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指切り

5.

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 するとセンセーは「うん、幸せだったなぁ……」と回顧するように目を細めた。

「それにね、昔、恩師が言っていたんですよ。
 男の矜持を大事にしろってね。
 一人の可愛い女の子を助けられたんだ。
 胸を張って、この世とおさらばできますよ」
「ふ、なんだそれ」

 いきなり変な話をされて、思わず笑みが漏れる。
 するとセンセーは「やっと笑いましたね」と、安心した顔をした。
 その瞬間、センセーの体が淡く光ったかと思うと、大樹から離れて宙に浮く。

 久しぶりに見る、幽霊のセンセーの姿だった。

「センセー!」

 その時、私は見てしまう。
 センセーの足が、消えて行っているのを――

「なあ、おい……センセー!」

 ずっと見ていると、つま先からだんだんと消えていっている。
 間違いない。

 センセーは、もう、いなくなるんだ――

「縁センセー!!」

 ここにいて。
 行かないで。
 私の傍を離れないで――

 そう言いたい。
 叫びたい。
 思いの丈を、全てぶつけてしまいたい。

 だけど……センセーはもう私を甘やかしてくれないんだろう。
 だってセンセーは、私の嫌いな「大人」だから。

 大人はいつだって、自分の思う通りにする。
 だからセンセーも、自分の意志のまま、このまま消えていくんだ。

「センセー……っ」

 堪え切れない涙が、私の頬を伝う。
 センセーは浮いてしまって、もう私に触ることは敵わなかった。

 だけど、まだ話しをする事は出来るようで――泣く私をあやすように話してくれた。

 それはセンセーの、最後の言葉。

「私の名前は末広。そして名前は”縁”ときた。
 これは、私とあなたの縁が末永く、ずっと広がっていくということだと、そう思いませんか?

 また、必ず会える。
 どこかで、必ず。

 その時にまた”センセー”と呼んでくれたら、私はそれだけで満足ですから」
「うん、うん……っ」

「ありがとう、鶫下さん。
 今度どんな形で出会ったとしても、また私はあなたを守り通しますよ。覚悟していてくださいね」
「覚悟って……馬鹿だなぁっ」

 ぶわッと、とめどない涙が更に溢れる。
 だけど、涙で前が見えなくなるのは嫌で、センセーが見えなくなるのが嫌で、
 私はずっと、手で涙をよけていた。

 すると――

「鶫下さん、手を」
「手?」

「上にむかって、私に……そう、伸ばしてください」
「こ、こう?」

 思い切り、背伸びして、めいっぱい上にのばす。
 すると、縁センセーの小指が、私の小指をからめとった。
 その指の温度は冷たくて……幽霊になったセンセーの温度だった。

「久しぶりに……冷たい」
「はは、そうですね。
 だけど、幽霊の私でもあなたに触ることが出来て良かった――

 ねえ、鶫下さん。
 指切りしませんか?」

「指切り……?」
「必ず再会するという、約束の指切りです」

「うん、する……指切りする!」
「はい」

 精一杯にのばした私の小指。
 その小指は、センセーと繋がっている。
 センセーに触れる、最後の時。

「センセー、ありがとう。
 本当に、本当に……っ」
「はい」

「あと……」

 もう言ってもいいよな?
 ずっとずっと、「ありがとう」って言葉と同じくらい言いたかったんだ。

「縁センセー、ごめん……。
 私いつもバカだったよな、ごめんな……っ!」
「鶫下さん……」

「あの日、崖の下にもしかしたら大樹がいるかもって思ったら、私、無我夢中で……っ」

 するとセンセーは私の話を遮るように、私の小指を握る力を、キュッと強くした。
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