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人斬り仁右衛門
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「おとう」
そう呼ばれたとき、甚右衛門はさぞ戸惑ったにちがいない。
童がいる。奇妙な童だった。年は六つか七つ。いやに大人びた表情をしている。服は粗末で、一見百姓の子のように見える。見たこともない童だった。
甚右衛門は、妙におもった。甚右衛門に子はいない。逢瀬を共にした女はいるが、子ができたという風聞はきかない。だいいち年が大きすぎる。
行き過ぎようとした。
「おとう、まてっ」
童は慌てたようについてきた。甚右衛門は振り向きもしない。前を向き、声だけを発した。
「ついてくるな、俺はお前のおとうなどではない」
「おとうっ」
(まだ呼ぶかっ)
甚右衛門は、多少の苛立ちをこめ振り向いた。童はやわらかげな眉をしかめ、こちらを見上げている。
「おれはお前のおとうではないっ」
甚右衛門はもう一度いった。童は頭のうしろで手を組み、きいた。
「お前、波田仁之丞だろう」
甚右衛門は軽く目をみはった。こんな子供が、なぜ自分を知っているのか、不思議であったのだ。
人斬り甚右衛門──と男は呼ばれている。名の通り、これまで多くの人を斬ってきた。
甚右衛門とは通り名である。五年の間、この名を通してきた。波田仁之丞──これが、男の昔の名だった。
その仁之丞が旅に出たのは、人を探すためである。秋山五郎兵衛という名の男だった。仁之丞と同じく、名を変えているやも知れぬ。凶状持ちの、腐ったゴミのような人間だった。この男を、殺すための旅だった。
波田沐右衛門という男がいた。仁之丞のいた家の主人だった。家僕の仁之丞に親父殿と呼ばせ、剣を習わせてくれた。
天秤があったのだろう。仁之丞は期待に答え、神道無念流の道場で、代稽古までつとめている。沐右衛門は、仁之丞に、波田の姓を名乗らせた。
波田夫婦に子はない。いずれは仁之丞を、養子にするつもりだったのやも知れぬ。
その日は冬も間近の曇り空で、風もふかぬのに、いやに空気が冷たかった。
ひとり所用に出ていた沐右衛門めに、声をかけた者がいる。やくざまがいの、仕様もない男だ。
それが、秋山五郎兵衛だった。
意地の張り合いがたどり着いた、下らない喧嘩だった。あるいは城勤めだった沐右衛門を、疎んだ者の差し金かもしれない。仁之丞は城での沐右衛門を知らぬが、沐右衛門には我人共に認める、義の人の匂いがある。前後も見ずに、直言しかねない。
だが、そんなことは仁之丞にはどうでもよかった。沐右衛門めは胴を断ち割られ、それが元で死んでしまった。
病死、と届け出る手もあったが、場が悪かった。往来である。一件は公儀の知るところとなり、波田家はとり潰しとなった。妻のよねは身の悲運を嘆き、夫の後を追って、身を投げた。
仁之丞の悲しみは、想像もつくまい。この時には、涙も枯れ果てていた。
斬り手の五郎兵衛は死んではいない。奉行所の手を逃れ、そのまま消息を絶っている。
仁之丞は家僕だったが、剣の腕は立った。
五郎兵衛は小野派一刀流の術者である。気性に難があり、師範代にはなれなかったが、腕は仁之丞よりもよほど立つ。が、引くわけにはいかなかった。仁之丞は、恩を返すときがきた。そう信じた。
波田の家僕は、甚右衛門と名をかえた。そのまま身一つで、五郎兵衛の後を追った。
以来、仁之丞は甚右衛門となっている。五年が経、五郎兵衛めはまだ見つからない。
やくざ者の用心棒稼業を続けたこともある。その間、幾人かの人を斬った。数は知れない。
いずれも死んだところで、惜しくない男たちだった。だが、仁之丞は、自分もそんな男たちと同一だということを知っている。死んだところで、たれが泣こう。
「波田の名を知っているなら、人斬り甚右衛門のふたつ名も知っていよう。いねっ」
甚右衛門はくるりと童に背を向けた。
「いなんぞっ。おとう、待てっ」
童はしつこく追ってくる。
甚右衛門の胸中にかっと怒りが沸いたが、いくら人斬り甚右衛門といえど、こんな幼子を斬れるわけがない。疳の虫をどうにか堪え、
「俺はさる男をさがしている。童の足では付いてはこれまい」
ジロリ、睨んだ。
「ゆけるぞ」
