【完結】あなたにクズでいてほしい ~こちら滅び(予定)の国の兵士専用食堂配膳係~

空野 碧舟

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幸せな凪ちゃん

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「先生はお元気ですか?」

 小首を傾げた女のお腹は、一目でそれと分かるほどに膨れていた。優しい表情をした女に、ナギはとっさに笑顔を向けていた。あの男が得意な、何の警戒心も抱かせない笑顔だ。

 あの男の家を訪ねようとしたところ、玄関から出てきた女を目撃して、ついつい公園までついてきてしまった。これではまるでストーカーのようだと思いながらも、気が付いたときにはナギは女に声を掛けてしまっていた。

「あの、主人を知っているんですか?」

「はい。あ、その子。女の子ですよね?」

「え、ええ」

 女の子を宿すと、女性は優しい顔になると聞いたことがあった。女の表情からナギは当てずっぽうでそう言っただけなのだが、ナギの直感は当たったようだ。

 女はあの男が子供のことを話すほど親しい知り合いだと思ったのか、安心したように微笑みを返してきた。かつてのナギのように、人を疑うということを知らない女だ。

 女に罪はない。もちろんお腹の子供にもだ。それが分かっていてなお、ナギは胸の中で渦巻くどす黒い憎しみを、どうしても抑えることが出来なかった。男が今もナギに見せ続けている地獄は、あまりにも深い。

「……先生にお伝えください。その子が凪ちゃんみたいに幸せになれるように、ずっと見守ってあげてくださいねって」

 もしかしたら自分は詐欺師になれるかもしれないと思ったほど、ナギはうまく笑えた。返ってきたふわりとした優しげな笑顔に、女がもう一段ナギに気を許したのが伝わってくる。

「え? 凪ちゃん?」

「はい。幸せな凪ちゃん。そう伝えてもらえたら分かりますから」

「え? ええ、幸せな凪ちゃんね? うふふ、分かったわ」

「……元気な赤ちゃんを産んでくださいね」

「ええ、ありがとう」

 最後の言葉は、ある意味ナギの本心だった。だが女が応えてくれた微笑みの美しさに比べれば、ナギの心は決して綺麗とは言えない。

 笑顔で手を振りながら女と別れ、ナギは左肩に掛けたままだったショルダーバッグの底にある包丁のことを思う。あの男に振り下ろすことなく持ち帰るそれは、行きよりもいくらか軽く感じた。

「幸せな凪ちゃん……。っはは、何だそれ」

 あの男はそれを聞いたとき、一体どんな顔をするだろう。話の流れで自身の名前を名乗ることはなかったが、女からの話を聞けば、自分の妻が会ったのがナギであると分かるはずだ。

 男は娘の未来に、自分のような男が現れる恐怖を少しは感じるだろうか。それともナギ自身がまた現れることを怯えるのだろうか。

 だが男がガクガクと震えて地に這いつくばったとしても、ナギの溜飲が下がることはない。

「……死ねばいいのに」

 笑顔のままで零れ落ちた呪いの言葉は、あの男に向けたつもりがナギ自身へと跳ね返ったのかもしれない。

 だとすれば、あの男を守ったのは、優しい奥さんとあのお腹の中にいた子供だ。

 ——どうして、あの男は一人ではないの……?

 ナギの過去を悲しみで塗り潰した男は、異なる世界に迷い込んだ今もなお、ナギの心を苛み続けている。
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