知り合ったとき、若いくせにかなりの登山歴だった。秦も登山に熱中した。

巡り合った、たった一人の女性だった。
妻を思い出すと、やるせなさで心が震えた。
ずっと一緒に暮らしていたかった。だが、それは叶わなかった。
明日子が口ずさむ澄んだ歌声が聞こえてきた。
『いつかある日  山で死んだら  古い山の友に  伝えてくれ……』

振り返ってみた。もちろんだれもいない。
「そうだよな」
眼下には森が広がり、彼方には、低く連なる山々の稜線りょうせん。梅里雪山は雲南省のはずれにある。すぐ隣はチベットだ。

秦は地図をだし、確認した。
その谷の奥の左側、壁の下に洞窟があるはずだ。
目を凝らし、ゆっくり歩む。
意外にも、あっさり発見することができた。

「あっ、あった……」
声をあげていた。
村人の説明のとおりだった。崖の下に、瓦礫がれきに半分埋もれた穴が口を開けていた。
遠い昔、だれがどのように書き伝えてきたのか、地図はいまもぴったり洞窟の場所を示していたのだ。
まるで秦を誘っているかのような×印だった。

胸がときめいた。冗談半分で父が言っていたように、祖先の宝物が隠されているかも知れない、という期待がなきにしもあらずだ。
深呼吸をし、さあいくぞとつぶやく。
からだの高さほどの、瓦礫の斜面を這うように登った。

目の前に半円形の入り口が迫った。
息を殺し、首をのばした。
直径一、五メートルほどの黒々とした闇である。
古文書に記された歴史的空間だ。
秦は、氷の中に浮かんで眠る一人の女性を想像した。

遠い時代に一人の娘がやってきて、この洞窟に入った。
その娘は、迎えを待っているとも言った。
迎えとは自分じゃないだろうな、と腹這った態勢から両手を突いてからだを起こした。
入口からのぞいた限りでは、凍っていないようだった。

「いくぞ」
胸騒ぎを振り切るように、再びつぶやく。
秦は瓦礫がれきの縁を越え、内部に踏み込んだ。
ヤッケを着た全身が、冷気に包まれた。
遠い時代の空気が、両耳に触れたような気がした。

背中のザックを足もとにおろし、用意してきたパワーライトを取りだした。
黒い岩盤が筒状に伸びている。内部の高さは身長の二倍ほどだ。
下に水は溜まっていない。

一歩、二歩と歩きだした。
天井も左右の壁もしっかりしている。崩れた跡はない。
奥のほうがまだ氷っているとしたら、氷漬けの女は氷の中に横たわっているのではないのか──ありえないとは分かっていても、そんな光景が目に浮かんだ。

ライトを左右にふり、壁際を照らした。湿り気のある黒っぽい岩が光った。
なにもない。地元の人たちも関心を示さないどこにでもあるただの洞窟だ。
三〇メートルもきただろうか。壁がゆるやかに右に曲がっていた。

秦の妻は二八歳の若さで病死し、残されたたった一人の娘は四歳のとき、事故で亡くなった。それ以来、秦は一人暮らしだ。
洞窟の黒い壁に、遠い日の妻の顔が浮んだ。
「久しぶりだな……」
秦は、つぶやいてみた。

「例の古文書に誘われて、とうとうここまできてしまったよ。期待に反した内容だったけど、どういう所かなと思ってな」
そう話しかけると、明日子が微笑んでくれたような気がした。
からだの芯の力が抜け、緊張感がほぐれた。

カーブに沿って、二〇メートルもきただろうか。
壁や足元に氷結の気配はない。左右や天井を照らすライトを前方に向けてみる。
光の帯が、闇のなかで円錐形えんすいけいにのびる。
どうやら洞窟は、五〇メートルほどで終わっていそうだった。