童は怒ったように眉の谷間に皺をよせた。甚右衛門はどうでもよくなってきた。
「好きにしろ」
そう、いいのこしたかと思うと、足早に歩いていった。童は憮然とした顔でついてきた。
漂白と殺人の生の中で、波田仁之丞の魂は、次第次第に荒んでいった。人を斬り、仁之丞は己れの魂をも斬っていた。斬人の中に身を置くには、仁之丞はあまりに純粋でありすぎた。
俺はもはや人ではない。人でなしの人が、どうして人の世を渡れよう……
その思いが、強烈に仁之丞の心をとりまいた。今の仁之丞は、五郎兵衛を斬り殺すためだけに生きている。また、それ以外にどんな生きようもなかった。
人の埒外に飛び出してしまった人間が、どんなに努力しようと、二度と人の世には戻れまい……
「おとう、腹が減ったよ、おとう」
童のぐずるような声が、甚右衛門の思念を断ち切らせ、その神経を逆撫でにした。
甚右衛門は歩速もゆるめず、「いい加減にしろ。おれはお前のおとうではない」
低い声で、いまいましげに呻いた。
童は小走りにあとを追いながら、
「おとう、秋山はまだみつからんのかっ」
怒ったようにわめいた。八つ当りだった。
甚右衛門はしずかに告げた。「簡単にはみつからん。もう五年はさがしている」
「見つけてどうするっ」
甚右衛門の足が止まった。「斬り殺す」
童は押し黙った。見上げると、甚右衛門の瞳に、人斬りの持つ、暗い炎が宿っている。
童はそばの石ころを蹴りながら、訊いた。
「秋山はおとうに何した?」
「親父殿を殺した」即座にこたえる甚右衛門に、
「だからおとうも秋山を殺すのか?」
「そうだ」
「親父殿はなんと云うかなぁ」
童が気軽にいった。甚右衛門には、なんとも答えられなかった
品川までついた辺りで、甚右衛門はとうとう音を上げた。この童はどういうわけか、甚右衛門の健脚に苦もなくついてくる。時に、甚右衛門の方が疲れを見せるほどである。不気味だった。
宿に泊めねば外で寝る。飯をやらねばひとりでに食う。
それでもしっかりと後についてくるので、この人斬りの評判は下がる一方だった。傍目には、洋介は甚右衛門の子に見える。仕方なく、同じ部屋に住まわせはじめた。
そうなると、奇態なことに、甚右衛門にとって、この童はさして不快な存在ではなくなっていた。
別になにかをせがむわけでもない。ぐずりもしない夜泣もしない。これだけ手のかからない童も珍しかった。甚右衛門と居れば、それで満足するらしかった。奇妙な奴だ、と思った。そういえば、旅に出てはじめての道連れだった。
その童は洋介という名だった。一ヵ月近く一緒にいるのに、名も知らなかった自分が、甚右衛門はおかしかった。年をきくと、四つと答えた。甚右衛門の予想よりはるか幼い。
昼は彼の後ろを歩き、夜は枕をならべ寝る。たわいもない生活であったが、くだらなくはなかった。
甚右衛門は別段笑いもしないが、もう寂しいとは思わなくなった。洋介と居るとき、甚右衛門は、人斬りの自分を忘れていた。
甚右衛門は、この旅に出てはじめての安らぎをおぼえていた。だから、その町のやくざ者に喧嘩の助っ人を頼まれた時も、はなから断っている。
依頼にきたやくざ者たちは、これをよしとはしなかった。相手側につく、と思ったのである。甚右衛門が一人になるところを見計らって、手下を差し向けてきた。
「何用かね?」
そう問いかけながら、甚右衛門は腰の肥前忠吉をそろり捻った。相手は十人ばかりいるが、こんなものは甚右衛門にとって屁でもない。
場数が違う。人を斬った数が違う。この程度の数に、臆するような人斬りではなかった。
幾人となく人を斬り、手負いを負ったこともある。
二、三人を斬れば、後は逃げるか……
そんなことを思う余裕さえあった。
ちらりと、洋介の顔がうかんだ。めずらしく舌打ちが出た。
知るかっ
奇妙に苛立った。
一同の真中に立つ男が、口を利いた。
「人斬り甚右衛門。お前さぁ、うちの親分を怒らせたね」
甚右衛門はその声でようやく落ち着いた。顔を上げたときには、いつもの人斬りに戻っていた。
「とりたてて、何もしていないつもりだがね」
「そうだろうとも。相手方につかなければ、こちらも何もしないんだ」
「俺はどちらにも手は貸さないよ」
「そうだろうよ。だが、それではうちの親分が安心しないんだな」
男が笑った。自分を斬れば箔がつく、とでも考えているのだろう。
