【完】死にたがりの少年は、拾われて初めて愛される幸せを知る。

唯月漣

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第一章 常春と真冬編

2)捨てる神、拾う神。

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 男に渡された丼には、こんもりとツヤツヤの白米が盛られていた。その上にはチャーシューの切れ端、味付け卵やネギ、メンマなんかが豪快に乗せられている。
 昨日バイトの前にカップ麺を食べたっきりだった俺は、ありがたくその食事にありついた。


「賄い飯で悪いなー。お前細っこいから心配してたけど、いい食べっぷりじゃねーか」


 男は俺が食事をするさまを眺めながら、嬉しそうにそう言った。

 空っぽの胃袋にチャーシューと米の組み合わせはたまらないほど美味しくて、俺は何度もそれを箸ですくい上げ、口いっぱいに頬張った。

 しっとりと煮込まれたチャーシューは切れ端でも箸で簡単に切れるほど柔らかく、ほんのり効いた生姜と香ばしい醤油の香りが米と絶妙に合っていて、とても美味しかった。


「なあアンタ、名前くらいは聞いてもいいか?」
「……まふゆ。季節の真冬と同じ字で、真冬」


 俺は名前だけを名乗って、空になった丼を盆に置く。続いて味噌汁を一口すすると、それはほんのり温かくて、口腔から鼻腔へだしの香りが優しく抜け、じんわりと胃に染み渡った。


「あ……おいし……」
「お、そうか? 俺は大谷常春おおやつねはる。下の店舗で、ラーメン屋をやってる」
 

 そう言って常春はニッと再び白い歯を見せながら笑うと、傍らにあった腰エプロンを掲げるように俺に見せた。

「じゃんっ『ラーメンはる』! 名物はチャーシューメン。今日は定休日だから窯の火ぃ落としちまってるんだが、今度は店が開いてる時間に食いに来いよ。うちのラーメンはうまいぞー?」


 味噌汁をただ一言褒めただけなのに、常春はとても嬉しそうにそう言った。


「あー……うん」


 社交辞令でそう答えると、俺は空になった味噌汁椀を盆の上に置く。 


「ごちそうさま。それと、看板倒して悪かったな。助けてくれて、ありがと」
「おう。その怪我、ちゃんと病院いけよ? んでよかったらまた、その食いっぷりを見せに来いよ」
「ん……」


 常春はそう言いながら空いた食器を片付ける。俺は立ち上がってもそもそと服の皺や寝癖を手で軽く直し、食器を持って部屋を出た常春に続いて階下へと降りた。

 一階は店舗になっているらしく、カウンターが数席とボックス席が四つ、鉛色に鈍く光る業務用のカウンターキッチンがある。

 年季の入った店内は、客がいないためガランとしていた。ラーメン屋特有の少しだけ油でベタつく壁には、数種類ほどの手書きのメニューが規則正しく並んで貼られている。

 メニューの並びにはラーメンだけではなく、炒飯セットや餃子等もあった。

 いわゆる"昔ながらの街の中華屋さん"といったところなのだろう。

 キッチンには、子供が肩まで浸かれるような大きな寸胴に、白く濁ったスープが弱火でコトコトと煮込まれており、ゆらゆらと淡い湯気を出していた。

 店内を見回していると、壁の時計が昼の一時を指していた。俺は夕方からバイトがあることを思い出し、慌てて店の出入り口である引き戸に向かう。


「じゃあ俺、これからバイトあるから帰るよ。迷惑かけて悪かったな」
「おう。またな」


 ヒラヒラと手を振って見送る常春を背に、俺は駅の方向へと向かうのだった。





◇◆◇◆◇◆





 ……カチャカチャ、カチャン。


 鍵の開く聞き慣れた金属音とともに、古びた玄関のドアが錆だらけの蝶番をきしませて開く。

 今も母親が住むこの古い木造アパートは、全く日が差さない陰気な場所に建っていた。

 以前は多少日が差す時間帯もあったのだが、数年前に目の前に高層マンションが建った。その際に、アパート全体がその影に飲み込まれてしまったのである。

 用事を済ませるためだけに稀に帰るこの家の玄関に、母親の靴が無いことを真っ先に確認する癖がついたのは、いつからだっただろうか。

 本当なら極力帰りたくない、母親の住むこの部屋。

 しかし、体がこんな事になってしまっていては、しばらくは男を捕まえることもできない。
 夜はネカフェに泊まるにしても、俺には仕事に出る前にシャワーを浴び、やらなければならないことがあったのだ。

