辺境伯に嫁いだので、可愛い義息子と楽しい辺境生活を送ります ~ついでに傷心辺境伯とのぐずぐずの恋物語を添えて~

空野 碧舟

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辺境伯領へ

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 王都から辺境伯領までは馬車で20日を要した。10日目からは右手に壮大な山々が連なる代わり映えがしない景色だったが、ずっとオルクス子爵家の別邸に引きこもっていたエメリーンにとっては、何もかもが初めて見る世界だった。

 だがエメリーンは、山の斜面を覆う緑の木々を美しいと思いながらも、獣や魔物などが出るのではと思うと、のんびりした気分だけではいられなかった。虫や魚だけではなく、鳥や獣や魔物の本を見ていれば違ったのかもしれないが、好奇心よりも恐怖の方が勝り、結局エメリーンはあまり馬車から出ずに過ごすことが多かった。
 
 食事は乾いたパンや干し肉が主で、たまに途中で採れた山の恵みや魚などが出たときは嬉しかった。そんな食事にも全く文句を言わないエメリーンの代わりに、マーサが「これは兵糧食と同じなんですよ」とぼやいていた。
 
 大自然の中でのトイレはさすがに辛かったが、本の中でしか見たことがなかった虫を見ることができた瞬間でもあったので、感動して思わずその場で声を上げてしまいそうになったのは、エメリーンだけの秘密である。
 
 川の近くを通った数日を除いては、身体を拭き清めることすらできないというのも、エメリーンにとっては大変なことであったが、馬車の中にいるエメリーンは、御者や兵士に比べれば楽をしているという自覚があったので、そんな不満を口に出すことはしなかった。

 辺境伯夫人であるエメリーンとその侍女マーサ、馬車の御者と兵士という四人だけの寂しい旅路は、幸いにも魔物や盗賊などに遭遇することなく、食糧となるうさぎやネズミのような小型の獣が出てきただけで無事に終わりを迎えた。

「「お帰りなさいませ、奥様」」

 先触れがあったのか、辺境伯邸に到着して馬車を降りたエメリーンは、出迎えがあったことに驚いた。出迎えとは言っても、執事長と侍女頭の二人だけのひっそりとしたものだったが、しばらく御者と兵士とマーサの三人の顔しか見ていなかった旅が、本当に終わったのだとエメリーンはホッとした。


 山は変わらず、辺境伯邸を正面として右手にそびえ立っており、王都よりは辺境伯領の方が標高が高いのか、少し気温が低いようだ。

「まあ……」

 エメリーンが来た道を振り返ると、目視出来るギリギリくらいの位置に大きな鉄門があり、その両側に衛兵が立っている。門から屋敷までは広大な庭園が広がっており、手入れの行き届いた木々や艶やかな花々の美しさに目を奪われた。噴水の大きさも驚きだが、随所に配置されている彫像の造形の美しさも気になる。エメリーンは、今度じっくり時間を掛けて見て回ろうと決意した。

「奥様?」

 マーサに呼ばれて振り返り、エメリーンは一旦見ないふりをしていた屋敷を目の当たりにした。

 石造りで堅牢なその建物が、辺境伯邸で間違いないだろう。高い塔がいくつもそびえ立つその様は、威圧感を感じるほどだが、いつ魔物が現れてもおかしくない辺境伯領なのだから、このくらいいかつい屋敷が必要なのだろうとエメリーンは理解した。

 屋敷内へ足を踏み入れると、想像以上に広大なホールが広がっており、エメリーンの足が止まった。あまり上を見上げるのはどうかとも思ったが、高い天井から吊り下がった大きく華麗なシャンデリアや、壁にずらりと並ぶ歴代の辺境伯のものと思われる肖像画の迫力に圧倒されてしまったのだ。

 だからと言って下を見ても、大理石の床を覆う華やかな絨毯が目に入るだけだ。深い赤と金を基調とした色合いで、中央には家紋が描かれ、その周りには複雑な植物のモチーフが織り込まれている。すでに踏んでしまっているが、その厚みと柔らかな感触はエメリーンが知らないものだ。

 ホールの奥に大階段があり、その先に多くの部屋が続いているようだが、エメリーンは絨毯を踏みながら一歩先に進むのに気合いを要した。

 ――へ、辺境伯夫人なんて、本当に私に務まるのかしら。

 屋敷に到着してようやく、本当にようやくだが、エメリーンは改めてそのことに思い至った。結婚初夜も辺境伯と共に過ごすことなく、一人で――正確には四人でだが、辺境伯領へ向かうことになったエメリーンは、自身が辺境伯夫人となったと自覚するタイミングがなかったのだ。

 ――辺境伯領の領主邸が、こんなに立派だなんて……。

 王都のダイナリア辺境伯邸もオルクス子爵邸とは比べ物にならないほど壮麗なものだったが、領地の屋敷はまるっきり規模が違う。隣国に対しての牽制でもあるのだろうが、屋敷ではなくお城だと言ってしまったほうがしっくりくる壮観さだ。
 
 エメリーンは自身がこの屋敷に住まう辺境伯夫人である、ということの釣り合わなさに眩暈めまいがするような気分になった。内心くらくらしながら案内されて自室に着いたエメリーンは、部屋に一歩入ったところでまた立ち止まった。

 ――はあああ、なんて素敵……。

 部屋の窓からは、美しいレースのカーテン越しに緑溢れる庭園が見えている。位置的には中庭だろうが、少し遠くに池もあるのが見えるし、こちらの庭も広そうだ。部屋の中心には天蓋付きのベッドが鎮座している。薄いピンク色をしたシルクのカーテンが四方を覆っていることを、エメリーンは落ち着きそうという理由で喜んだ。

 部屋の一角に設けられた書斎を見て、エメリーンはそちらへ歩み寄った。精巧に作られた書斎机の上には、インク壺と羽ペンが置かれているが、本棚はまだ空っぽだ。

 壁に掛けられた精緻せいちなタペストリーには、玄関ホールで見た絨毯の模様と似た植物が描かれている。自室の床にもふかふかの絨毯が敷かれているが、こちらにはクリーム色に淡い緑や赤で繊細な花模様が入っている。

 全体的に柔らかなパステルカラーで整えられた部屋は、エメリーンを温かく迎えてくれている人が、少なくともゼロではないのだと教えてくれた。

「奥様、侍女頭より、挨拶は明日改めて行うので、本日はゆっくりお休みいただくようにとのことです。お疲れだと思いますので、お風呂の後、お食事もお部屋にご用意いたしますね」

「ありがとう、マーサ。あなたも疲れているでしょうに」

 「大丈夫ですよ、今夜はゆっくりさせていただきますから」と笑ってくれるマーサに、エメリーンはホッとする。いきなり別の侍女たちにお風呂の世話などされたら、エメリーンはとても落ち着けないだろう。特に自身の汚れを自覚している今は、絶対に無理だとエメリーンは思う。

 20日の旅の間、最初は無口だと思っていたマーサと、エメリーンはそれなりに話をしたが、マーサはエメリーンに一瞬たりとも嫌な顔を見せなかった。人と関わることが本当に面倒なことだと思ってしまっているエメリーンにとって、それは本当にありがたいことで、二人きりの馬車の中でもエメリーンに嫌味を言わなかったマーサのことを、エメリーンはエメリーン史上最高に信用している。

 その日、エメリーンはいつ寝たのか分からないくらいあっという間に夢の中だった。
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