こんな手合いならいつものことだが、今の甚右衛門には癇にさわる相手だった。いつものように心が沈まない。煮えたぎる、怒りがあった。
「これまでだな、甚右衛門」
声と共に、男たちが一斉に斬りかかってきた。甚右衛門は、無言で肥前忠吉を抜き放った。
甚右衛門は、双腕を切り飛ばされ、呻いている男から意外なことをきいた。そばに、三人の男が倒れている。残りは逃げた。
その男は、秋山五郎兵衛を知っていた。甚右衛門は何気なく訊いただけである。だから、この答えに息がつまる思いがした。
秋山は数年前までこの地に住んでいたという。女をつくり、今は港のある宿場町にうつり住んでいる。
男はそれをしゃべったきり、また腕を抱えこみ、呻きはじめた。止血してやろうか、と思ったが、そんなことを考える自分によけい腹が立ち、なにもせずにその場を後にした。
甚右衛門はぐずる洋介をむりやり連れ出し、その日のうちに宿を発った。やくざ者はしつこい。すぐにこの町から離れねばならなかった。
「おとう、おとう、手を放せっ」
無言で歩く甚右衛門に、洋介がたまりかねたようにわめいた。
甚右衛門はその声で、ようやく自分が洋介の手を、きつく握りしめている事に気がついた。
「おとうっ、どうしたっ」
洋介が、甚右衛門から手をもぎ放しながら、怒ったように問いかけてきた。
「なんでもない」
「おとうっ」
「今夜はここで寝るっ」
甚右衛門は河原に降りはじめた。
拾った小枝で焚火をつつきながら、甚右衛門は物思いに耽っていた。
洋介は脇で寝ている。かすかな寝息に耳を澄ませながら、甚右衛門は男の言葉を反芻していた。
秋山五郎兵衛が、この近くにいる。五年さがしたあの男が、この近くに……。
小枝を持つ手に力がこもる。枝は甚右衛門の手の内で、ぱきりと二つに折れ曲がった。
「親父殿……」
涙が出た。洋介の云う通りだ。いまの自分を見たら、親父殿と母御殿はなんと云うだろう。
甚右衛門は、たまらなくなって、いつの間にか洋介の身体を掻き抱いていた。死体の冷たさしか知らない甚右衛門に、洋介の幼い身体は暖かだった。
夜毎夜毎に、死体が頭に浮かんでくる。今日殺したやくざ者が、まぶたの裏によみがえる。肉塊が、次第に冷える様が手に取るようにわかる。
甚右衛門は泣けてきた。殺しはいやだ。今まで目も向けなかった思いが、頭の中で錯綜している。
「おとう……」
洋介が不意に目をさました。
「起きたのか……」
甚右衛門は慌てて洋介から体を離した。
身を起し、眠そうに目蓋をこすっている。甚右衛門は、それを横手に見ながら、口許にほのかな笑みをきざんだ。この童が、愛しかった。
俺の子でも、よいか……
そんな風に、思えた。
「殺しはだめだなぁ、おとう」
甚右衛門ははっとなった。
洋介が哀しげに微笑している。まるで大人だった。
甚右衛門は何も云えなくなった。外聞もなく、泣きたくなった。
港から、潮風が宿場町にふきつけてくる。
甚右衛門はそれから二日後に、男の云った町についた。
宿をとり、酒場に行き、五郎兵衛のことを尋ねた。
秋山は名を変えていなかった。が、同名の男やもしれぬ。仁之丞は洋介に会ってから、人を斬ることにためらいを覚える自分を知っている。裏をとり、確実とせねば、とてもいけない。
斬らねばならない。五郎兵衛を斬らねば、二度と人が斬れなくなる……。
「なにを考えているんだ、俺は」
甚右衛門は苦渋に滲む額に手を押し当てた。
殺しのための人斬りではなかったはずだ。仇のための人斬りだった。まして金のためでもない。
甚右衛門は激しく首をふり、ともすれば萎えそうになる己れを叱咤した。
秋山五郎兵衛を、斬らねばならん……
それが、五年のあいだ人を斬りつづけた、人斬り甚右衛門の意地だった。五郎兵衛を殺さねば、甚右衛門として生きた自分の人生が無駄になる。
洋介は寝静まっている。甚右衛門は音も立てずに、床を立つと出ていった。
「おとうっ」
洋介はすぐに甚右衛門のことを追いかけてきた。甚右衛門はぎょっとして振り向いた。
「なぜついてきた?」
甚右衛門のこめかみに癇癖の筋が立ったが、洋介は頓着しない。
「秋山のところに行くのか」
「お前には関係ないっ」
「親父殿のかたきなのか」
甚右衛門は答えない。
「おとうっ」
「おとうではない!」
