Dragon's Song-竜は祈りを捧ぐ その傍に在る者と共に

篁 玖月

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番外編

神話の生まれる前の夜

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 風が渡る山の奥、外界の喧騒から切り離された聖域にて、それは眠っていた。

 金の鱗は柔らかな光をまとい、山肌に溶け込むように佇んでいる。その瞳は深く、沈黙そのものを映していた。

 かつて、始まりの時に創られた二体の竜のひとり。創世の理を知る存在――金のセレナ。

 ……が、現在、静かに昼寝をしている。

「……風が穏やかだ。今日も人の気配は――」

 がさり、と、明らかに不自然な音が、静寂を裂いた。セレナは目を開けず、鼻先の風の流れを読み取る。

「……人間?」

 次の瞬間。

「いたあぁああぁあッッ!!」

 森の向こうから全力で駆けてくるひとりの人影。跳ねる金髪を後ろで束ね、土と葉にまみれた外套のまま、女は勢いよく飛び出してきた。

「記録通り! 間違いなく……七つ目の尾根を越えた先! 金鱗の反射光! いや待って大きい近い近い近――わあああっ!!」

 荷物ごと転がり込んできた人間は、バタバタと立ち上がり、金の竜を見上げると――

「……ご挨拶が遅れました! 神学・前史学専攻、アヴァンシア・ウィングロードと申します! 貴女が……金の竜、セレナ様ですね!? 本物の……!!」

「……人間。ここは、そなたらの領域ではない。立ち去るのが賢明だ」

「はい、仰る通りでございます! でもどうしても、お目にかかりたくて……! あの、もし差し支えなければ、翼長を少しだけ測らせていただけますか?」

「………………は?」

「貴女の飛び方や、金の鱗が光をどう返すのか――そこが曖昧なまま語られているんです。このままでは、このままでは、記録が物語に寄ってしまう」

 セレナは一瞬、言葉を失った。

「そんな理由で、ここまで来るとは……そなた、本気で命が惜しくないのだな」

「惜しいですよ!? でも知識も同じくらい尊いんです!」

「……愚か者め」

 * * *

 焚き火の明かりが、金の鱗をやわらかく照らしていた。

 風は止み、星はまだ昇らない。静寂の中、竜と人とが対座している。

「……それで。そこまでして、何を残したい」

 竜の声は低く、揺るぎない響きを持っていた。どこか達観した声音でありながら、拒絶の色は見えない。

「創世神イースの伝承を調べていて、”古竜”と呼ばれる存在の記録に突き当たったんです。ですが――」

 セレナは、ほんの一瞬だけ目を伏せる。

「……懐かしい名だ」

 アヴァンシアは勢いよく立ち上がると、背負っていた鞄から革の巻物を取り出す。

「この”古竜”という呼び名、どうしても納得できなくて!」

「……ふむ」

「貴女のような存在を”ただ古い”などと表すのは、あまりにも失礼だと思いませんか?」

「……名など、どうでもよい。呼びたいように呼べばよかろう」

「いいえ!」

 焚き火が揺れた。その熱気を振り切るように、アヴァンシアの声が走る。

「言葉は、未来に届く手紙です。正しい名があれば、正しい敬意が残ります。間違った名が広まれば、未来が歪むんです」

「……言葉が、未来のかたちを決めると?」

「はい!」

 アヴァンシアは勢いよく立ち上がり、背負っていた鞄を開く。
 中から現れたのは、擦り切れた革の巻物と、石片、金属片。

「各地で見つかっている“説明できない遺物”です」

 火の光を受け、異様な輝きを放つ断片。

「ここに刻まれている記述……おそらくは、現存する歴史が形を成す以前に用いられていた文明の言葉」

 一拍置いて、続ける。

「不思議なのは、竜を指す語です。各地に呼び名はありますが――この単語だけは、どうしても現行の言語体系に属さない」

 巻物の一部を示す。

「地域を越えて遺されている“dragon”という言葉。意味は、おそらく“竜”を指している」

 セレナは、焚き火の向こうで目を伏せた。

