巡り巡る 〜漢字の意味が世界を変える世界〜

暇な鍼灸師

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第5章 届かぬ交渉と託された一通の警告状

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◾︎夜の帳が下りた港湾地区
潮の香りと錆びついた鉄の臭いが混じる人気のない埋立地に、一台の黒塗りの高級車が滑り込んだ。
「第七倉庫……ここか」
金剛寺武は車を降りると、運転手を手で追い払った。
苛立ちと焦りで周囲への警戒が疎かになっている彼は、数百メートル後方で停まったタクシーから、黒い影が降り立ったことに気づかなかった。
金剛寺は巨大な鉄扉の前まで歩くと、特定のりズムでノックをした。
コン、コンコン、コン。
『……山』
中から低い男の声が聞こえる。
「……川」
金剛寺が答えると、重い金属音が響き、扉がわずかに開いた。金剛寺はあたりを見回した後、素早く中へと姿を消した。
その数十秒後。
倉庫の壁面に、音もなく貼り付く影があった。音無賢人だ。
(……ここが奴のアジトか)
賢人は壁に手を当て、「音」の能力を極限まで研ぎ澄ませた。
コンクリートの厚みを透過し、振動を拾い、中の音声を脳内で再生する。
倉庫内。
薄暗い照明の下、金剛寺は冷や汗を拭いながら頭を下げていた。
「……申し訳ありません、グレイ殿。警察への海外製装備一式の導入の件……失敗しました」
金剛寺の目の前には、軍服のようなタクティカルスーツを着た銀髪の男——グレイが、パイプ椅子に座り冷ややかな視線を送っていた。
金剛寺の近くの壁に寄りかかって、熊のような巨躯を持つ男、熊井猛が腕を組んで仁王立ちしている。
「……失敗した、だと?」
グレイの声は、氷点下の冷たさを帯びていた。
「我々が君にどれだけの資金を提供したと思っている? 日本の警察組織を、我が国の軍事産業の『お得意様』にする……それが君とアメリカとの契約だったはずだが。契約はどうするつもりだ?」
「は、はい! 承知しております! ですが……あの東という小僧が! 長宗我部と結託して、完璧な修正案を出してきたのです!」
金剛寺は言い訳を捲し立てた後、狂気を帯びた目で顔を上げた。
「ですが、まだ手はあります! 諸悪の根源である長宗我部政宗と、あの小賢しい東義昭……あの二人をこの世から消せばいいのです! 彼らがいなくなれば、新法案などうやむやにできましょう!」
金剛寺は横に控える大男に怒鳴った。
「おい熊井! 聞いたな! 今後の暗殺計画を練るぞ! お前の『熊井』の能力があれば、あんな奴らなどひねり潰せるはずだ!」
「へいへい、先生。任せといてくだせぇ」
熊井が指をポキポキと鳴らす。
金剛寺はドカリとソファに腰を下ろし、荒い息を吐いた。
それを冷めた目で見ていたグレイが、ふと思い出したように口を開いた。
「……そういえば、金剛寺。暗殺と言えば……ウチの諜報員から面白い報告が上がってきている」
「ん? 面白い報告、ですか?」
「ああ。『音無賢人』という覚醒者をご存知か?」
壁の外で盗聴していた賢人の心臓が、ドクリと跳ねた。
グレイはニヤリと笑いながら続けた。
「音も気配も姿さえも完全に消すことができる能力者だ。……どうだ? 暗殺にはもってこいだと思わんか?」
金剛寺は目を輝かせて身を乗り出した。
「なっ……! ステルス能力だと!? それは素晴らしい! そいつを手駒にできれば、長宗我部の殺害など赤子の手を捻るようなもの! その他応用などいくらでも出来る!……で、そいつは何処に!?」
「私の部下からの報告によれば……つい先ほど、とある警察署で痕跡が見つかったようだ」
「警察署!? すぐにでも確保に向かわせたい! グレイ殿、その詳細な場所を……!」
「待て」
グレイは手で制し、意地悪く微笑んだ。