冷気がしっかりあたりに漂っている。
奥は最近まで氷の世界だったような気配だ。
しかし、アイスウーマンも秦家の宝物の気配もない、ただの古い洞窟だった。

「え?」
洞窟に自分のおどろき声が木霊した。
腰を落とし、ぶるんと膝と顎を震わせた。
あわててライトを戻した。そこに一人の娘がいたのだ。

髪を昔の小学生のように額にそろえ、むしろのようなものを敷いて座っていた。
真っ暗な空間にたった一人、両手を行儀よく膝の上に乗せていた。そして灯りをともす秦のほうに穏やかな視線を向け、微みを浮かべていた。

「おお……」
秦は再び声をもらした。
衝撃が全身にほとばしった。
今度は、しっかりと封印していたはずの四歳の雪子の思い出だった。
秦は、両眼に閃光せんこうを浴びたように目がくらんだ。


三〇歳を過ぎたある日、秦は登山を計画した。
四歳の娘の雪子には、知り合いのおばさんと仲良く留守番をしていてくれ、と告げた。
すると一人娘の雪子が、母の形見であり、お守り兼宝物でもあった熊の縫いぐるみを手渡してきた。
大人の手の平に納まる小さな人形だった。
お守りを兼ね、いつも持ち歩いていたため、毛並みのある生地の表面はかすれ、熊だかたぬきだか分からない姿になっていた。

妻の明日子は雪子が二歳のとき、世を去った。
急性の病だった。妻を失ってから初めての登山だった。
「これは、雪子を守ってくれている大事な人形だ。あなたが持ってなきゃだめだ」
しかし背伸びをし、下からけんめいに人形を差しだした。
「これ、もっていって。ごぶじで」

澄んだ瞳に、揺るぎはなかった。
その瞳の奥が、かすかにブルーがかっている。
妻のほうにも秦のほうにも、そんな色の目の人はいない。
生まれた病院の先生は、遠い過去の遺伝子が、ふいに現れたのだと説明した。
「よし、持っていこう。もし雪子になにかがあったら、熊さんといっしょにすぐに助けにいくからな」

久しぶりの山はすがすがしかった。
狙いどおり、一気にリフレシュした。
予定した山荘で一泊したその夜、尾根を登る自分の姿を、かすかに青味を帯びた二つの瞳が頭上の空間から見詰めていた。

秦は蒲団の中だった。瞳には悲しい色があふれていた。雪子だった。
『どうした? なんでそんな目で見る』秦は、山小屋の闇の天井に目を凝らした。しかし登山の疲れですぐ、睡魔すいまに襲われた。

翌朝、目覚めてみるとアルプスの山々は爽快だった。
天高く澄んだ空が、心身を一気に吸い上げた。
一人、天空の孤高ここうの回路を歩む快感。
小さな峰を縦走じゅうそうし、山小屋でもう一泊した。

次の日、昼過ぎに予定の地点で山を下り、ふもとの駅に着いた。
家に電話をかけたとき、雪子の事故を知った。
「しまった」
秦は、ザックの後ろに付けていたお守りを外し、上着の内ポケットにしまいこんだ。
頼む、お守りを届けるから、なんとか持ちこたえていてくれ。
なにかがあったら助けにいくって約束したんだからな。

夕方、東京に着いた。タクシーで病院に駆けつけた。
熊の人形を手に登山の恰好のまま、案内された病室に飛びこんだ。
雪子の顔には白い布が掛けられていた。
大通りにでて、車に轢かれたのだ。
布を外すと、仏陀ぶっだのごとく薄目を開け、微笑ほほえんでいた。

生命の失せたその瞳には、白い膜ができていた。
膜の奥に、薄くブルーの色がよどんでいた。
そして、枕もとのメモ用紙には、つたない文字が連なっていた。
『お と う さ ん は や く た す け に き て』
病院に運ばれたとき、山にいる父に届くとおもい、苦しみながら看護婦さんに助けられ、覚えたての字で必死に書いたのだ。
秦はザックを背にしたまま、床に膝をついて泣いた。
 