「旧世界の言葉……なるほど、懐かしい響きだ……その名で、呼ばれていた時代もあったな」

 それだけだった。

 アヴァンシアは息を呑んだ。

 ――旧世界。
 それは、文献上では仮説としてしか存在しない領域。
 だが今、その名は、伝承ではなく“記憶”として語られた。

 喉まで出かかった問いを、彼女は飲み込んだ。
 今、掘り下げれば、何かが壊れる。そう直感した。

 だから、ただ深く頷いた。

「そして、同じ文脈で使われていた言葉が、もうひとつありました」

 指先が、別の行をなぞる。

「“ancient”。意味は……“時を越えて残り続ける尊厳”」

 セレナの瞳が、わずかに細められる。

「私はそれを、”古きにして始源たる存在”として訳しました。つまり……”エンシェントドラゴン”。それが、貴女にこそふさわしい名です」

 風が止んだ。焚き火がぱちりと弾けた。

「エンシェントドラゴン、か」

 セレナは、ほんのわずかだけ視線を落とした。それは、誰にもわからないほど微細な感情の揺れだった。

「……悪くない。響きも、意味も」

「えっ、本当ですか!?じゃあ記録はそれで統一して――」

「……名を与えたと思うのは、そなたの自由だ。だが、我は変わらぬ」

「もちろんですとも!」

 アヴァンシアはぐっと拳を握った。セレナは思わず、長い尾で地面を軽く叩く。

「……私が、知ってしまったからです。知ってしまった以上、書かずにはいられない」

 その瞳には、曇りがなかった。

 セレナは黙って火の揺らぎを見つめたあと、ぽつりと呟いた。

「……ならば、せいぜい丁寧に書くことだ。未来の者たちが、そなたを笑わぬようにな」

 * * *

 焚き火は静かに燃え続け、夜が少しだけ深くなっていた。

 巻物を畳み、鞄に戻しかけたアヴァンシアが、ふと首を傾げる。
 視線は、セレナの金の鱗から、翼へと移り、そして思案顔のまま止まった。

「……あの」

「まだ何かあるのか」

「はい」

 間髪入れず、である。

「どうして、あなたは“鱗”なんですか?」 

「…………」

「古竜――いえ、エンシェントドラゴンである貴女と、各地で確認されている真竜……天竜や火竜たち。外見的な差異について、ずっと疑問に思っていまして」

 セレナは、答えず、尾をゆっくりと動かした。

「真竜たちは、翼が羽で、体はつややかな毛。一方で、貴女と、もう一体の古竜――セレス様は、輝く鱗を持つ」

 学者のとして目が、きらりと光る。

「系統進化……とは考えにくい。ですが、偶然とも思えない」

 セレナは黙って自身の前肢を見下ろした。
 月光を受け、滑らかに反射する金の鱗。
 それは確かに、真竜には見られぬ質感だった。

「もしや、役割の違い? あるいは創造の段階の差異? それとも環境への適応――」

 言葉が止まった。

 セレナが、焚き火の向こうで、あっさりと口を開いたからだ。

「知らぬ」

「えっ」

「知らぬ」

 低く、揺るぎなく、二度。

 アヴァンシアは目を瞬いた。

「……え、あの……創世の竜であられる貴女が?」

「創られたからといって、全部知っているわけではない。我とセレスは、世界と共に在るように創られた。それだけだ」

 火の揺らぎが、金の鱗を照らす。

「その後に生まれた竜どもが、なぜ羽を持ち、毛を持つか――その理由までは、知らぬ」

「でも……!」

「知らぬものは、知らぬ」

 きっぱりとした断言だった。

 アヴァンシアは、しばし沈黙し――そして、ふっと笑った。

「……なるほど」

「何だ」

「いえ。全部を知っている存在だと思い込むのは、学者の悪い癖ですね」

 鞄を抱え直し、少し照れたように続ける。

「世界と共に生まれた存在と、世界の中から生まれた存在。違いがあるのは、当然かもしれません」

 セレナは答えなかった。ただ、焚き火を見つめながら、静かに目を閉じる。
 知らない。だが、否定もしない。世界は、そういうものだ。

「……書くのか」

「はい。もちろん」

 アヴァンシアは頷いた。

「“理由は分からないが、差異は確かに存在する”と。それだけで、未来の研究は前に進めますから」

