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暗闇で耳を塞いで
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ナギが平穏な日々を過ごしていたある日、疲弊しきった様子でイエーが突然現れた。慌てふためくカルロスを横目に、ナギは冷静だった。
——無事だったのね。まだ……。
入り口から一番近い椅子に、崩れるように座ったイエーの目の前に、ナギはそっと水を差し出した。グラスの中でカランと涼しげに鳴った氷の音が、あまりにもその場に不似合いだった。
「どうしたんだよ。何があったんだ? なんでそんなに痩せてるんだよ」
カルロスの言葉通り、イエーはずいぶんやつれたように見える。ナギには眩しすぎるほど輝いていた瞳にも、疲れが滲んでいた。
柔道着にも似た青い戦闘服の、帯や袖、ベルトは黄色。だが、泥や汗や血で汚れたその青も黄色も、洗ったところで落ちるかどうか疑問なほどに汚れている。
「色々あって。いや、まだ途中なんやけど。しばらくここにも来れなさそうやから、その前にナギちゃんとお前の様子を見とこう、思て」
カルロスの柔らかそうな髪をくしゃくしゃと撫でながらも、イエーは疲労の色を隠せていない。子供扱いをされることを嫌うカルロスも、何か思うところがあるのか黙って撫でられている。
「俺はちゃんとやってる。ナギちゃんとも、まあ上手くやってるよ。それよりアニキ、色々って何があったの?」
——あ……。
チラリとナギの方に物言いたげな視線を向けたイエーに、ナギはとっさに背中を向けていた。
「私、外に出てるから。兄弟水入らずでゆっくり話して」
「えっ?」
「ナギちゃん?」
ディナータイムが終わり、掃除もちょうど終わったところだ。イエーはナギに直接話したいことがあったようだが、ナギは聞きたくなかった。
その話の中にナギに関わることがあるとするなら、それが何を意味するのか、ナギには一つしか思い当たらない。
——シュテルン……。
いつかはもたらされるその知らせを、ナギは聞きたくなかった。知らなければ、世界は変わらないからだ。シュテルンが死んだという知らせも、ラオン国が滅びたという知らせも、ナギが知りさえしなければ、なかったことと同じことになる。
遠いラオン国で、シュテルンもメランガのみんなも、ラオン国の人々も幸せに暮らしていると、事実を知らなければ、ナギはずっとそう思っていられるのだ。
そうして何も変わらない穏やかな日々が、ずっと続いていけばいい。
——知りたくない、何も。
真っ暗な中、レストランの裏口にキャンドルを灯して置いたナギは、仄暗い明かりの照らす範囲にある梨の木に近付いた。
梨園を経営する夫婦に、「好きなだけ採っていいよ」と許可はもらっている。カルロスと一緒に、レストランでも使えるジャムなども作っているが、梨はまだまだたわわに実っていた。
ナギは手近な黄金の実をもぎ取ってエプロンで拭くと、その大きな実にかじり付いた。
——甘い……。
「っ……」
ジッと何かが燃える音が聞こえて、不意にこみ上げてきた感情を、ナギは口を手の甲で塞ぐことで抑え込んだ。
キャンドルに飛び込んでその身を焼いた虫を、憐んだわけじゃない。ただ悲しいのか、恐ろしいのか、溢れそうになった涙を止めるために空を仰ぐ。
ナギの知らない星座を紡ぐ綺麗な星々が、よりいっそうナギの心を乱した。
叫びだしたいような想いを無理矢理にでも胸の中に押しこむために、ナギは梨をかじり続ける。
甘くて瑞々しいはずのその味が、苦くも感じられるのはどうしてだろうか。シャリシャリと、途中から無心でかじり、芯だけを残して食べきった梨の味は、甘くて苦いだけではなくしょっぱかった。
「ナギちゃん」
びくりとあからさまに肩が震えたのは、暗闇で掛けられたイエーの声が、まるで別人のもののように重苦しかったからだ。
「……何?」
冷静さを装うと、滑稽なほど冷たい声が出た。
「メランガのことなんやけど」
「悪いけど何も聞きたくない」
「いや、ナギちゃん、その」
「私、ここに来てやっと人並みに幸せな時間を過ごしているの。お願いだから放っておいて」
「ナギちゃん……」
イエーの言葉を遮って、早口で自分の希望だけをナギは伝えた。
はあ、とイエーがため息を吐いた。それも当然だとナギは思う。だがそれに続いたのは、いつものイエーの明るい声だった。
「分かった。それがナギちゃんの望みや言うんなら、オレは何も言わずにナギちゃんを守る。……ほんなら、カルロスのこと、よろしゅう」
「……うん」
キュッと口元を固く結んで、ナギはそれ以上言葉を発することを拒んだ。イエーがシュッと姿を消した後も、ナギはしばらくそこから動くことが出来なかった。
身勝手なことを言ったナギを責めずに、ナギを守るというイエーの言葉に胸が痛む。
——どうしてそんなにいい人なのよ……。
もしかしたら、さっきがイエーを、そしてラオン国の人々を救う最後のチャンスだったのかもしれない。そう思ったら、かくんと足から力が抜けて、ナギはその場に座り込んでしまった。
——これで本当に良かったの?