「我々はビジネスパートナーだが……これは契約外の、私の個人的な情報だ。協力してやっても良いが……」
グレイは指を擦り合わせた。
「私への『個人的な謝礼』が条件だ」
そして提示された金額は、法外なものだった。
「なっ……!? そ、そんな馬鹿な! 装備の契約金が吹っ飛ぶほどの額ではありませんか!」
「嫌なら自分で探すことだ。……もっとも、奴は『幽霊』だ。見つけるのに何年かかるかな?」
「ぐぬぬ……」
金剛寺は苦渋の表情で呻いたが、背に腹は代えられない。
「……分かりました。その条件、飲みましょう。ですから早く情報を!」
「商談成立だな」
グレイは満足げにニヤつき、手元の端末を操作し始めた。
「サラたちからの続報を待て。奴の現在地を特定次第、君に売り渡してやる」
倉庫の外。
賢人は壁から手を離し、ガクリと膝をついた。
(……マジかよ)
金剛寺の悪事を暴こうと追ってきたはずが、まさか自分がターゲットとして、目の前で取引されているとは。
しかも、相手は腐敗政治家だけではない。米軍の司令官までもが、自分を「暗殺の道具」として値踏みしている。
(俺はただ……親の仇を討ちたいだけなのに)
長宗我部や東の暗殺計画。
金剛寺と熊井という強力な覚醒者たち。
そして、最新鋭の諜報網を持つ米軍。
これら全てが、今まさに動き出し、自分や、自分が「平和になってほしい」と願うこの国を飲み込もうとしている。
賢人は震える手を見つめた。それは寒さのせいではなかった。
(……無理だ。これだけの相手……俺一人じゃ、とても太刀打ちできない)
「無」の能力で隠れ続けてきた孤独な青年は、初めて「個人の限界」という絶望的な壁にぶち当たっていた。
「……誰か」
賢人の口から、弱々しい言葉が漏れた。
彼は今、痛切に「味方」を欲していた。
港からの冷たい海風が、音無賢人の頬を叩く。
彼は倉庫から十分に距離を取ったところで、ふらつく足取りを止めた。
「……はぁ、はぁ……」
心臓の音がうるさい。
恐怖か、それとも怒りか。賢人は震える手でフードを深く被り直すと、倉庫の方角を睨みつけた。
(……整理しろ。落ち着け)
賢人は脳内で、先ほどの会話を反芻する。
(中にいたのは三人と一匹……いや、三人か。金剛寺武、熊井とかいうデカブツ、そして……グレイとかいう外国人)
役者は揃いすぎていた。
腐敗した与党議員、その懐刀の武闘派、そして背後にいる米軍。
(奴らの目的は、東義昭と長宗我部政宗の暗殺。……俺は、そのための『道具』だ)
賢人は唇を噛んだ。
金剛寺にとって、俺の確保はあくまで手段に過ぎない。目的はあくまで新法案の阻止、そして政敵の排除だ。
(もし俺が捕まらなくても……金剛寺は諦めない。あの熊井とかいう奴や、他の手駒を使って、東や長宗我部を殺しに行くはずだ)
そこまで考えた時、賢人の脳裏に一つの可能性が閃いた。
(……逆に言えば、金剛寺の目は今、『俺』に向いている。俺を探すことに躍起になっている今なら……隙がある)
自分が囮になっている間に、ターゲットである二人にこの計画を知らせることができれば。
あの切れ者の東義昭と、最強の能力者である長宗我部政宗なら、防ぐことができるかもしれない。いや、金剛寺やグレイと真っ向から戦ってくれるかもしれない。
(……毒を以て毒を制す、か)
自分一人では無力だ。だが、巨人と巨人をぶつければ、勝機はある。
(……ただ、懸念はあの『グレイ』だ)
賢人の背筋に冷たいものが走る。
金剛寺のような欲に塗れた人間は動きが読みやすい。だが、あの外国人は違う。底知れない冷徹さと、圧倒的な情報網を持っている。
(警察署で俺の痕跡が見つかった……? あのパトカーの車内カメラか?)
『ウチの諜報員から……』
『サラ達の情報……』
(サラ……。そいつが、グレイの手足か)
俺の情報を持ってきたのがその「サラ」だとしたら、奴らは警察の内部情報をリアルタイムで覗いていることになる。あるいは、目に見えない何かを感知する能力者か?
