27 / 68
幸せな凪ちゃん
しおりを挟む
「先生はお元気ですか?」
小首を傾げた女のお腹は、一目でそれと分かるほどに膨れていた。優しい表情をした女に、ナギはとっさに笑顔を向けていた。あの男が得意な、何の警戒心も抱かせない笑顔だ。
あの男の家を訪ねようとしたところ、玄関から出てきた女を目撃して、ついつい公園までついてきてしまった。これではまるでストーカーのようだと思いながらも、気が付いたときにはナギは女に声を掛けてしまっていた。
「あの、主人を知っているんですか?」
「はい。あ、その子。女の子ですよね?」
「え、ええ」
女の子を宿すと、女性は優しい顔になると聞いたことがあった。女の表情からナギは当てずっぽうでそう言っただけなのだが、ナギの直感は当たったようだ。
女はあの男が子供のことを話すほど親しい知り合いだと思ったのか、安心したように微笑みを返してきた。かつてのナギのように、人を疑うということを知らない女だ。
女に罪はない。もちろんお腹の子供にもだ。それが分かっていてなお、ナギは胸の中で渦巻くどす黒い憎しみを、どうしても抑えることが出来なかった。男が今もナギに見せ続けている地獄は、あまりにも深い。
「……先生にお伝えください。その子が凪ちゃんみたいに幸せになれるように、ずっと見守ってあげてくださいねって」
もしかしたら自分は詐欺師になれるかもしれないと思ったほど、ナギはうまく笑えた。返ってきたふわりとした優しげな笑顔に、女がもう一段ナギに気を許したのが伝わってくる。
「え? 凪ちゃん?」
「はい。幸せな凪ちゃん。そう伝えてもらえたら分かりますから」
「え? ええ、幸せな凪ちゃんね? うふふ、分かったわ」
「……元気な赤ちゃんを産んでくださいね」
「ええ、ありがとう」
最後の言葉は、ある意味ナギの本心だった。だが女が応えてくれた微笑みの美しさに比べれば、ナギの心は決して綺麗とは言えない。
笑顔で手を振りながら女と別れ、ナギは左肩に掛けたままだったショルダーバッグの底にある包丁のことを思う。あの男に振り下ろすことなく持ち帰るそれは、行きよりもいくらか軽く感じた。
「幸せな凪ちゃん……。っはは、何だそれ」
あの男はそれを聞いたとき、一体どんな顔をするだろう。話の流れで自身の名前を名乗ることはなかったが、女からの話を聞けば、自分の妻が会ったのがナギであると分かるはずだ。
男は娘の未来に、自分のような男が現れる恐怖を少しは感じるだろうか。それともナギ自身がまた現れることを怯えるのだろうか。
だが男がガクガクと震えて地に這いつくばったとしても、ナギの溜飲が下がることはない。
「……死ねばいいのに」
笑顔のままで零れ落ちた呪いの言葉は、あの男に向けたつもりがナギ自身へと跳ね返ったのかもしれない。
だとすれば、あの男を守ったのは、優しい奥さんとあのお腹の中にいた子供だ。
——どうして、あの男は一人ではないの……?
