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亡国の残響
凍てつく再会・後編
氷の竜が身を捻り、息を吐く。
白い帯となった冷気が伸び、空気そのものの質を変えていく。
毛並みが風をはらみ、冷気が肩口をかすめて流れていく。
ノアは深く息を吸い、霜を振り払うように翼をひとつ揺らす。
市の方角へ、氷の筋が伸びかけ、ノアはすぐにその間へ割り込んだ。爪で地面を掻き、走る先を外へ逸らす。
守る。
まず守る。
そのあいだに、止める方法を探す。
氷の竜は、止められたことに反応しない。
怒りも、苛立ちもない。
ただ次の命令へ移るように、角度だけを変える。
ノアは背筋が冷えた。
目元の仮面は、彼の目を覆っているだけではない。
仮面の奥に、別の視線がいる。
「アルピーヌ……!」
名を呼んだ。
ノアの声は市の上を渡り、白い靄を震わせる。
ほんの一瞬だけ。
氷の竜の動きが止まりかけた。
霜の舞が鈍り、吐息の流れが乱れる。
仮面の赤い光も、微かに揺らいだ。
――戻りかけた。
けれど次の瞬間、氷の竜は再び動き出す。迷いのない軌道で、冷気を放つ。
ノアは歯を食いしばった。
市の方で、人の流れが生まれていくのが見えた。
露店の布が畳まれ、荷車が引かれ、子どもが抱き上げられる。
護衛たちが道を作り、レクサスが声を張る。
「こちらへ! 裏手へ回ってください! 走らないで、押さないで!」
言葉は落ち着いていた。
混乱が混乱を呼ぶ前に、流れを作る声だ。
誰かが泣き、誰かが怒鳴り、誰かが祈る。けれど、流れは崩れない。
その列の端で、ひとりだけ足を止めている影があった。
外套の裾を震わせ、松葉杖をついた女が、白い靄の向こうを見つめている。
顔色は青ざめていた。けれど、その目だけは逸れていなかった。
護衛が肩へ手を伸ばす。
「危険です、下がってください」
それでも、マレアは首を振った。
一歩。
松葉杖の先が石畳を打つ。
もう一歩。
避難の流れに逆らうように、彼女は前へ出る。
速くはない。
けれど、止められても止まらない歩き方だった。
レクサスの表情が変わる。
すぐに護衛へ合図を飛ばしたが、そのときにはもう、マレアは列の前へ出ていた。
「アルピーヌ……!」
大きな声ではなかった。
泣きそうに掠れながら、それでもはっきり届く声だった。
ただ、失いたくないものの名を呼ぶ声。
氷の竜が、止まった。
吐きかけた冷気が乱れる。
霜の流れが鈍り、前脚がわずかに地を踏み損ねる。
黒曜石の仮面が赤く脈動した。
一度。二度。
けれど今度は、その規則が揺らぐ。
氷の竜の視線が、マレアへ向いた。
「アルピーヌ……帰ってきて……」
マレアの声は震えていた。
松葉杖を握る手にも力が入り、指先が白くなる。
それでも、呼ぶことをやめない。
「お願い……あなたでしょう……?」
その瞬間、氷の竜の喉が震えた。
吐息が止まり、白い冷気が空中でほどける。
――戻りかけた。
ノアは息を呑んだ。
今度の揺らぎは、さっきより深い。
名前が届いたのではない。彼の中に残っているものが、確かに応えた。
けれど、仮面の赤が強く明滅する。
氷の竜の身体が大きくぶれた。
苦しむように首が揺れ、爪が地面を深く掻く。
冷気が制御を失いかけ、白い筋が無秩序に走りそうになる。
危ない、とノアは反射で動きマレアとの間へ割り込む。
翼を広げ、身体で庇う。
流れかけた冷気が毛並みをかすめ、霜が銀に絡みついた。
「下がって!」
ノアの声に、ようやくマレアが足を止める。
けれど視線だけは、氷の竜から外せないでいる。
氷の竜はなおも揺れていた。
進むべきか、退くべきか、それさえ定まらないように。
仮面の赤い脈動が、苛立つように明滅を繰り返す。
そして次の瞬間、動きが変わった。
氷の竜はノアとマレアを見たまま、ゆっくりと身を引く。
背を向けない。隙も見せない。
それでも、その軌道はさっきまでと違い、どこか迷いを帯びていた。
ノアは追おうとした。
だがその瞬間、市の方角で叫び声が上がった。
倒れた荷車。
転んだ子ども。
護衛のひとりが受け止め、レクサスがすぐに身をかがめる。
翼の内側では、マレアがよろめいていた。
松葉杖をつく音が、危うく石畳を打つ。
ノアは足を止めた。
悔しさで喉が詰まる。
それでも、守ると決めた。