「雪子……」
だれだ、というべきところを、そう口にしていた。
無意識のうちのつぶやきだった。
幼い雪子と同じように、前髪を額のところに揃えている。
そこにそっと座っている姿も含め、面影が雪子そのものだった。

「はい」
娘が、心持ち頭をもたげた。落ち着きのある、穏やかな中国語の返事だった。
光の束のなかで、娘も秦を見返した。
妻の明日子は、病気だったから仕方がない。
だが雪子は──と、それから三十余年になろうとしている今でも、悔やむ気持ちがふいに頭に浮かぶ。

「あなたは……こんなところで、なにをしているんですか?」
秦は、やっと中国語で話しかけた。
「分かりません」
娘は首を傾げた。澄んだ柔らかな声だった。

中国人にもチベット人にも見えない。
いや、ここにはたくさんの少数民族が住んでいる。
麓のどこかの村の娘が、洞窟に迷いこんだのか。
突然の出会いだったが、落ち着いた娘の態度につられ、秦も平常心を保った。

娘は瞳をライトに反射させ、瞬いた。
瞬間、秦の胸にふたたび衝撃が走った。
その瞳の奥に、淡いブルーの色が反射したのだ。
叫びそうになる喉に手をあて、こらえた。

「あなたは中国人だ。中国語を話しているじゃないか」
秦は衝撃を自ら否定しようとした。
「いいえ。下の村にいったとき、みんなが話していたので、覚えたんです。いつも見つからないように物陰に隠れ、会話を聞いていました。聞けばわたし、すぐに覚えます」
そうではない、もともと中国語を話していたので、すぐ頭に入っただけだ。

娘は獣の毛皮を着ていた。靴も皮だ。毛皮のポシェットを膝の上に置いている。
「あなたはその毛皮を着て、氷の中で眠っていたんじゃないだろうね」
あり得ないと思いながらも、訊いてみた。
「さあ……」
口をつぐんだ娘の横顔には、深い孤独の陰があった。

「気がついたらここにいたんです。中のほうが安全だから、ここで待っていたんです」
待っていたという言葉に、過去の記憶が波のように襲いかかる。
あのとき縦走などせず、熊の縫いぐるみを持って東京に帰っていたら……。
いや、今はそういう話ではない。

「待っているって、だれをですか?」
青味をおびた娘の目が、とまどってまばたく。
「もしかしたら、あなたかもしれません。最初にきた人です」
「私? 最初にきた人? その最初の人がきたらどうするつもりなの?」
「分かりません。きっと二人で外にでていくでしょう」

「それなら、外にでよう。一緒にいきますか?」
訳の分からない現実に、秦は一刻も早く明るい外に逃げだしたかった。
娘は、はいと答え、ライトの中で膝をくずした。

娘は意外に背丈が高く、体つきもしっかりしていた。
頭のてっぺんが、身長一七二センチの秦の額まであった。
頬の色も、この地方では見かけない白さだ。
荷物は肩に掛けた小さな袋──ポシェットだけだった。

座った場所には厚く枯れ草が重ねられていた。
そしてその上に、四角いむしろがきちんと敷かれていた。
辺りにゴミは散らしていない。
しつけられて育っているという印象が、秦をすこしばかり安心させた。

秦と娘は洞窟の入り口に立った。
娘は、四歳の雪子が成人したときの姿を想像させた。
瞳には、間違いなくかすかに青味があったのだ。

洞窟からでてきた二人の頭上を、一羽の鳥が横切った。
すると娘がさっとかがみこみ、足もとの小石を拾った。
「やっ」
素早く投げるクイックモーションだった。

小石が一直線、鳥をめがけ矢のように飛んだ。
鳥は翼をばたつかせ、すぐ先の岩場の斜面に落ちた。
「焼いてたべます」
呆然ぼうぜんと見守る秦に、娘はなにごともなかったように告げた。
(1ー1了)         

9995
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「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」 大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。 生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。 しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。 「すまない。私は父としての責任を果たす」 かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。 だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。 これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。

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