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「マホ、マホ!」
声の降るほうを見上げると、なっちゃんがリフトの上で足をばたばたと上下させていた。くっついたスキー板よりぱらりぱらぱらと乱れ落ちる銀の粒子は、照らされた陽光を切りとって、澄んだ青空に星を生んだ。瞬きのあと、それは霧雨のようにふり注ぎ、額にあげたゴーグルと防寒具の隙間よりわずかに露出する私の顔に水の膜をつくった。ぴゅうと吹く風の温度を、濡れた頬が著しく下げた。
「おいおい、ゆれる、ゆれるって」
そんななっちゃんの隣に、頭ひとつほど高い見知らぬ男が一人、似たような格好をして座っていた。なっちゃんは身長の高い女性なので、私の視界に映るその男は、それなりに高身長なのだろう。ぎいと音を立ててゆれるリフトの上で、黄色い声をあげる二人は、仲睦まじいように見えた。しばらくすると、白に足元を埋めながら、揃って歩いてきた。手を振るなっちゃんに、私も手を振りかえす。
「マホ。一緒にきた、大学の友達」
「どうも」
眼前に立つとそこまで高身長でもなかった、隣の男はユウキと名乗った。鼻筋だけはしっかり通っている、男前というには物足りないが、不細工とするには良心が痛むような顔だった。
「本当だ。ナツキちゃんの言うように、美人だね」
なっちゃんに影が落ちた。私の隣にいる同性には、よくあることだった。
「でしょう? さっきまで、ずっと疑ってたこと、謝ってもらいましょうか」
「ごめん、ごめんって」
男は、これを察することはできない。
「ありがとう」
ひと匙の自尊心をまぶした、はにかんだ微笑。私の得意技だった。
「なっちゃんとは、どこで知り合ったの?」
ぱっと顔色を移し、話題を変える。
「ああ、俺の友達がすっころんでたところに、ナツキちゃんがちょうど通りかかってね。手をかしてくれているところに、俺が合流した。礼をしたいってところで、ナツキちゃんも友達を連れていると聞いてね。それなら、みんなで一緒に滑りましょう……といった流れかな」
「ほんと、盛大なころびっぷりだったよね。マホよりもひどいんじゃない、あの人」
「そうかもね」
からからと笑う二人。
「あれ、そのお友達は、今どこに?」
「お前も上がってこい、と声をかけたんだけど、遠慮する、の一点張りでさ。変にプライドの高いやつだから、派手にころんだところを見られた張本人と一緒に行動するのが、いたたまれないんだろうな」
「滑れないからって、一人でずっと雪だるまつくってる、マホとそっくりね」
「あっ、ひどい」
三人で笑えた。
「滑れないのなら、教えてあげようか」
「いやいや、私、本当にだめなんです」
とりあえず、拒否する。
「大丈夫だって。俺の友達だって、俺が教えてやったら、一日で滑れるようになったぜ」
「お友達、ころんでいるじゃないですか」
「ありゃ、例外だよ」
「私だって、例外ですよ」
押し問答は好きじゃなかった。
「ううん、そっか」
さすがにここまで頑なに断られると、ユウキもあまりよい気はしないようで、笑顔がひきつってきた。
「いいじゃん、マホ」
快活な声が鳴った。
「私も、教えるからさ。一緒に滑ろうよ、ね」
なっちゃんはいつでも笑顔だ。そんななっちゃんが、私はとても好きだ。ただ、今のなっちゃんはその笑顔の裏側で、私が見知ったあの表情に、さらにもう一つの仮面をつけているような気がした。
「おっ、ナツキちゃん、加勢してくれるの?」
ほんの一瞬、なっちゃんはぐちゃぐちゃになった。
「もちろんだよ。私も、みんなで滑りたかったんだもん」
すぐに戻った。