ここまでしてナギが生き残ることを、果たして両親は望んでいるだろうか。迷いそうになって、ナギは小さく首を横に振った。
「生きるの……」
のろのろと足に付いた土を払いながら立ち上がり、ポツリと呟く。不思議なことに、声に出すと迷いは消えていった。
ナギは生きなければならない。どれほど人でなしになったとしても、それだけがナギのなすべきこと。それは両親ではなく、ナギが自身で決めたことだ。
「さようなら……」
誰にも届かない別れの言葉を口にして、ナギはまた、生きるために邪魔なものをすべて、自身の中から追い出してしまおうとする。
——何度だって、できるわ。また、たくさん忘れて、そうして生きていくのよ、私。
前を向いてゆっくりと息を吐くと、吐いた分だけ新鮮な空気がナギの中に入ってくる。きゅっと口に力を入れると口角が上がり、ナギはうまく笑えている気がした。
——無事だったのね。まだ……。
入り口から一番近い椅子に、崩れるように座ったイエーの目の前に、ナギはそっと水を差し出した。グラスの中でカランと涼しげに鳴った氷の音が、あまりにもその場に不似合いだった。
「どうしたんだよ。何があったんだ? なんでそんなに痩せてるんだよ」
カルロスの言葉通り、イエーはずいぶんやつれたように見える。ナギには眩しすぎるほど輝いていた瞳にも、疲れが滲んでいた。
柔道着にも似た青い戦闘服の、帯や袖、ベルトは黄色。だが、泥や汗や血で汚れたその青も黄色も、洗ったところで落ちるかどうか疑問なほどに汚れている。
「色々あって。いや、まだ途中なんやけど。しばらくここにも来れなさそうやから、その前にナギちゃんとお前の様子を見とこう、思て」
カルロスの柔らかそうな髪をくしゃくしゃと撫でながらも、イエーは疲労の色を隠せていない。子供扱いをされることを嫌うカルロスも、何か思うところがあるのか黙って撫でられている。
「俺はちゃんとやってる。ナギちゃんとも、まあ上手くやってるよ。それよりアニキ、色々って何があったの?」
——あ……。
チラリとナギの方に物言いたげな視線を向けたイエーに、ナギはとっさに背中を向けていた。
「私、外に出てるから。兄弟水入らずでゆっくり話して」
「えっ?」
「ナギちゃん?」
ディナータイムが終わり、掃除もちょうど終わったところだ。イエーはナギに直接話したいことがあったようだが、ナギは聞きたくなかった。
その話の中にナギに関わることがあるとするなら、それが何を意味するのか、ナギには一つしか思い当たらない。
——シュテルン……。
いつかはもたらされるその知らせを、ナギは聞きたくなかった。知らなければ、世界は変わらないからだ。シュテルンが死んだという知らせも、ラオン国が滅びたという知らせも、ナギが知りさえしなければ、なかったことと同じことになる。
遠いラオン国で、シュテルンもメランガのみんなも、ラオン国の人々も幸せに暮らしていると、事実を知らなければ、ナギはずっとそう思っていられるのだ。
そうして何も変わらない穏やかな日々が、ずっと続いていけばいい。
——知りたくない、何も。
真っ暗な中、レストランの裏口にキャンドルを灯して置いたナギは、仄暗い明かりの照らす範囲にある梨の木に近付いた。
梨園を経営する夫婦に、「好きなだけ採っていいよ」と許可はもらっている。カルロスと一緒に、レストランでも使えるジャムなども作っているが、梨はまだまだたわわに実っていた。