 俺は陰鬱な気持ちのまま中に入って、鍵とチェーンを閉める。

 バスルームに直行して服を脱ぎ捨て、すぐに体にシャワーをあてながら、あのクソハズレ男によって中に出されたモノを指で掻き出す。

 男の汚物を掻き出すために指を秘孔の中に挿しいれる度、激痛が走って傷口がビリビリと痛む。俺は小さく呻くような悲鳴を上げた。

 それでも中を洗わずには居られなくて、それが綺麗になる頃には、俺の両足を伝い流れる湯はすっかり赤く染まってしまっていた。


 すっかり裂けてしまった傷口に軟膏を塗って着替える。玄関を出てドアに鍵をかけた俺がアパートを後にしようとした、その時だった。


 カツン、カツン、カツン。


 アパートの二階へ続く安っぽい錆びた金属製の階段を登る、聞き慣れた足音。
 俺の背筋が、途端に凍る。


 細いヒールが、金属製の階段を一定のリズムで打つ。

 漂うのは、香水と煙草の入り混じった甘く熟れた匂い。

 母親がいつも鍵につけている、キーホルダーの鈴の音。


 早く、早く、立ち去さらなきゃ……。

 そう思っているのに、俺の体はまるで動かない。
 
 足元の重力が数十倍になってしまったかのように両足が重たくて、靴底はドアの前に縫い付けられたまま、ひたすら硬直している。
 体が硬直しているのとは裏腹に、心臓は痛いほど脈打っていた。

 その女は俺に気付くなり、不愉快そうに顔を歪めた。


「あら。やっと出ていったと思ってたのに、なんでまた"アタシの家"に居るのぉ?」
「く……。き、着替えを、取りに……きた、だけ……」


 震える唇と喉に張り付く舌で、なんとかそれだけを答えると、俺は重力と痛みに軋む身体に鞭打つように繁華街の方へ走った。


 走って、走って、走って。

 暗くて、怖くて、辛くて。
 

 呼吸困難で死んでしまうんじゃないかという位走って、気づいたら俺はバイト先のバーの前にいた。
 勢いよくドアを開けると、ドアベルの音に反応して見慣れた人物が振り返った。


「真冬ー? 今日、早番だったよね。遅刻だよ?」


 マイペースな口調でそう話しかけてきたのは、バーのバイトの先輩である雪平ゆきひらだ。

 雪平は黒い細身のバーテン服に身を包み、艷やかな長い黒髪を斜め下で弛くひと括りにしている。

 綺麗な二重の目を縁取る長い睫毛。雪のように白い肌に、きれいに通った鼻筋。華奢な体に、スラリとした手足。
 かっこいいと言うより雪平は美人で、中性的な容姿だ。

 物腰柔らかな態度で真冬を諌める雪平は、こう見えて面倒見がよく、俺を単なるバイトの後輩としてだけてはなく、時には弟のように可愛がってくれていた。


「あ、ああ……ちょっと色々あって……」
「顔色悪いよ? というか、その顔の傷、どうしたの? ……とりあえず、仕込みはやっといたから、店長が来る前に着替えちゃいなよ」


 雪平はそう言って、俺の頭をポンポンと軽く撫でてくれる。
 俺は雪平に礼を言ってスタッフの控室に入ると、その場に蹲った。
 心臓がバクバクと早鐘をうち、限界まで息が切れた体からは、へなへなと力が抜ける。

 俺はそのまま、しばらく動くことができなかった。
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