氷の竜は白い靄の濃い方へ滑るように退き、そのまま霧の奥へ消えていく。
最後に、黒曜石の仮面の赤だけがひとつ強く脈打った。
けれど、その直前。
わずかに揺れた視線だけは、確かにマレアを見ていた。
ノアは、追わなかった。
代わりに翼を閉じ、冷えが市へ伸びないように身体を回す。
残った霜を払い、息を整える。
――追えば届く距離ではない。
今は、追うべきではない。
ノアは胸の奥へ息を落とした。声は立てない。けれど空気が、静かに応える。
白く貼りついた靄がほどけ、道に筋が通っていく。
――そこには、もう何もない。空だけが、薄く冷えた余韻を引きずっていた。
空気が戻り、音が戻り、人の声が戻ってくる。
ゆっくりと人の形へ戻り、膝をついたノアの肩に支えるようなレクサスの手が触れる。
「……大丈夫?」
ノアは頷こうとして、すぐに言葉が出なかった。
「……逃げられました」
「……仕方ないよ。あの場では、あれしかなかった」
責める響きはない。
慰めで軽く流すでもない。
ただ、あの場で守ることを選んだ重さごと受け止める声だった。
ノアは唇を噛み、頷いた。
* * *
――厚い金属に囲まれた区画に、黒い表示板が並んでいた。
その画面には赤い筋が走り、白い靄の中の戦場を映し出している。
ここには風の音が届かない。
揺れもほとんどない。船であるはずなのに、床は冷えた石のように落ち着いていた。
どこかで低い振動だけが続き、呼吸の間に、機械の鼓動が紛れ込む。
部屋の中央では、白衣の男が淡々と画面を見つめている。
その背後に、もう一人。
少し高い位置で腕を組み、満足そうに見下ろす男がいた。
「閣下。第一次運用、所期の範囲で成功。強制竜化、維持。帰投も問題ありません……ただ、呼称に対し微かな干渉ノイズが確認されました」
閣下と呼ばれた男は、画面に映る竜の姿を眺めたまま笑う。
「あれがストーリアの切り札だ。神竜が、人の顔で歩いている。……愚かで、都合がいい」
白衣の男は感情を挟まない。
「識別は完了しました。聖騎士ノア・ライトエース。神竜個体と同一です。挙動、出力、反応……解析に回せます」
閣下は静かに頷いた。
「次は、あれを獲る」
低く、しかし迷いのない声だった。
「竜は武力だ。武力は——国のものだ」
白い帯となった冷気が伸び、空気そのものの質を変えていく。
毛並みが風をはらみ、冷気が肩口をかすめて流れていく。
ノアは深く息を吸い、霜を振り払うように翼をひとつ揺らす。
市の方角へ、氷の筋が伸びかけ、ノアはすぐにその間へ割り込んだ。爪で地面を掻き、走る先を外へ逸らす。
守る。
まず守る。
そのあいだに、止める方法を探す。
氷の竜は、止められたことに反応しない。
怒りも、苛立ちもない。
ただ次の命令へ移るように、角度だけを変える。
ノアは背筋が冷えた。
目元の仮面は、彼の目を覆っているだけではない。
仮面の奥に、別の視線がいる。
「アルピーヌ……!」
名を呼んだ。
ノアの声は市の上を渡り、白い靄を震わせる。
ほんの一瞬だけ。
氷の竜の動きが止まりかけた。
霜の舞が鈍り、吐息の流れが乱れる。
仮面の赤い光も、微かに揺らいだ。
――戻りかけた。
けれど次の瞬間、氷の竜は再び動き出す。迷いのない軌道で、冷気を放つ。
ノアは歯を食いしばった。
市の方で、人の流れが生まれていくのが見えた。
露店の布が畳まれ、荷車が引かれ、子どもが抱き上げられる。
護衛たちが道を作り、レクサスが声を張る。
「こちらへ! 裏手へ回ってください! 走らないで、押さないで!」
言葉は落ち着いていた。
混乱が混乱を呼ぶ前に、流れを作る声だ。
誰かが泣き、誰かが怒鳴り、誰かが祈る。けれど、流れは崩れない。
その列の端で、ひとりだけ足を止めている影があった。
外套の裾を震わせ、松葉杖をついた女が、白い靄の向こうを見つめている。
顔色は青ざめていた。けれど、その目だけは逸れていなかった。
護衛が肩へ手を伸ばす。
「危険です、下がってください」
それでも、マレアは首を振った。
一歩。
松葉杖の先が石畳を打つ。
もう一歩。
避難の流れに逆らうように、彼女は前へ出る。
速くはない。
けれど、止められても止まらない歩き方だった。
レクサスの表情が変わる。
すぐに護衛へ合図を飛ばしたが、そのときにはもう、マレアは列の前へ出ていた。
「アルピーヌ……!」