足についた板を八の字にして、のろのろと雪面をくだる私の前を、なっちゃんとユウキが颯爽と滑走する。時折止まってはこちらを向いて、手を振ったり、大きな声でアドバイスをくれたりする。運動神経のよい人たちというのは、いかに自分が環境に恵まれているか、もっと思慮を重ねるべきだと思った。
「いいじゃん、うまいうまい」
風を切るように滑る二人の前では、励ましの言葉を素直に喜ぶことはできなかった。また、いつもの微笑を浮かべた。
「それにしても、ナツキちゃん、すごく上手いね。本当に初心者なの?」
「昔っから、身体動かすことだけは、得意だったから」
「センスあるよ、すごいすごい」
「あはは、ありがと」
なっちゃんのユウキへの熱視線に気を取られていると、ぐらりと視界が揺れた。青が消え、白に染まった。とっさに閉ざした瞼がそれを黒へ塗りつぶし、きゅっと顔が凍った。ぎゅむむとめり込んでゆく身体を起こし、顔を上げると、なっちゃんとユウキが心配したようにこちらを覗いていた。
「ハデにころんだねぇ。大丈夫?」
伸ばされた、ユウキの手。それがなんだか、とってもおかしいことのように思い、ふつふつと腹の底から湧く滑稽な陽気が胸をくすぐり、鼻の奥まで昇ったかと思うと、目尻や頬、くちびるにびゅんと広がり、ついには大口をあけて快活な声をあげて笑ってしまった。ぽかんとするユウキの隣で、なっちゃんが呆れたように嘆息した。
「こういう、変なところがツボなのよ、マホは」
「ああ、そう」
こうやって、笑う姿を呆れられる自分がまたおかしくて、ひいひいと言いながら起きあがり、閉じた口から洩れでる忍び笑いを、なんとかごわごわの手袋で隠そうとするが、くちびるに触れたそれがとんでもなく冷たくて、ひゃっと声をあげてしまったのがまたまたおかしくて、とめどない笑いの衝動を止めるタガはどこかにふっ飛んで、腹筋と声帯をこれでもかというくらい駆使して、私は笑った。
「マホ、マホ! まったく、あんだけハデにころんで、心配かけて爆笑するって、どういう了見よ」
「ごめん、ごめんって」
「まあ、無事でよかったよ、ね」
「本当に、もう」
呆れるなっちゃんが、またツボなのだ。
「あっ、また!」
結局、笑い疲れて滑る体力をなくした私は、スキー板を外し、とぼとぼと歩いて降りた。なっちゃんとユウキも、同じようにしてくれた。ずっと不安定な板の上にいたものだから、こうやって地に足をしっかりつけられるようになると、いつもどおりのはずなのに、いたく感動してしまう。
斜面をくだりきり、休憩所に入った。ぶ厚い防寒着でかさばる人間がわらわらと群れをなし、寒々しかった野外のほうが幾分かましだと思うくらいに、むんとした独特のなまぬるい熱気が満ちていた。とはいえ、朝食以降なにも口にしていない私たちははらぺこで、がさがさがちゃがちゃと動くたびに鬱陶しい雑音を撒きながら、同じように昼食にありつこうとする人の列へ並んだ。数十分後、注文したものを受けとり、ごった返す室内を見渡すと、窓際の一席に座ったユウキが大きく手を振った。よく見ると、隣にもう一人、男がいた。
「いやあ、おつかれ。混んでるね、この時間は」
湯気のたつどんぶりの乗ったトレイを木のテーブルにごとりと置いて、座った。ユウキの隣で、男が黙りこんでいる。こちらは、男前と呼ぶには良心が痛む顔立ちだった。
「あっ、さっきの」
同じようにトレイを置いたなっちゃんが、だんまりのもう一人の男を指さした。
「ヒデ、お前の話でずっともちきりだったんだぞ」
目を流すユウキへ、ヒデはその気難しそうな眉間のしわをさらに深めた。
「どうせ、バカにしてたんだろう」