ナギの過去を悲しみで塗り潰した男は、異なる世界に迷い込んだ今もなお、ナギの心を苛み続けている。
小首を傾げた女のお腹は、一目でそれと分かるほどに膨れていた。優しい表情をした女に、ナギはとっさに笑顔を向けていた。あの男が得意な、何の警戒心も抱かせない笑顔だ。
あの男の家を訪ねようとしたところ、玄関から出てきた女を目撃して、ついつい公園までついてきてしまった。これではまるでストーカーのようだと思いながらも、気が付いたときにはナギは女に声を掛けてしまっていた。
「あの、主人を知っているんですか?」
「はい。あ、その子。女の子ですよね?」
「え、ええ」
女の子を宿すと、女性は優しい顔になると聞いたことがあった。女の表情からナギは当てずっぽうでそう言っただけなのだが、ナギの直感は当たったようだ。
女はあの男が子供のことを話すほど親しい知り合いだと思ったのか、安心したように微笑みを返してきた。かつてのナギのように、人を疑うということを知らない女だ。
女に罪はない。もちろんお腹の子供にもだ。それが分かっていてなお、ナギは胸の中で渦巻くどす黒い憎しみを、どうしても抑えることが出来なかった。男が今もナギに見せ続けている地獄は、あまりにも深い。
「……先生にお伝えください。その子が凪ちゃんみたいに幸せになれるように、ずっと見守ってあげてくださいねって」
もしかしたら自分は詐欺師になれるかもしれないと思ったほど、ナギはうまく笑えた。返ってきたふわりとした優しげな笑顔に、女がもう一段ナギに気を許したのが伝わってくる。
「え? 凪ちゃん?」
「はい。幸せな凪ちゃん。そう伝えてもらえたら分かりますから」
「え? ええ、幸せな凪ちゃんね? うふふ、分かったわ」
「……元気な赤ちゃんを産んでくださいね」
「ええ、ありがとう」
最後の言葉は、ある意味ナギの本心だった。だが女が応えてくれた微笑みの美しさに比べれば、ナギの心は決して綺麗とは言えない。
笑顔で手を振りながら女と別れ、ナギは左肩に掛けたままだったショルダーバッグの底にある包丁のことを思う。あの男に振り下ろすことなく持ち帰るそれは、行きよりもいくらか軽く感じた。
「幸せな凪ちゃん……。っはは、何だそれ」
あの男はそれを聞いたとき、一体どんな顔をするだろう。話の流れで自身の名前を名乗ることはなかったが、女からの話を聞けば、自分の妻が会ったのがナギであると分かるはずだ。
男は娘の未来に、自分のような男が現れる恐怖を少しは感じるだろうか。それともナギ自身がまた現れることを怯えるのだろうか。
だが男がガクガクと震えて地に這いつくばったとしても、ナギの溜飲が下がることはない。
「……死ねばいいのに」
笑顔のままで零れ落ちた呪いの言葉は、あの男に向けたつもりがナギ自身へと跳ね返ったのかもしれない。
だとすれば、あの男を守ったのは、優しい奥さんとあのお腹の中にいた子供だ。
——どうして、あの男は一人ではないの……?
ナギの過去を悲しみで塗り潰した男は、異なる世界に迷い込んだ今もなお、ナギの心を苛み続けている。
20
あなたにおすすめの小説
召喚とか聖女とか、どうでもいいけど人の都合考えたことある?
浅海 景
恋愛
水谷 瑛莉桂(みずたに えりか)の目標は堅実な人生を送ること。その一歩となる社会人生活を踏み出した途端に異世界に召喚されてしまう。召喚成功に湧く周囲をよそに瑛莉桂は思った。
「聖女とか絶対ブラックだろう!断固拒否させてもらうから!」
ナルシストな王太子や欲深い神官長、腹黒騎士などを相手に主人公が幸せを勝ち取るため奮闘する物語です。
多分悪役令嬢ですが、うっかりヒーローを餌付けして執着されています
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【美味しそう……? こ、これは誰にもあげませんから!】
23歳、ブラック企業で働いている社畜OLの私。この日も帰宅は深夜過ぎ。泥のように眠りに着き、目覚めれば綺羅びやかな部屋にいた。しかも私は意地悪な貴族令嬢のようで使用人たちはビクビクしている。ひょっとして私って……悪役令嬢? テンプレ通りなら、将来破滅してしまうかも!
そこで、細くても長く生きるために、目立たず空気のように生きようと決めた。それなのに、ひょんな出来事からヒーロー? に執着される羽目に……。
お願いですから、私に構わないで下さい!
