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アリサと3種類目
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オルクス領の貧民街生まれのアリサは、実の父親の顔を見たことがなかった。そして母親はつい先日、産後の肥立ちが悪くて死んでしまった。アリサは母親の最期に立ち会えなかったのだが、6歳のアリサとまだ乳児でしかない弟のレイとを遺して逝った母親は、とても無念だったに違いない。
アリサの義父でレイの実父だった男は、母親の喪失に耐えられなかったのか、気が付いたときにはアリサとレイの前から姿を消していた。だがアリサは元よりその男のことをあてになどしていなかった。もともと家にお金を入れたことのない男だ。家族の日々の生計を立てていたのは、6歳のアリサだった。
「まっててね、今、ヤギのミルクを手に入れてくるから」
あまり泣き声を上げない弟のレイが、決して良い健康状態でないことは明らかだ。レイの頭をそっと撫でて声を掛けながら、アリサは内心では焦っていた。それも当然のことで、わずか6歳の少女に赤子の世話などできるはずがない。
――とにかく、ヤギのミルクをあげないと。
ヤギのミルクは母親の生前にも、何度か手に入れていた。街はずれに牧場が2つあって、そこで買えるのだ。お金さえあれば手に入らないものではないが、レイには新鮮なミルクがずっと必要だ。
――がんばらないと。
そのアリサの焦りは、今までにはない失態を招くことになった。
栄養不足から平均的な6歳よりも小柄なアリサは、幸いなことに俊敏さと器用さを持ち合わせていた。アリサが町の通りや市場などを歩き回り、財布や店頭の野菜をこっそり手に入れては家に持ち帰るのが、ここ1年のアリサの家族の唯一の収入源だった。アリサのそのワザはとても巧みで、また用心深いその性格から、一度も捕まったことも気付かれたことすらなかった。
その日、市場でアリサが目を付けたその男は、そこまで立派な服を着ているわけではなかったが、その佇まいから金持ちのお忍びであることがアリサには一目で分かった。周囲に護衛がいる様子はなく、男はずいぶんリラックスしているように見えた。
アリサはいつものように静かに男に近づき、いつものように自然な動きで男の財布を手に入れた。だが何事もなかったかのように家に帰って、ホッとしながら財布を開いたとき、ありえないことが起こったのだ。
「なるほど。必要なのは、この子のミルク代かな」
「ひっ!?」
アリサの家は、まごうことなき『あばらや』で、開けるときにギイーッとなかなかの音がする。それをこの男はどうやって音もなく入ってきて、そしてアリサの背後、レイの目の前に立っているのか。アリサは混乱したが、すぐに我に返った。
「レイにちかよらないで!!」
男がその気になれば、レイを踏んで殺すことすら容易だと分かる。それはレイだけではなく、アリサだってそうだろう。だがアリサは必死の形相で、男とレイの前に立ちはだかった。
「おやおや、勇敢だね。ところで、ここには君とその子だけかい?」
冷静な声でアリサにそう聞く男は、興味深そうに何もない小さな家の中を見回している。
「これ、かえすから、かえって!!」
先ほど盗んだ財布を男に差し出して、アリサはそう叫んだ。
母親は別だが、その他の大人には2種類いる。レイの父親のような、薬にも毒にもならない空気みたいな大人と、アリサの敵だ。目の前の男は、空気ではない。だからきっと敵なのだろうとアリサは思った。
「かえって、ってば!!」
睨んでも帰ろうとしない男に苛立って、アリサはついにその男の足を押して追い出そうとするが、男はますます面白そうな顔でアリサを見下ろしている。その身体は、アリサの力ではピクリとも動かない。
「ふええええ」
「あっ!」
泣き出したレイの声に、アリサは自分も泣きたいような気持ちになった。財布を返したアリサには、ヤギのミルクを買うお金がない。またお金を盗みに行かないといけないのに、目の前の男が邪魔をする。
「はやくっ! かえれっ! どっかいけ! ばかっ!」
アリサの罵倒を受けて、男は目を丸くし、それから声を上げて笑った。
「わかった、わかったよ。今日は帰る。それじゃあ、これを君にあげるよ」
じゃらっと音がする袋を渡されて、アリサはその音で袋の中に何が入っているかが分かった。
――これ、お金?