ナギは手近な黄金の実をもぎ取ってエプロンで拭くと、その大きな実にかじり付いた。
——甘い……。
「っ……」
ジッと何かが燃える音が聞こえて、不意にこみ上げてきた感情を、ナギは口を手の甲で塞ぐことで抑え込んだ。
キャンドルに飛び込んでその身を焼いた虫を、憐んだわけじゃない。ただ悲しいのか、恐ろしいのか、溢れそうになった涙を止めるために空を仰ぐ。
ナギの知らない星座を紡ぐ綺麗な星々が、よりいっそうナギの心を乱した。
叫びだしたいような想いを無理矢理にでも胸の中に押しこむために、ナギは梨をかじり続ける。
甘くて瑞々しいはずのその味が、苦くも感じられるのはどうしてだろうか。シャリシャリと、途中から無心でかじり、芯だけを残して食べきった梨の味は、甘くて苦いだけではなくしょっぱかった。
「ナギちゃん」
びくりとあからさまに肩が震えたのは、暗闇で掛けられたイエーの声が、まるで別人のもののように重苦しかったからだ。
「……何?」
冷静さを装うと、滑稽なほど冷たい声が出た。
「メランガのことなんやけど」
「悪いけど何も聞きたくない」
「いや、ナギちゃん、その」
「私、ここに来てやっと人並みに幸せな時間を過ごしているの。お願いだから放っておいて」
「ナギちゃん……」
イエーの言葉を遮って、早口で自分の希望だけをナギは伝えた。
はあ、とイエーがため息を吐いた。それも当然だとナギは思う。だがそれに続いたのは、いつものイエーの明るい声だった。
「分かった。それがナギちゃんの望みや言うんなら、オレは何も言わずにナギちゃんを守る。……ほんなら、カルロスのこと、よろしゅう」
「……うん」
キュッと口元を固く結んで、ナギはそれ以上言葉を発することを拒んだ。イエーがシュッと姿を消した後も、ナギはしばらくそこから動くことが出来なかった。
身勝手なことを言ったナギを責めずに、ナギを守るというイエーの言葉に胸が痛む。
——どうしてそんなにいい人なのよ……。
もしかしたら、さっきがイエーを、そしてラオン国の人々を救う最後のチャンスだったのかもしれない。そう思ったら、かくんと足から力が抜けて、ナギはその場に座り込んでしまった。
——これで本当に良かったの?
ここまでしてナギが生き残ることを、果たして両親は望んでいるだろうか。迷いそうになって、ナギは小さく首を横に振った。
「生きるの……」
のろのろと足に付いた土を払いながら立ち上がり、ポツリと呟く。不思議なことに、声に出すと迷いは消えていった。
ナギは生きなければならない。どれほど人でなしになったとしても、それだけがナギのなすべきこと。それは両親ではなく、ナギが自身で決めたことだ。
「さようなら……」
誰にも届かない別れの言葉を口にして、ナギはまた、生きるために邪魔なものをすべて、自身の中から追い出してしまおうとする。
——何度だって、できるわ。また、たくさん忘れて、そうして生きていくのよ、私。
前を向いてゆっくりと息を吐くと、吐いた分だけ新鮮な空気がナギの中に入ってくる。きゅっと口に力を入れると口角が上がり、ナギはうまく笑えている気がした。
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