甚右衛門は怒りに任せてわめいた。云ってから、己れの口にしたことに気がついた。
洋介は涙をこらえ、上にいる甚右衛門を、ぐっと睨んだ。
「……お前にはわからん」
そう云い残すと、甚右衛門は歩きだした。洋介はやはりついてきた。今度は甚右衛門もなにもいわない。
やがて、五郎兵衛の屋敷についた。
「そこで待て」
と甚右衛門はいった。洋介は今にも泣きだしそうな顔で、甚右衛門を見上げている。
甚右衛門は、なにも云わずに、門をくぐり、中に入っていった。
使用人を使って、五郎兵衛を呼びにいかせた。五郎兵衛は、今では裕福な暮らしをしている。博徒だった頃のおもかげは微塵もなかった。屋敷の前庭に設けられた庭園に立つ。無償に腹がたった。
柄に手をかけ、油断なく待つうち、主人の五郎兵衛が出てきた。もえぎ色に染めぬいた着物で恰幅のいい体を包んでいる。腕の立つ剣客との認識の強い甚右衛門は、軽く目を見張った。
五年前の精悍なイメージからはほど遠かった。腹がせりだし、見る影もない。
五郎兵衛を目にした瞬間、甚右衛門の身の内を強烈な殺意がおおった。カッと、熱く、燃えるようなものがある。
甚右衛門の瞳がきらり光った。まるで狼の眼だった。正にその通りだったろう。
肉こそ食らいはしないが、人の魂は確実に食らっている。
「な、何者だっ?」
五郎兵衛は殺気に気づいて、うわずった声をはり上げた。脇差は腰に落としているが、刀は持っていなかった。
「波田仁之丞」
甚右衛門がぼそりとつぶやいた瞬間、五郎兵衛の表情が、横面をはたかれたように変わった。
「沐右衛門の……」
「今は人斬り甚右衛門」
そういって、甚右衛門は肥前忠吉を抜きはなった。目に、もはや迷いはない。
剣尖を跳ね上げると、五郎兵衛は地べたにはいつくばった。
「ゆ、ゆるせっ、許してくれっ」
「立て、それでも侍か!」
吠えると、五郎兵衛は後ろ向きに転げるようにして逃げていった。その後を甚右衛門が追う。
背を土塀に打ち当て、五郎兵衛は全身を瘧のように震わせ、おびえた眼で白く光る刃を見た。
甚右衛門は、かちりと柄を握り締めた。総身から、切るような殺気が吹き上がる。五郎兵衛はぴくりともできなくなった。
甚右衛門は背中にはりつく洋介の影を必死にふりはらった。
この刀を斬り下げさえすれば、五郎兵衛は確実に死ぬ……。
死ねっ
全身の筋肉をはりつめた、その時である。背後から幼子の声がした。
「おとう!」
洋介っ? と甚右衛門は振り向いた。
五郎兵衛が、
「初子!」
と叫んだ。
甚右衛門は愕然と呻いた。洋介と同じぐらいの年ごろのおなごがいる。
「五郎兵衛の、子……」
率然と、悟った。あれから五年だ……子がいてもおかしくないではないか。
甚右衛門は、ぎらりと五郎兵衛を見た。
秋山には家庭があった。妻が居、子が居た。それが剣客としての秋山五郎兵衛をにぶらせた。斬り合う度胸もない男に変えた。
この男ではない、この男ではない。おれが五年探しつづけた男は、この男ではないっ
「うう……っ」甚右衛門はうめいた。「うわあああああ!」
上段の刀が、勢いをつけ跳ねた。叫喚の声に、五郎兵衛は堅く目をとじこんだ。
五郎兵衛の脇を、すさまじい太刀風が行き過ぎる。
肥前忠吉は、背後の土塀を断ち割っただけだった。
「おとうっ」
五郎兵衛の娘が走りより、父親の出張った腹にしがみついた。
その光景を眺めながら、人斬り甚右衛門こと波田仁之丞は、凝然となっていた。博徒だった秋山五郎兵衛はもういない。ここにいるのは、幸せな家庭を築いた一個の人間だった。
なにをしているんだ、おれは……
斬り殺され、死にゆく父の姿を、年端もゆかぬ子供に見せようというのか。
仁之丞は後一歩で、鬼畜に成り下がるところだった。
洋介っ
無性に会いたくなった。
仁之丞は仇を忘れ、往来に出た。辺りを見回すが、洋介の姿はどこにもない。
「洋介!」
大刀を鞘に収めるのも忘れ、仁之丞は狂ったように駆け出した。 わめき、立ちふさがるものは斬り捨てんばかりの勢いの仁之丞に、みな恐れをなして道をゆずった。
人々の好奇の目も、今の仁之丞の、眼中にはない。
「洋介、どこだ!」
白刃を振りかざし、仁之丞はいつか林に立ち入っていた。着物の裾は割れ、結った髷が乱れている。洋介の姿はどこにもない。