大きな声ではなかった。
泣きそうに掠れながら、それでもはっきり届く声だった。
ただ、失いたくないものの名を呼ぶ声。
氷の竜が、止まった。
吐きかけた冷気が乱れる。
霜の流れが鈍り、前脚がわずかに地を踏み損ねる。
黒曜石の仮面が赤く脈動した。
一度。二度。
けれど今度は、その規則が揺らぐ。
氷の竜の視線が、マレアへ向いた。
「アルピーヌ……帰ってきて……」
マレアの声は震えていた。
松葉杖を握る手にも力が入り、指先が白くなる。
それでも、呼ぶことをやめない。
「お願い……あなたでしょう……?」
その瞬間、氷の竜の喉が震えた。
吐息が止まり、白い冷気が空中でほどける。
――戻りかけた。
ノアは息を呑んだ。
今度の揺らぎは、さっきより深い。
名前が届いたのではない。彼の中に残っているものが、確かに応えた。
けれど、仮面の赤が強く明滅する。
氷の竜の身体が大きくぶれた。
苦しむように首が揺れ、爪が地面を深く掻く。
冷気が制御を失いかけ、白い筋が無秩序に走りそうになる。
危ない、とノアは反射で動きマレアとの間へ割り込む。
翼を広げ、身体で庇う。
流れかけた冷気が毛並みをかすめ、霜が銀に絡みついた。
「下がって!」
ノアの声に、ようやくマレアが足を止める。
けれど視線だけは、氷の竜から外せないでいる。
氷の竜はなおも揺れていた。
進むべきか、退くべきか、それさえ定まらないように。
仮面の赤い脈動が、苛立つように明滅を繰り返す。
そして次の瞬間、動きが変わった。
氷の竜はノアとマレアを見たまま、ゆっくりと身を引く。
背を向けない。隙も見せない。
それでも、その軌道はさっきまでと違い、どこか迷いを帯びていた。
ノアは追おうとした。
だがその瞬間、市の方角で叫び声が上がった。
倒れた荷車。
転んだ子ども。
護衛のひとりが受け止め、レクサスがすぐに身をかがめる。
翼の内側では、マレアがよろめいていた。
松葉杖をつく音が、危うく石畳を打つ。
ノアは足を止めた。
悔しさで喉が詰まる。
それでも、守ると決めた。
氷の竜は白い靄の濃い方へ滑るように退き、そのまま霧の奥へ消えていく。
最後に、黒曜石の仮面の赤だけがひとつ強く脈打った。
けれど、その直前。
わずかに揺れた視線だけは、確かにマレアを見ていた。
ノアは、追わなかった。
代わりに翼を閉じ、冷えが市へ伸びないように身体を回す。
残った霜を払い、息を整える。
――追えば届く距離ではない。
今は、追うべきではない。
ノアは胸の奥へ息を落とした。声は立てない。けれど空気が、静かに応える。
白く貼りついた靄がほどけ、道に筋が通っていく。
――そこには、もう何もない。空だけが、薄く冷えた余韻を引きずっていた。
空気が戻り、音が戻り、人の声が戻ってくる。
ゆっくりと人の形へ戻り、膝をついたノアの肩に支えるようなレクサスの手が触れる。
「……大丈夫?」
ノアは頷こうとして、すぐに言葉が出なかった。
「……逃げられました」
「……仕方ないよ。あの場では、あれしかなかった」
責める響きはない。
慰めで軽く流すでもない。
ただ、あの場で守ることを選んだ重さごと受け止める声だった。
ノアは唇を噛み、頷いた。
* * *
――厚い金属に囲まれた区画に、黒い表示板が並んでいた。
その画面には赤い筋が走り、白い靄の中の戦場を映し出している。
ここには風の音が届かない。
揺れもほとんどない。船であるはずなのに、床は冷えた石のように落ち着いていた。
どこかで低い振動だけが続き、呼吸の間に、機械の鼓動が紛れ込む。
部屋の中央では、白衣の男が淡々と画面を見つめている。
その背後に、もう一人。
少し高い位置で腕を組み、満足そうに見下ろす男がいた。
「閣下。第一次運用、所期の範囲で成功。強制竜化、維持。帰投も問題ありません……ただ、呼称に対し微かな干渉ノイズが確認されました」
閣下と呼ばれた男は、画面に映る竜の姿を眺めたまま笑う。
「あれがストーリアの切り札だ。神竜が、人の顔で歩いている。……愚かで、都合がいい」
白衣の男は感情を挟まない。
「識別は完了しました。聖騎士ノア・ライトエース。神竜個体と同一です。挙動、出力、反応……解析に回せます」
閣下は静かに頷いた。
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