 セレナは、わずかに口角を上げた――ようにも見えた。

「……面倒な女だ」

「光栄です!」

「褒めておらぬ」

 そして静かに、ふっと鼻で笑った。

「だがまあ、そうだな……」

「ん?」

「そなたのような者に毛をむしられたりせずに済んでいると考えれば、鱗でよかったのかもしれんな」

「むしらないですよ!? 触るだけですっ……!」

 アヴァンシアが焚き火にくべた木の枝が、ぱちんと音を立てて燃え上がる。
 夜は、まだ続く。

 * * *

 アヴァンシアは、王都の一角に与えられた書斎にこもっていた。

 窓辺には風が通り、卓上には羊皮紙が幾重にも重ねられている。

 濃いインクを用い、走り書きだった記録を、一字一字、丁寧に清書していく。

 一度、深く息を吐いた。

 ――清書するには、早すぎるかもしれない。
 だが、きちんと書き留めておかなければ、という気持ちがペンを走らせる。

「……難しいですね」

 独りごちて、羽根ペンを止める。

 創世神イース。
 金の竜セレナ。
 銀の竜セレス。

 どれも、人々が“神話”として語りたがる名前だ。
 けれどアヴァンシアの記憶に残っているのは、焚き火のそばで聞いた、静かな声だった。

 ――名など、どうでもよい。
 ――だが、記すのなら、丁寧に書け。

「……わかっています」

 余計な感情は削ぎ落とす。
 だが、事実だけは、決して薄めない。

「金の竜、セレナと対話す。彼女は自らを神とも守護者とも名乗らず、ただ“世界と共に在る存在”であると述べた」

 誰にともなく答え、再びペンを走らせる。
 ペンが止まる。

 あの夜、創世神イースの名を口にしたときの、わずかな沈黙。

「創世神イースの名に対し、金の竜は“懐かしい”とだけ応じた。そこに敬意とも、哀惜ともつかぬ感情が含まれていたことは、記しておく」

 そして、最後に。

『竜と語ることは、支配ではない。理解しようとする姿勢そのものである』

 ペンを置き、ふと窓の外を見る。
 星は穏やかに瞬いていた。

「……これで、よかったんですよね」

 山奥で聞いた、あの溜め息を思い出す。

 未来がどうなるかは、わからない。
 だが少なくとも――。

「少なくとも、ここから始まったってことだけは……残しておこう」

 こうして。

 金の竜と学者の一夜の対話は、後に「創世神話」と呼ばれる体系の、最初の、静かな原型となった。

 ――すべては、ただ、知ろうとした者がいたからこそ。

 * * *

 山の奥。
 焚き火の跡が消え、風だけが渡る静かな聖域。

 セレナは、ひとり、岩肌に身を預けていた。

 人の学者は去り、言葉も、音もない。
 残っているのは、世界そのものの呼吸だけ。

 ――エルグランド。

 ふと、その名が脳裏をよぎる。

 まだ、世界が「世界」と呼ばれる前。
 大地が形を成し、命が芽吹き、やがてそれぞれの行き先を持ちはじめた頃。

 創世神イースは、別れ際にそう呼んだ。

 偉大なる大地――エルグランド。

 名を与えることは、支配ではなかった。
 祝福でも、命令でもない。

 ただ、「ここに在る」という事実を、言葉にしただけ。

 やがてイースは、その身を世界へと還し、光となり、風となり、命として散っていった。

 残されたのは、名と、理と、それを見届ける者たちだけ。

「……懐かしいわけだ」

 セレナは、誰にともなく、そう呟いた。

 名は、残る。
 記録は、残る。
 だが、記憶は――語られぬ限り、静かに沈んでいく。

 ――かつて、名を与えて去った者がいた。
 そして今、名を正しく残そうとする者がいる。

 それでも。

 誰かが知ろうとし、誰かが丁寧に書き留め、
 誰かが疑問を抱き続けるなら。

 世界は、歪まずに、前へ進む。
 セレナは、再び目を閉じた。

 金の鱗に、夜風がやさしく触れる。

 ――エルグランド。

 その名は今も、大地の奥で、確かに息づいていた。
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