仁之丞には予感があった。洋介はこのまま出ては来ぬ。子に親の死を見せようとした、人でなしの俺の前には現われぬ。
「うわあ!!」
叫び、そばの茂みを切り裂いた。深い悲しみと、己れに対する怒りがあった。
仁之丞の頭上で、林立する松が騒然と鳴った。樹上から、洋介の、明るい声が、降ってきた。
── おとう おれはここだ
── 洋介 どこだ
── ここだ
── ここではわからん 姿を見せてくれ
── だめだ もうだめだ
── なぜだ……
── また会おうな、おとう、またな
── 今ではだめか
── 今はだめだ またな
それきり、洋介の声は途絶えた。風が吹き、仁之丞の乱れた髪を揺らしている。
「洋介……」
仁之丞は、茫然と雑林の中に立ち尽くしていた。
秋山五郎兵衛は、その後七十七年の天寿を全うした。子の初子は、その美貌をかわれ、さる高名な武家の家に嫁いでいる。
人斬り甚右衛門のその後は、ようとして知れぬが、波田仁之丞と名乗る男が、洋介という赤子を抱いている姿だけは、見た者がいる。
──おとう、よかったな、おとう
波田仁之丞は、どうやら人になれたようだ。
そう呼ばれたとき、甚右衛門はさぞ戸惑ったにちがいない。
童がいる。奇妙な童だった。年は六つか七つ。いやに大人びた表情をしている。服は粗末で、一見百姓の子のように見える。見たこともない童だった。
甚右衛門は、妙におもった。甚右衛門に子はいない。逢瀬を共にした女はいるが、子ができたという風聞はきかない。だいいち年が大きすぎる。
行き過ぎようとした。
「おとう、まてっ」
童は慌てたようについてきた。甚右衛門は振り向きもしない。前を向き、声だけを発した。
「ついてくるな、俺はお前のおとうなどではない」
「おとうっ」
(まだ呼ぶかっ)
甚右衛門は、多少の苛立ちをこめ振り向いた。童はやわらかげな眉をしかめ、こちらを見上げている。
「おれはお前のおとうではないっ」
甚右衛門はもう一度いった。童は頭のうしろで手を組み、きいた。
「お前、波田仁之丞だろう」
甚右衛門は軽く目をみはった。こんな子供が、なぜ自分を知っているのか、不思議であったのだ。
人斬り甚右衛門──と男は呼ばれている。名の通り、これまで多くの人を斬ってきた。
甚右衛門とは通り名である。五年の間、この名を通してきた。波田仁之丞──これが、男の昔の名だった。
その仁之丞が旅に出たのは、人を探すためである。秋山五郎兵衛という名の男だった。仁之丞と同じく、名を変えているやも知れぬ。凶状持ちの、腐ったゴミのような人間だった。この男を、殺すための旅だった。
波田沐右衛門という男がいた。仁之丞のいた家の主人だった。家僕の仁之丞に親父殿と呼ばせ、剣を習わせてくれた。
天秤があったのだろう。仁之丞は期待に答え、神道無念流の道場で、代稽古までつとめている。沐右衛門は、仁之丞に、波田の姓を名乗らせた。
波田夫婦に子はない。いずれは仁之丞を、養子にするつもりだったのやも知れぬ。
その日は冬も間近の曇り空で、風もふかぬのに、いやに空気が冷たかった。
ひとり所用に出ていた沐右衛門めに、声をかけた者がいる。やくざまがいの、仕様もない男だ。
それが、秋山五郎兵衛だった。
意地の張り合いがたどり着いた、下らない喧嘩だった。あるいは城勤めだった沐右衛門を、疎んだ者の差し金かもしれない。仁之丞は城での沐右衛門を知らぬが、沐右衛門には我人共に認める、義の人の匂いがある。前後も見ずに、直言しかねない。
だが、そんなことは仁之丞にはどうでもよかった。沐右衛門めは胴を断ち割られ、それが元で死んでしまった。
病死、と届け出る手もあったが、場が悪かった。往来である。一件は公儀の知るところとなり、波田家はとり潰しとなった。妻のよねは身の悲運を嘆き、夫の後を追って、身を投げた。
仁之丞の悲しみは、想像もつくまい。この時には、涙も枯れ果てていた。
斬り手の五郎兵衛は死んではいない。奉行所の手を逃れ、そのまま消息を絶っている。
仁之丞は家僕だったが、剣の腕は立った。
五郎兵衛は小野派一刀流の術者である。気性に難があり、師範代にはなれなかったが、腕は仁之丞よりもよほど立つ。が、引くわけにはいかなかった。仁之丞は、恩を返すときがきた。そう信じた。
波田の家僕は、甚右衛門と名をかえた。そのまま身一つで、五郎兵衛の後を追った。