※ 他サイトでも投稿中
おばさんは、ひっそり暮らしたい
蝋梅
恋愛
30歳村山直子は、いわゆる勝手に落ちてきた異世界人だった。
たまに物が落ちてくるが人は珍しいものの、牢屋行きにもならず基礎知識を教えてもらい居場所が分かるように、また定期的に国に報告する以外は自由と言われた。
さて、生きるには働かなければならない。
「仕方がない、ご飯屋にするか」
栄養士にはなったものの向いてないと思いながら働いていた私は、また生活のために今日もご飯を作る。
「地味にそこそこ人が入ればいいのに困るなぁ」
意欲が低い直子は、今日もまたテンション低く呟いた。
騎士サイド追加しました。2023/05/23
番外編を不定期ですが始めました。
置き去りにされた転生シンママはご落胤を秘かに育てるも、モトサヤはご容赦のほどを
青の雀
恋愛
シンママから玉の輿婚へ
学生時代から付き合っていた王太子のレオンハルト・バルセロナ殿下に、ある日突然、旅先で置き去りにされてしまう。
お忍び旅行で来ていたので、誰も二人の居場所を知らなく、両親のどちらかが亡くなった時にしか発動しないはずの「血の呪縛」魔法を使われた。
お腹には、殿下との子供を宿しているというのに、政略結婚をするため、バレンシア・セレナーデ公爵令嬢が邪魔になったという理由だけで、あっけなく捨てられてしまったのだ。
レオンハルトは当初、バレンシアを置き去りにする意図はなく、すぐに戻ってくるつもりでいた。
でも、王都に戻ったレオンハルトは、そのまま結婚式を挙げさせられることになる。
お相手は隣国の王女アレキサンドラ。
アレキサンドラとレオンハルトは、形式の上だけの夫婦となるが、レオンハルトには心の妻であるバレンシアがいるので、指1本アレキサンドラに触れることはない。
バレンシアガ置き去りにされて、2年が経った頃、白い結婚に不満をあらわにしたアレキサンドラは、ついに、バレンシアとその王子の存在に気付き、ご落胤である王子を手に入れようと画策するが、どれも失敗に終わってしまう。
バレンシアは、前世、京都の餅菓子屋の一人娘として、シンママをしながら子供を育てた経験があり、今世もパティシエとしての腕を生かし、パンに製菓を売り歩く行商になり、王子を育てていく。
せっかくなので、家庭でできる餅菓子レシピを載せることにしました
【完結】聖女召喚に巻き込まれたバリキャリですが、追い出されそうになったのでお金と魔獣をもらって出て行きます!
チャらら森山
恋愛
二十七歳バリバリキャリアウーマンの鎌本博美(かまもとひろみ)が、交差点で後ろから背中を押された。死んだと思った博美だが、突如、異世界へ召喚される。召喚された博美が発した言葉を誤解したハロルド王子の前に、もうひとりの女性が現れた。博美の方が、聖女召喚に巻き込まれた一般人だと決めつけ、追い出されそうになる。しかし、バリキャリの博美は、そのまま追い出されることを拒否し、彼らに慰謝料を要求する。
お金を受け取るまで、博美は屋敷で暮らすことになり、数々の騒動に巻き込まれながら地下で暮らす魔獣と交流を深めていく。
【完結】恋につける薬は、なし
ちよのまつこ
恋愛
異世界の田舎の村に転移して五年、十八歳のエマは王都へ行くことに。
着いた王都は春の大祭前、庶民も参加できる城の催しでの出来事がきっかけで出会った青年貴族にエマはいきなり嫌悪を向けられ…
辺境のスローライフを満喫したいのに、料理が絶品すぎて冷酷騎士団長に囲い込まれました
腐ったバナナ
恋愛
異世界に転移した元会社員のミサキは、現代の調味料と調理技術というチート能力を駆使し、辺境の森で誰にも邪魔されない静かなスローライフを送ることを目指していた。
しかし、彼女の作る絶品の料理の香りは、辺境を守る冷酷な「鉄血」騎士団長ガイウスを引き寄せてしまった。
異世界に行った、そのあとで。
神宮寺あおい@1/23先視の王女の謀発売
恋愛
新海なつめ三十五歳。
ある日見ず知らずの女子高校生の異世界転移に巻き込まれ、気づけばトルス国へ。
当然彼らが求めているのは聖女である女子高校生だけ。
おまけのような状態で現れたなつめに対しての扱いは散々な中、宰相の協力によって職と居場所を手に入れる。
いたって普通に過ごしていたら、いつのまにか聖女である女子高校生だけでなく王太子や高位貴族の子息たちがこぞって悩み相談をしにくるように。
『私はカウンセラーでも保健室の先生でもありません!』
そう思いつつも生来のお人好しの性格からみんなの悩みごとの相談にのっているうちに、いつの間にか年下の美丈夫に好かれるようになる。
そして、気づけば異世界で求婚されるという本人大混乱の事態に!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる