Dragon's Song-竜は祈りを捧ぐ

篁 玖月

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慟哭の竜

選び直すために

 最初に戻ってきたのは、音だった。

 遠くで、何かが軋むような――風とも、布擦れともつかない、微かな気配。
 次いで、瞼の裏に差し込む、淡い光。

 ――生きている。

 そう理解するまでに、少し時間がかかった。

 ルフレ・スターレットは、ゆっくりと目を開けた。
 白い天井。高い梁。石造りの壁。
 どこかで嗅いだことのある、清めの香。

 神殿だ、と遅れて思い至る。

 身体は重く、指先に力が入らない。
 痛みはない。ただ――胸の奥が、空洞のように冷えていた。

 夢を見ていた気がする。
 炎。叫び声。黒い光。
 けれど、それらは形を結ぶ前に、霧のように溶けていった。

 代わりに残ったのは「取り返しのつかないことをした」という感覚だけだった。

 どれくらい眠っていたのかは分からない。

 ――心が、先に限界だったのだと。
 誰かに、そう告げられた気がする。

 目覚めたその日から、ルフレは、同じことばかり考えていた。

 ――このまま、守られていていいはずがない。

 * * *

 神殿の一室は、午後の光に満ちていた。
 高い窓から差し込む淡い日差しが、白い石床に、柔らかな影を落としている。

 ルフレは椅子に腰掛け、両手を膝の上で固く握りしめていた。

 向かいの椅子にはノア。
 その隣にレクサス。
 少し離れた位置で、イスズが肘をつき、退屈そうに天井を見上げている。

 沈黙に耐えきれず、ルフレは口を開いた。

「……ボク」

 声が、思ったよりも小さくなった。

「ボク、この国で……働きたいです」

 言葉を選びながら、必死に続ける。

「掃除でも、運びでも、なんでも……。ボクがやったこと、全部……取り返せないって、分かってます。でも……」

 視線が落ちる。
 卓の上、オルゴールの、触れられない蓋の上へ。

「……償いたいんです」

 その瞬間、間髪入れずに声が飛んだ。

「ダメー」

 あまりに軽い即答だった。

 ルフレが顔を上げる。
 イスズは、何事もなかったかのように欠伸を噛み殺している。

「……え?」

「だから、ダメ」

 今度ははっきりと。
 イスズは視線を下げ、ようやくルフレを見る。

「働くのはね、大人の仕事。アンタはまだ――世界を知らなさすぎる」

「でも……!」

 思わず声を強めると、喉が詰まった。

「ボク、ここで何もしないで守られてるだけなんて……それじゃ……」

 言葉が続かない。
 “許されない”と言いたかった。
 けれど、口に出す勇気がなかった。

 イスズは椅子に深く腰掛け直し、指で卓をとん、と叩く。

「“償いたい”って言葉が先に出るうちはさ」

 少しだけ、声の調子が変わった。

「……まだ、自分の傷を抱えるので精一杯なんだよ」

 ルフレの肩が、びくりと揺れる。

「そもそもさアンタ、子どもでしょ?」

 イスズは、肩をすくめるように続けた。

「そんな状態で働くとか……千年早い」

 少しだけ間を置いて。

「アンタが壊したものはね、汗かいて働いたらチャラ、なんて都合のいいもんじゃない」

 けれど、その言葉には突き放す冷たさはなかった。

「だからまず、勉強」

 イスズは指を立てる。

「字を覚える。歴史を知る。この国が、何を守ってきたのか。何を失って、それでも立ち上がってきたのか」

 唇を噛みしめる。

「……それで」

 震える声で、ルフレは尋ねた。

「それで……ボクは、許されますか」

 一瞬、部屋の空気が張り詰めた。

 イスズは首を傾げ、はっきりと言う。

「さあ?」

 その言葉に、胸が締めつけられる。

「許すかどうかなんて、誰にも決められない。アンタ自身にも、ノアにもね」

 でも、と付け加えて。

「“選び直す力”は、ちゃんと手に入る」

 ノアは黙ったまま、ルフレを見ていた。
 裁くでも、慰めるでもなく、ただ、そこにいる。