(……厄介すぎる。だが、今は動くしかない)
賢人は決意を固め、近くに見えたコンビニの明かりへと走った。
「いらっしゃいませー」
深夜のコンビニ。気だるげな店員の声を背に、賢人は文具コーナーへ直行した。
一番安い大学ノートと、ボールペン、そして封筒を掴み取り、レジへ放る。
「……これだけで」
「あ、はい。えーと、350円になります」
釣銭も受け取らず、賢人は店を飛び出した。
通りに出ると、ちょうど空車のタクシーが通りかかる。
「……止まってくれ」
手を挙げると、タクシーが減速して賢人の前で止まった。
後部座席に乗り込む。
「へい、お客さん。どちらまで?」
「……議員会館まで」
「えっ?」
初老の運転手は、バックミラー越しに怪訝な顔をした。
「こんな真夜中にかい? 兄ちゃん、まさかデモの参加者とかじゃ……」
「……急いでください」
賢人はそれ以上何も答えず、買ったばかりのノートを膝の上に広げた。
「へいへい、分かりましたよ」
タクシーが走り出す。
流れる街灯の明かりを頼りに、賢人はペンを走らせた。
(……簡潔に。信じてもらえるように)
『警告』
『金剛寺武による、長宗我部・東両議員への暗殺計画あり』
『実行犯は覚醒者「熊井」、および米軍の介入あり』
『盗聴場所:第七倉庫』
震える文字で、今聞いたばかりの事実を書き殴っていく。
文字にするたびに、事の重大さがのしかかってくる。これは国家転覆レベルの陰謀だ。ただの放浪者が関わっていい案件じゃない。
(……でも、書かなきゃ)
賢人はペンを握る手に力を込めた。
(俺には力がなかった。……けど、この情報を届けることだけはできる。これが届けば、何かが変わるかもしれない)
「……兄ちゃん、何か悪いことでもあったのかい? 怖い顔してるよ」
運転手が気遣わしげに声をかけてくる。
「……いや。何でもないです」
賢人は書き終えた便箋を丁寧に折り、封筒に入れた。
表書きには、『東 義昭 殿』とだけ記した。
(頼む……。気づいてくれ、東義昭)
タクシーは首都高の下を潜り抜け、日本の政治の中枢、永田町へとひた走る。
その車内で、孤独な青年は一通の手紙に、日本という国の命運と、自身の復讐への微かな希望を託していた。
◾︎翌朝 衆議院第二議員会館
日本で最も警備が厳重な場所の一つであるその部屋に、東義昭はいつもの不機嫌そうな顔で入室した。
「……チッ。今日もくだらん陳情の山か」
革鞄をソファに放り投げ、デスクに向かう。
そして、コーヒーを一口飲もうとした手が、ピタリと止まった。
デスクの中央。昨日までは確かに何もなかった場所に、一通の封筒が置かれている。
切手も、消印もない。ただ走り書きで『東義昭 殿』とだけ記された、コンビニで売っている安っぽい茶封筒。
「…………」
東はコーヒーカップを静かに置き、入室ログを確認するが異常なし。警備員からの入室報告も上がっていない。
(この部屋に入退室するには、厳重な警備を掻い潜る必要がある。窓は防弾ガラスの嵌め殺し。換気ダクトは人間が通れるサイズじゃない)
東はハンカチを取り出し、指紋がつかないように慎重に封筒をつまみ上げた。
(……物理的に侵入は困難。だが、現に『これ』はある。あるとすれば巡回する警備員の後ろにピッタリついて歩くくらいか…?しかしそんな人間離れした…人間離れ?)