以来、仁之丞は甚右衛門となっている。五年が経、五郎兵衛めはまだ見つからない。
やくざ者の用心棒稼業を続けたこともある。その間、幾人かの人を斬った。数は知れない。
いずれも死んだところで、惜しくない男たちだった。だが、仁之丞は、自分もそんな男たちと同一だということを知っている。死んだところで、たれが泣こう。
「波田の名を知っているなら、人斬り甚右衛門のふたつ名も知っていよう。いねっ」
甚右衛門はくるりと童に背を向けた。
「いなんぞっ。おとう、待てっ」
童はしつこく追ってくる。
甚右衛門の胸中にかっと怒りが沸いたが、いくら人斬り甚右衛門といえど、こんな幼子を斬れるわけがない。疳の虫をどうにか堪え、
「俺はさる男をさがしている。童の足では付いてはこれまい」
ジロリ、睨んだ。
「ゆけるぞ」
童は怒ったように眉の谷間に皺をよせた。甚右衛門はどうでもよくなってきた。
「好きにしろ」
そう、いいのこしたかと思うと、足早に歩いていった。童は憮然とした顔でついてきた。
漂白と殺人の生の中で、波田仁之丞の魂は、次第次第に荒んでいった。人を斬り、仁之丞は己れの魂をも斬っていた。斬人の中に身を置くには、仁之丞はあまりに純粋でありすぎた。
俺はもはや人ではない。人でなしの人が、どうして人の世を渡れよう……
その思いが、強烈に仁之丞の心をとりまいた。今の仁之丞は、五郎兵衛を斬り殺すためだけに生きている。また、それ以外にどんな生きようもなかった。
人の埒外に飛び出してしまった人間が、どんなに努力しようと、二度と人の世には戻れまい……
「おとう、腹が減ったよ、おとう」
童のぐずるような声が、甚右衛門の思念を断ち切らせ、その神経を逆撫でにした。
甚右衛門は歩速もゆるめず、「いい加減にしろ。おれはお前のおとうではない」
低い声で、いまいましげに呻いた。
童は小走りにあとを追いながら、
「おとう、秋山はまだみつからんのかっ」
怒ったようにわめいた。八つ当りだった。
甚右衛門はしずかに告げた。「簡単にはみつからん。もう五年はさがしている」
「見つけてどうするっ」
甚右衛門の足が止まった。「斬り殺す」
童は押し黙った。見上げると、甚右衛門の瞳に、人斬りの持つ、暗い炎が宿っている。
童はそばの石ころを蹴りながら、訊いた。
「秋山はおとうに何した?」
「親父殿を殺した」即座にこたえる甚右衛門に、
「だからおとうも秋山を殺すのか?」
「そうだ」
「親父殿はなんと云うかなぁ」
童が気軽にいった。甚右衛門には、なんとも答えられなかった
品川までついた辺りで、甚右衛門はとうとう音を上げた。この童はどういうわけか、甚右衛門の健脚に苦もなくついてくる。時に、甚右衛門の方が疲れを見せるほどである。不気味だった。
宿に泊めねば外で寝る。飯をやらねばひとりでに食う。
それでもしっかりと後についてくるので、この人斬りの評判は下がる一方だった。傍目には、洋介は甚右衛門の子に見える。仕方なく、同じ部屋に住まわせはじめた。
そうなると、奇態なことに、甚右衛門にとって、この童はさして不快な存在ではなくなっていた。
別になにかをせがむわけでもない。ぐずりもしない夜泣もしない。これだけ手のかからない童も珍しかった。甚右衛門と居れば、それで満足するらしかった。奇妙な奴だ、と思った。そういえば、旅に出てはじめての道連れだった。
その童は洋介という名だった。一ヵ月近く一緒にいるのに、名も知らなかった自分が、甚右衛門はおかしかった。年をきくと、四つと答えた。甚右衛門の予想よりはるか幼い。
昼は彼の後ろを歩き、夜は枕をならべ寝る。たわいもない生活であったが、くだらなくはなかった。
甚右衛門は別段笑いもしないが、もう寂しいとは思わなくなった。洋介と居るとき、甚右衛門は、人斬りの自分を忘れていた。
甚右衛門は、この旅に出てはじめての安らぎをおぼえていた。だから、その町のやくざ者に喧嘩の助っ人を頼まれた時も、はなから断っている。
依頼にきたやくざ者たちは、これをよしとはしなかった。相手側につく、と思ったのである。甚右衛門が一人になるところを見計らって、手下を差し向けてきた。
「何用かね?」
そう問いかけながら、甚右衛門は腰の肥前忠吉をそろり捻った。相手は十人ばかりいるが、こんなものは甚右衛門にとって屁でもない。