 レクサスが静かに口を開く。

 責める声ではなかった。
 それは、止めるための言葉だった。

「君がここにいる理由は、役に立つためじゃない」

 ルフレは、初めてレクサスの目を見る。

「生きるためだ」

 その言葉が、胸に落ちるまで、少し時間がかかった。

 * * *

 ノアは、膝の上に置いた布包みへと視線を落とした。

 神殿の小部屋。
 午後の光はやわらかく、窓の外では、風が木々を揺らしている。

「……これ、ね」

 彼女は布の端に指をかけ、言葉を選ぶように、一度だけ息を吸った。

「ラクティス団長たちが、アストラで復興支援をしていたときに見つけたの」

 向かいの椅子に座るルフレは、何も言わずに聞いている。
 視線は、布包みから外れたままだ。

「詳しい場所までは、聞いてない。ただ……“最初に魔力被害が大きかった村の、廃屋の中”って」

 ノアは、そこで少しだけ言葉を止め、そっと布をめくる。

 現れたのは、淡い茶色の毛皮だった。
 一部には焼け焦げた痕。

「……これを見たとき」

 ノアは視線を落としたまま、続ける。

「理由は分からないけど……なんとなく、気になって……」

 ルフレの喉が、小さく鳴った。

「――もしかして、って思ったの。……君と、関係あるんじゃないかって」

 少し間を置いて、ノアは言葉を足す。

「ラクティス団長もね。……狼にしては、大きすぎるって」

 部屋の中に、静寂が落ちる。

 ルフレは毛皮を見つめていた。
 けれど、すぐには手を伸ばさない。

 まるで、触れた瞬間に“確信してしまうこと”を恐れているかのように。

 しばらくして――覚悟を決めるように、震える手が伸びた。

 指先が毛皮に触れた瞬間、言葉が消えた。
 それから、掠れた声が零れる。

「……間違いない。……母さん、だ」

 それは、推測ではなく確信だった。

 冬の日の、あの温もり。眠る前に嗅いだ匂い。
 そして――最期の日、目の前で倒れた背中。

「……ここに……あったんだ……」

 声は、絞り出すようだった。

 ノアは、何も言えなかった。
 慰めも、言葉も、ここでは違う。

 ただ、少し距離を詰めて、同じ空間にいることを選ぶ。

 やがて、ルフレがぽつりと言った。

「……母さんを殺した人間は、許せない」

 その言葉には、嘘がなかった。

 同時に――その怒りを理由に、自分が何を選んだのかを、ルフレは、忘れてはいなかった。

 その選択をしてから、いつの間にか、彼の傍には、いつも彼女がいた。

 怒りを否定しなかった。
 悲しみを、弱さだとも言わなかった。

「許せないなら、それでいい」

 そう言って、寄り添った。

 その優しさが、救いだったのか、罠だったのか。
 今も、はっきりとは言えない。

 ただ一つ確かなのは――あのとき、彼女は確かに、同じ傷を抱えた者として、ルフレを見ていたということだった。

「……でも」

 小さく息を吸い、

「母さんを……見つけてきてくれて……ありがとう」

 ノアは、静かに頷いた。

 それ以上の答えは、必要なかった。

 * * *

 弔いは、ひっそりと行われた。

 神殿の裏手。
 人目につかない、小さな庭。

 石の根元に、淡い茶色の毛皮の一部が供えられる。

 すべてを土に返すことはしなかった。

 それが、失われたものを忘れないためなのか。
 それとも――生きていくためなのか。

 その違いを、ルフレは、まだ言葉にできない。

 祈りは、短かった。

「……ごめん」

 赦してほしいとは、言わなかった。
 許せない気持ちも、消えなかった。

 それでも――立ち上がることだけは、選んだ。

 神殿へ戻る途中、ルフレは足を止め、振り返る。

 ここで学び、字を覚え、歴史を知る。
 この国が、何を守り、何を失ってきたのかを。

 それは、償いではない。
 逃げでもない。

 ――選び直すための、準備だった。
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