「な、なんで?」
「君が返してくれた財布の方には、金貨しか入っていないからね。それだと使いづらいと思って。こっちは銅貨ばかりだから、たぶん怪しまれずに済むだろう」
アリサが聞きたかったのは、なぜそんなものをくれるのかということだったが、男はアリサには理解できないことを答えた。
「よくわからない」
「いいよ。とにかくミルクを買いに行くところに心当たりがあるなら、早く行ったほうがいい」
「でも」とアリサがためらった様子を見せると、男が微笑んで頷いた。
「心配しなくても、私も君と一緒に家を出よう。それならいいだろう?」
確かにアリサは、レイと男を残して家を出るのは嫌だった。だが、もしかしたら男がここにいてくれたほうが良いのではないかと、そんなことをふと思って、アリサは男を見上げた。
「……うん」
迷いながらもそう答えたアリサは、下唇をきゅっと噛んだ。やはり、そう簡単に大人を信用することはできない。
「レイ、レイ、もうすこし、まっててね」
泣いているレイを、あまり動かさないようにぎゅっと抱きしめると、そのあたたかさから離れるのが嫌になる。だがこのままでは何もできないから仕方がない。アリサはレイから離れ、袋の中から必要な分だけお金を出して握りしめた。
「はやくでて」
握りしめたお金が、アリサの手の中で、だんだんあたたかくなるのが分かる。それが目の前の知らない大人からもらったお金なのだと思うと、アリサは混乱しそうになった。
――おかねを、もらった。
アリサは今までそんなことをする大人に会ったことがない。この男は、アリサが出会った3種類目の大人だ。だがもしかしたら2種類目の大人――敵、かもしれないのだとアリサはチラチラと男の背中を見つめている。
「じゃあ、元気でいるんだよ」
アリサの警戒心などまったく意に介さない様子でそれだけ言い置いて、男はあっさりと去って行った。アリサは男にお礼も伝えないままだった。
――へんなの。やっぱり3種類目だ。
3種類目はへんな大人で、アリサには理解できないことを言い、理解できないことをした。
アリサの義父でレイの実父だった男は、母親の喪失に耐えられなかったのか、気が付いたときにはアリサとレイの前から姿を消していた。だがアリサは元よりその男のことをあてになどしていなかった。もともと家にお金を入れたことのない男だ。家族の日々の生計を立てていたのは、6歳のアリサだった。
「まっててね、今、ヤギのミルクを手に入れてくるから」
あまり泣き声を上げない弟のレイが、決して良い健康状態でないことは明らかだ。レイの頭をそっと撫でて声を掛けながら、アリサは内心では焦っていた。それも当然のことで、わずか6歳の少女に赤子の世話などできるはずがない。
――とにかく、ヤギのミルクをあげないと。
ヤギのミルクは母親の生前にも、何度か手に入れていた。街はずれに牧場が2つあって、そこで買えるのだ。お金さえあれば手に入らないものではないが、レイには新鮮なミルクがずっと必要だ。
――がんばらないと。
そのアリサの焦りは、今までにはない失態を招くことになった。
栄養不足から平均的な6歳よりも小柄なアリサは、幸いなことに俊敏さと器用さを持ち合わせていた。アリサが町の通りや市場などを歩き回り、財布や店頭の野菜をこっそり手に入れては家に持ち帰るのが、ここ1年のアリサの家族の唯一の収入源だった。アリサのそのワザはとても巧みで、また用心深いその性格から、一度も捕まったことも気付かれたことすらなかった。
その日、市場でアリサが目を付けたその男は、そこまで立派な服を着ているわけではなかったが、その佇まいから金持ちのお忍びであることがアリサには一目で分かった。周囲に護衛がいる様子はなく、男はずいぶんリラックスしているように見えた。
アリサはいつものように静かに男に近づき、いつものように自然な動きで男の財布を手に入れた。だが何事もなかったかのように家に帰って、ホッとしながら財布を開いたとき、ありえないことが起こったのだ。