場数が違う。人を斬った数が違う。この程度の数に、臆するような人斬りではなかった。
幾人となく人を斬り、手負いを負ったこともある。
二、三人を斬れば、後は逃げるか……
そんなことを思う余裕さえあった。
ちらりと、洋介の顔がうかんだ。めずらしく舌打ちが出た。
知るかっ
奇妙に苛立った。
一同の真中に立つ男が、口を利いた。
「人斬り甚右衛門。お前さぁ、うちの親分を怒らせたね」
甚右衛門はその声でようやく落ち着いた。顔を上げたときには、いつもの人斬りに戻っていた。
「とりたてて、何もしていないつもりだがね」
「そうだろうとも。相手方につかなければ、こちらも何もしないんだ」
「俺はどちらにも手は貸さないよ」
「そうだろうよ。だが、それではうちの親分が安心しないんだな」
男が笑った。自分を斬れば箔がつく、とでも考えているのだろう。
こんな手合いならいつものことだが、今の甚右衛門には癇にさわる相手だった。いつものように心が沈まない。煮えたぎる、怒りがあった。
「これまでだな、甚右衛門」
声と共に、男たちが一斉に斬りかかってきた。甚右衛門は、無言で肥前忠吉を抜き放った。
甚右衛門は、双腕を切り飛ばされ、呻いている男から意外なことをきいた。そばに、三人の男が倒れている。残りは逃げた。
その男は、秋山五郎兵衛を知っていた。甚右衛門は何気なく訊いただけである。だから、この答えに息がつまる思いがした。
秋山は数年前までこの地に住んでいたという。女をつくり、今は港のある宿場町にうつり住んでいる。
男はそれをしゃべったきり、また腕を抱えこみ、呻きはじめた。止血してやろうか、と思ったが、そんなことを考える自分によけい腹が立ち、なにもせずにその場を後にした。
甚右衛門はぐずる洋介をむりやり連れ出し、その日のうちに宿を発った。やくざ者はしつこい。すぐにこの町から離れねばならなかった。
「おとう、おとう、手を放せっ」
無言で歩く甚右衛門に、洋介がたまりかねたようにわめいた。
甚右衛門はその声で、ようやく自分が洋介の手を、きつく握りしめている事に気がついた。
「おとうっ、どうしたっ」
洋介が、甚右衛門から手をもぎ放しながら、怒ったように問いかけてきた。
「なんでもない」
「おとうっ」
「今夜はここで寝るっ」
甚右衛門は河原に降りはじめた。
拾った小枝で焚火をつつきながら、甚右衛門は物思いに耽っていた。
洋介は脇で寝ている。かすかな寝息に耳を澄ませながら、甚右衛門は男の言葉を反芻していた。
秋山五郎兵衛が、この近くにいる。五年さがしたあの男が、この近くに……。
小枝を持つ手に力がこもる。枝は甚右衛門の手の内で、ぱきりと二つに折れ曲がった。
「親父殿……」
涙が出た。洋介の云う通りだ。いまの自分を見たら、親父殿と母御殿はなんと云うだろう。
甚右衛門は、たまらなくなって、いつの間にか洋介の身体を掻き抱いていた。死体の冷たさしか知らない甚右衛門に、洋介の幼い身体は暖かだった。
夜毎夜毎に、死体が頭に浮かんでくる。今日殺したやくざ者が、まぶたの裏によみがえる。肉塊が、次第に冷える様が手に取るようにわかる。
甚右衛門は泣けてきた。殺しはいやだ。今まで目も向けなかった思いが、頭の中で錯綜している。
「おとう……」
洋介が不意に目をさました。
「起きたのか……」
甚右衛門は慌てて洋介から体を離した。
身を起し、眠そうに目蓋をこすっている。甚右衛門は、それを横手に見ながら、口許にほのかな笑みをきざんだ。この童が、愛しかった。
俺の子でも、よいか……
そんな風に、思えた。
「殺しはだめだなぁ、おとう」
甚右衛門ははっとなった。
洋介が哀しげに微笑している。まるで大人だった。
甚右衛門は何も云えなくなった。外聞もなく、泣きたくなった。
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甚右衛門は答えない。
「おとうっ」
「おとうではない!」
甚右衛門は怒りに任せてわめいた。云ってから、己れの口にしたことに気がついた。
洋介は涙をこらえ、上にいる甚右衛門を、ぐっと睨んだ。
「……お前にはわからん」
そう云い残すと、甚右衛門は歩きだした。洋介はやはりついてきた。今度は甚右衛門もなにもいわない。
やがて、五郎兵衛の屋敷についた。
