Dragon's Song-竜は祈りを捧ぐ

篁 玖月

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亡国の残響

竜と氷の村前編

 詰所の片隅、陽光の差す机で、ノア・ライトエースは報告書を書いていた。
 筆が止まる。静かな扉越しに、控えめなノック。

「失礼いたします、ノア様。……投書が届いております」

 差し出された封筒は角が折れ、何度も握り直された皺が残っていた。躊躇いと焦りが、紙の硬さに染みついている。ノアは礼を言って受け取り、封を切った。

 紙面には、簡素な文字が並んでいた。

『私たちの村で、急な氷害が起きました。倉庫が凍り、梁が折れ、人が大怪我をしました。
 竜の仕業だと皆が言います。けれど、あの竜は暴れる竜ではありません。
 姿を消しました。……自分を責めているように見えます。
 どうか、確かめてください』

 署名はない。ただ、最後に小さく村の名だけが書かれていた。

 ノアは紙をそっと机に置く。胸の奥に、冷たいものが沈んでいく感覚。
 近頃、竜の名が妙に耳に残る。大きな戦乱ではない。けれど、火種のように、静かに残るものがある。

 外套に手を伸ばそうとしたとき、背後から柔らかな声がかかった。

「ノア、今――」

 振り返れば、王子レクサス・アルファードが詰所の入口に立っていた。
 用事があって来たというより、通りがかりに思い立って顔を出した――そんな気配。穏やかな微笑のまま、だが視線は机の上の紙ではなく、ノアの表情に留まっている。