結論は一つ。
常識の外側にいる人間——覚醒者の仕業だ。
「……高柳! 今すぐ長宗我部議員を呼べ! 『至急、極秘の案件だ』と伝えろ!」
東はインターホン越しに高柳に怒鳴ると、ペーパーナイフで封を開けた。
数分後。
息を切らせて長宗我部政宗が入室してきた。
「東君! どうしたんだ、朝一番から!」
「……静かに」
東は長宗我部の口元を手で制し、自分のデスクの前に座らせた。
そして、一枚のメモ用紙とペンを取り出し、サラサラと文字を書き始めた。
(盗聴の可能性がある。声に出すな。筆談だ)
長宗我部は驚いた表情を見せたが、すぐに真剣な眼差しに変わり、頷いた。
東は先ほどの手紙の内容を要約し、メモに走らせた。
『金剛寺が我々の暗殺を計画している』
『実行犯候補:熊井猛、および音無賢人』
『バックには米軍がついている』
長宗我部が目を見開き、ペンを奪い取って震える手で書く。
『信憑性は?』
東はニヤリと笑い、机の上の封筒を指差した。
『今朝、私の机に置いてあった。警備システムは一切反応していない。……この「配達方法」こそが、内容が真実である何よりの証明だ』
『音無賢人……?』
『ああ。手紙によれば、彼は金剛寺と米軍に「道具」として狙われている。恐らく暗殺に向いている覚醒者なのだろう。だが、彼はそれをなんらかの手段で察して拒否し、危険を冒して我々に警告に来た』
東はメモの最後の行を指先でトントンと叩いた。
『「私は道具にはならない。そして両親の仇を取るまでは死ぬわけにはいかない。どうか、生き延びて日本を守ってほしい」……泣かせるセリフじゃないか』
長宗我部の表情が、怒りと悲しみに歪む。
(金剛寺……! 自分の野心のために、若者を道具にし、他国の軍隊まで引き入れるとは……!)
東は素早く次の指示を書いた。
『今日から予定を変更する。単独行動は避けてくれ。移動は常に人目のある場所を選び、SPを倍に増やせ。』
『分かった。東君も気をつけてくれ』
『ああ。……行け。いつも通り振る舞うんだ』
長宗我部は深く頷き、メモをシュレッダーにかけると、足早に部屋を出て行った。
バタン。
重厚なドアが閉まり、広い部屋に東一人が残された。
東はソファに深く腰掛け、天井を見上げた。
部屋には空調の音だけが響いている。
「…………」
東はふと、視線を部屋の「何もない空間」に向けた。
誰もいない。気配もない。
だが、この手紙を置いた男なら、まだそこに潜んでいる可能性はゼロではない。
東は盗聴器のチェックをもう一度して監視カメラの電源を切り独り言のように、しかし明確な意志を込めて虚空に話しかけた。
「……おい。そこにいるんだろ? 音無賢人」
返事はない。
東は構わずに続けた。
「手紙は読んだ。感謝する。……だがな、こんな紙切れ一枚で義理を果たしたつもりか?」
東はテーブルの上の手紙を指で弾いた。
「お前の置かれた状況は理解した。金剛寺、米軍、犯罪組織……全方位から狙われているな。お前個人の力じゃ限界がある。このままだと、いずれジリ貧だ」
東は身を乗り出し、誰もいない空間を睨みつけた。
「だから、取引をしよう」
「俺が、お前を守ってやる。俺の知恵と、長宗我部の権力があれば、金剛寺だろうが米軍だろうが追い払える。お前の望む『両親の敵討ち』も、法的に、あるいは超法規的に手伝ってやれる」
東はニヤリと、悪魔的で魅力的な笑みを浮かべた。
「その代わり……俺の手足になれ。お前のその能力、俺ならもっと有効に使ってやれる。金剛寺を社会的に抹殺する証拠を集めるもよし、奴の寝室に脅迫状を置くもよしだ」
「……どうだ? 悪い話じゃないだろう?」
東は耳を澄ませた。
部屋の空気が揺らぐのを、あるいはどこからか声が返ってくるのを待った。
……シーン。
返ってくるのは静寂だけ。
数分後、東は「フッ」と自嘲気味に笑い、背もたれに体を預けた。
「……いないか。逃げ足の速い奴だ」
東は立ち上がり、窓の外に広がる東京の街を見下ろした。
「まあいい。お前がこの国を憂いているのは分かった。……なら、必ずまた会うことになる」
東は手紙を懐にしまうと、不敵に呟いた。
「その時まで、精々生き延びろよ。……『透明人間』君」
誰もいない部屋に、東の言葉だけが吸い込まれていった。
音無は既に、遠く離れた街の雑踏の中に消えていたというのに。
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