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五郎兵衛は殺気に気づいて、うわずった声をはり上げた。脇差は腰に落としているが、刀は持っていなかった。
「波田仁之丞」
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「沐右衛門の……」
「今は人斬り甚右衛門」
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剣尖を跳ね上げると、五郎兵衛は地べたにはいつくばった。
「ゆ、ゆるせっ、許してくれっ」
「立て、それでも侍か!」
吠えると、五郎兵衛は後ろ向きに転げるようにして逃げていった。その後を甚右衛門が追う。
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甚右衛門は、かちりと柄を握り締めた。総身から、切るような殺気が吹き上がる。五郎兵衛はぴくりともできなくなった。
甚右衛門は背中にはりつく洋介の影を必死にふりはらった。
この刀を斬り下げさえすれば、五郎兵衛は確実に死ぬ……。
死ねっ
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「おとう!」
洋介っ? と甚右衛門は振り向いた。
五郎兵衛が、
「初子!」
と叫んだ。
甚右衛門は愕然と呻いた。洋介と同じぐらいの年ごろのおなごがいる。
「五郎兵衛の、子……」
率然と、悟った。あれから五年だ……子がいてもおかしくないではないか。
甚右衛門は、ぎらりと五郎兵衛を見た。
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この男ではない、この男ではない。おれが五年探しつづけた男は、この男ではないっ
「うう……っ」甚右衛門はうめいた。「うわあああああ!」
上段の刀が、勢いをつけ跳ねた。叫喚の声に、五郎兵衛は堅く目をとじこんだ。
五郎兵衛の脇を、すさまじい太刀風が行き過ぎる。
肥前忠吉は、背後の土塀を断ち割っただけだった。
「おとうっ」
五郎兵衛の娘が走りより、父親の出張った腹にしがみついた。
その光景を眺めながら、人斬り甚右衛門こと波田仁之丞は、凝然となっていた。博徒だった秋山五郎兵衛はもういない。ここにいるのは、幸せな家庭を築いた一個の人間だった。
なにをしているんだ、おれは……
斬り殺され、死にゆく父の姿を、年端もゆかぬ子供に見せようというのか。
仁之丞は後一歩で、鬼畜に成り下がるところだった。
洋介っ
無性に会いたくなった。
仁之丞は仇を忘れ、往来に出た。辺りを見回すが、洋介の姿はどこにもない。
「洋介!」
大刀を鞘に収めるのも忘れ、仁之丞は狂ったように駆け出した。 わめき、立ちふさがるものは斬り捨てんばかりの勢いの仁之丞に、みな恐れをなして道をゆずった。
人々の好奇の目も、今の仁之丞の、眼中にはない。
「洋介、どこだ!」
白刃を振りかざし、仁之丞はいつか林に立ち入っていた。着物の裾は割れ、結った髷が乱れている。洋介の姿はどこにもない。
仁之丞には予感があった。洋介はこのまま出ては来ぬ。子に親の死を見せようとした、人でなしの俺の前には現われぬ。
「うわあ!!」
叫び、そばの茂みを切り裂いた。深い悲しみと、己れに対する怒りがあった。
仁之丞の頭上で、林立する松が騒然と鳴った。樹上から、洋介の、明るい声が、降ってきた。
── おとう おれはここだ
── 洋介 どこだ
── ここだ
── ここではわからん 姿を見せてくれ
── だめだ もうだめだ
── なぜだ……
── また会おうな、おとう、またな
── 今ではだめか
── 今はだめだ またな
それきり、洋介の声は途絶えた。風が吹き、仁之丞の乱れた髪を揺らしている。
「洋介……」
仁之丞は、茫然と雑林の中に立ち尽くしていた。
秋山五郎兵衛は、その後七十七年の天寿を全うした。子の初子は、その美貌をかわれ、さる高名な武家の家に嫁いでいる。
人斬り甚右衛門のその後は、ようとして知れぬが、波田仁之丞と名乗る男が、洋介という赤子を抱いている姿だけは、見た者がいる。
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