「なるほど。必要なのは、この子のミルク代かな」
「ひっ!?」
アリサの家は、まごうことなき『あばらや』で、開けるときにギイーッとなかなかの音がする。それをこの男はどうやって音もなく入ってきて、そしてアリサの背後、レイの目の前に立っているのか。アリサは混乱したが、すぐに我に返った。
「レイにちかよらないで!!」
男がその気になれば、レイを踏んで殺すことすら容易だと分かる。それはレイだけではなく、アリサだってそうだろう。だがアリサは必死の形相で、男とレイの前に立ちはだかった。
「おやおや、勇敢だね。ところで、ここには君とその子だけかい?」
冷静な声でアリサにそう聞く男は、興味深そうに何もない小さな家の中を見回している。
「これ、かえすから、かえって!!」
先ほど盗んだ財布を男に差し出して、アリサはそう叫んだ。
母親は別だが、その他の大人には2種類いる。レイの父親のような、薬にも毒にもならない空気みたいな大人と、アリサの敵だ。目の前の男は、空気ではない。だからきっと敵なのだろうとアリサは思った。
「かえって、ってば!!」
睨んでも帰ろうとしない男に苛立って、アリサはついにその男の足を押して追い出そうとするが、男はますます面白そうな顔でアリサを見下ろしている。その身体は、アリサの力ではピクリとも動かない。
「ふええええ」
「あっ!」
泣き出したレイの声に、アリサは自分も泣きたいような気持ちになった。財布を返したアリサには、ヤギのミルクを買うお金がない。またお金を盗みに行かないといけないのに、目の前の男が邪魔をする。
「はやくっ! かえれっ! どっかいけ! ばかっ!」
アリサの罵倒を受けて、男は目を丸くし、それから声を上げて笑った。
「わかった、わかったよ。今日は帰る。それじゃあ、これを君にあげるよ」
じゃらっと音がする袋を渡されて、アリサはその音で袋の中に何が入っているかが分かった。
――これ、お金?
「な、なんで?」
「君が返してくれた財布の方には、金貨しか入っていないからね。それだと使いづらいと思って。こっちは銅貨ばかりだから、たぶん怪しまれずに済むだろう」
アリサが聞きたかったのは、なぜそんなものをくれるのかということだったが、男はアリサには理解できないことを答えた。
「よくわからない」
「いいよ。とにかくミルクを買いに行くところに心当たりがあるなら、早く行ったほうがいい」
「でも」とアリサがためらった様子を見せると、男が微笑んで頷いた。
「心配しなくても、私も君と一緒に家を出よう。それならいいだろう?」
確かにアリサは、レイと男を残して家を出るのは嫌だった。だが、もしかしたら男がここにいてくれたほうが良いのではないかと、そんなことをふと思って、アリサは男を見上げた。
「……うん」
迷いながらもそう答えたアリサは、下唇をきゅっと噛んだ。やはり、そう簡単に大人を信用することはできない。
「レイ、レイ、もうすこし、まっててね」
泣いているレイを、あまり動かさないようにぎゅっと抱きしめると、そのあたたかさから離れるのが嫌になる。だがこのままでは何もできないから仕方がない。アリサはレイから離れ、袋の中から必要な分だけお金を出して握りしめた。
「はやくでて」
握りしめたお金が、アリサの手の中で、だんだんあたたかくなるのが分かる。それが目の前の知らない大人からもらったお金なのだと思うと、アリサは混乱しそうになった。
――おかねを、もらった。
アリサは今までそんなことをする大人に会ったことがない。この男は、アリサが出会った3種類目の大人だ。だがもしかしたら2種類目の大人――敵、かもしれないのだとアリサはチラチラと男の背中を見つめている。
「じゃあ、元気でいるんだよ」
アリサの警戒心などまったく意に介さない様子でそれだけ言い置いて、男はあっさりと去って行った。アリサは男にお礼も伝えないままだった。
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