「……邪魔だったかな」

「いえ。殿下、どうされました」

「少しだけ、様子を見に。――顔が硬いね」

 ノアは言葉を選びきれず、手元の紙に視線を落とす。

 レクサスは一歩、距離を詰めかけて、すぐに止まった。
 勝手に踏み込まない距離で、穏やかに言う。

「……それ、読んでもいい?」

 ノアは少し間を置き、頷いた。
 レクサスは紙面を受け取り、必要なところだけを静かに追う。読み終えたあと、視線を上げた。

「――氷害。倉庫が凍って、人が大怪我を……」

 声には揺れがなかった。だが、それは冷淡ではなく、事実を受け止めるための平静。

「……僕も同行するよ」

 ノアはわずかに目を見開いた。

 王族が現地に出ることの重さ。村人の動揺。責任。もしもの危険。制止の言葉が喉の手前まで上がって――それでも、止まった。
 レクサスの視線が揺らがなかったからだ。

「君に任せきりにはしたくない。……竜が“力”として裁かれる瞬間を、僕は見過ごしたくないんだ」

 ノアは息を吐き、頷いた。

「……承知しました。ですが、護衛の人数は近衛の規定があります。イスト隊長にも確認を取ります。可能な限り、目立たない形にしましょう」

「うん。そこは僕からも話す」

 それだけで、レクサスは十分だと言うように微笑んだ。
 ノアは出立の段取りを頭の中で組み直す。

「……では、殿下は馬で。私は――」

 口にする前に、ノアは一瞬だけ言葉を噛んだ。
 その理由を、説明する必要はない。レクサスは、もう知っている。

「……私は竜の姿で飛びます。合流地点を決めれば、時間も――」

「ノア。目立たない、という話をしていたよね」

 即答。落ち着かせるような、迷いのない声。

「事故の直後に竜が空から降りたら……村は救援より先に恐れる」

 正しい。だからこそ、言葉が出ない。

「……では、馬車を用意します。できる限り目立たない形で――」

 言い終える前に、ノアは自分の言葉に小さく気づいてしまった。
 “目立たない”と言っておいて、“馬車”。ノアは一瞬だけ視線を泳がせ、小さく唇を結ぶ。

「馬車は遅い。入口で止まれば、人目も集まる」

 レクサスは声を荒げないまま、淡々と現実を並べる。

「遅いほど、村は疑いに傾く。……恐れは、空白に勝手な想像を詰め込む」

 ならば――殿下には城に残っていただき、自分だけが向かう。理屈としては正しい。
 けれどそれを口にすれば、彼の心配を退ける形になる。
 ノアは視線を落とした。

 その沈黙を見て、レクサスはわずかに眉を和らげた。

「困らせてごめん」

 詫びる声音は、軽くない。しかし、言葉はそこで止まらなかった。

「それでも僕は行く。……この件を、君ひとりの肩に乗せたくないんだ」

 その一言で、ノアの正論は形を失う。
 残るのは、頷くしかないという現実だけ。

「だから、僕の馬で二人乗り。目立たず、速く着ける。君は前でいい。僕が支える。……君の負担も減らせる」

 “支える”という言葉が、命令ではなく配慮の形をしているのが、いちばんずるい。拒む理由を、丁寧に奪っていく。

「……承知しました、殿下」

 その返答に、レクサスの空気がほんの少しだけ緩んだ。勝ち誇るのではなく、安堵が形を取ったような微笑。

 声は平静に整えた。
 それでも、胸の熱がふっと頬へ上る。ノアは視線を上げないまま、手袋の指先をそっと握りしめた。

 * * *

 そのまま出立できるほど、城は自由ではない。
 まず通すべきは、近衛の規定だ。

「……まずは近衛の許可を取ろう」

 レクサスの声は落ち着いていた。甘さを断ち切るのではなく、現実へ戻す声。
 ノアは小さく頷き、二人は足早に近衛の詰所へ向かった。

 イスト・スタウトは報告を聞き終えると、銀縁眼鏡の奥で視線を細めた。

「殿下の外出に、護衛“最小限”は認められません」

 淡々とした声音。感情ではなく規律の刃。

 レクサスは頷いた。拒むのではなく、正面から受け止める仕草。

「当然だ。……だから、相談に来たんだ」

 言葉は静かで、揺れがない。

「今回の現地は、恐れと疑いが先に立っている。ここで護衛を増やせば、村は“救援”より“示威”を受け取る。――それは、僕の望む形じゃない」

 イストはすぐに答えない。
 沈黙の中で、条件が組み上げられていくのが分かる。

「……危険性の評価は」

「未知数だ。だからこそ、精鋭でいい。数ではなく、質で守る」

 レクサスは間を置き、続けた。

「王子として、この件を“聖騎士ひとりの任務”にはしたくない。だが同時に、村を追い詰める形も取りたくない。――その両方を守るための護衛だ」

 イストの視線が、ほんのわずかに揺れた。
 規律に忠実な男が、言葉の“筋”で動かされる瞬間。

「……随行は二名。目立たぬ装いで距離を取らせます。緊急時は即時撤退。これが条件です」

「ありがとう」

 レクサスの答えは短い。
 礼の形を取りながら、すでに次の段取りへ意識を移している。

 横で聞いていたノアは、小さく息を吐いた。
 彼は、守るべきものから順に並べた。――いつもそうだ。

 イストは少し黙して、ノアへ視線を向けた。

「ノア殿。現地判断で構いません。ただし、殿下を“守るために”無理をしないこと」

「……承知しました、イスト隊長」

 イストは最後にレクサスへ向き直った。

「では、行ってらっしゃいませ。――ご武運を」

 形式的な言葉のはずだった。しかし、その声音には、僅かな温度があった。

 * * *

 城門を抜けると、冷えた空気が頬を撫でた。
 厩で待っていた黒毛の馬を見た瞬間、ノアは小さく息を吐く。

「……コルト」

 あの時も、この背に並んで乗った――

 名を呼ぶより早く、馬のほうが近づいてきた。柔らかな鼻先が、ノアの手袋越しにそっと触れる。確かめるような仕草。
 ノアは目を細め、首筋へ手を伸ばして毛並みを撫でた。指先に伝わる体温が、胸の熱を少しだけ落ち着かせる。

 レクサスが先に鞍へ上がる。続けて差し出された手。ノアは一瞬だけ逡巡し、結局その手を取った。

 引き上げられ、ノアは前に収まる。背後に気配が満ちる。距離が近い――ただそれだけの事実が、意識を過剰に働かせた。
 レクサスは必要以上に触れない。けれど馬が歩み出した瞬間、ノアの重心が揺れかけたのを見逃さず、腕がそっと回る。

 ノアは背筋を固め、平静を装う。任務だ、と心の中で繰り返す。
 それでも頬の熱だけは冷めず、外気の冷たさでも誤魔化せない。

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