「バカになんてしてないさ。面白がっていただけで」
「それを、バカにしているというんだ」
湯気のたたないコーヒーをすすり、ヒデは嘆息した。私はなっちゃんと顔を見合わせる。
「それで、この女の子たちは、だれ」
「おいおい」
「ちょっと、雪に埋もれたあなたを助けた恩人の顔をもう忘れたの?」
この笑顔のなっちゃんは、内心思うことがあるのだ。
「ああ、どうも」
ぶっきらぼう。
「すまんね。こいつ、へそ曲がりでさ」
ユウキはどこかへらへらとしていた。
「ヒデ、この子、マホちゃん。ナツキちゃんの友達」
肩を叩かれたヒデが、私を一瞥した。とっさに微笑を浮かべた。
「マホです。よろしく」
「ああ、どうも」
軽く頭を下げて、すぐにそっぽを向いた。
「なんだよ、それだけか? こんな美人、なかなかいないぜ」
「そんなに変わらんだろ、二人とも」
ぴしっと、何かが軋む音がした。
「マホ、めずらしく、怖い顔しないの」
なっちゃんの指摘で、自分の顔から微笑が消えていたことに気がついた。
「一緒なんてもんじゃないよ。私なんかより、マホのほうがすごい美人だもん」
なっちゃんはすこし嬉しそうだ。
「そんなこと、ないよ」
やんわりといつものように、否定できているのか、わからない。
「いやいや、ナツキちゃんも十分イケてるって。ね、本当に」
ユウキの発言は最善だと思った。ヒデの言うことを肯定してしまえば、どことなく私に失礼にあたるし、否定してしまえば、今度はなっちゃんに失礼だからだ。
「ささ、なんにせよ、さっさと飯食っちまおうぜ。べらべら喋ってたら、冷めちまう」
ユウキが皆を食事にいざなう。ぬるくなったきつねうどんをすすった。不味くも美味くもなかった。
「二人は、出身はどこらへん?」
「私は愛知、マホは大阪」
「へえ、全然ちがうんだ。なんの繋がりで?」
「大学の飲みサークル。まあ、私もマホも、あんまり肌が合わなくて、もうめっきり行ってないんだけどね」
食べながら会話を繰り広げるなっちゃんとユウキの隣で、私とヒデはひたすら黙りこんでいた。ちらっと、ヒデを見た。やっぱり、男前じゃない。たぶん、中の下くらいだ。この男が私となっちゃんを同じものだと扱うのか、不思議だった。
すするうどんは無味無臭で、喉ごしを感じるまもなく食べ終わってしまった。どんぶりのつゆに映る、自分の顔をのぞいてみた。いつもの私だった。顔を上げると、ヒデは目を伏せた。
「あの」
こちらから、声をかけてやった。
「ヒデさんって、どういう人がタイプなんですか」
すると、ヒデは目を丸くしたあと、突然困ったようにううんううんと唸りだした。
「好きになった人」
ぽつりと呟いて、またそっぽを向いた。なんなんだ、この男は。全然かっこよくもないのに、話も下手で、こちらからの質問への返答もまるで面白くない。
「お友達とは」
今度は、ヒデから口を開いた。
「はい」
「お友達とは、長いんですか」
「え、まあ、二年くらい」
「そうですか」
再び、そっぽを向きやがった。
「あの」
「はい」
「なんか、こう、話を盛り上げようとか、そういうのって、ないんですか」
「盛り上がってるじゃないですか、隣」
「私と、あなたの話です」
「盛り上がってほしいんですか」
「そりゃ、まあ」
「じゃあ、盛り上げてくださいよ」
「えっ」
「盛り上げたいんでしょう? それじゃ、どうぞ」
だめだこいつ。
「なっちゃん、なっちゃん」
「あっ、そろそろ滑る?」
「おっ、いいね。マホちゃんも、やる気になった?」
「いや、そうじゃなくて」
「えっ、そうじゃないの?」
「いやっ、そうじゃないわけでもないんだけど」
「じゃあ、滑ろうよ」
「ヒデもこいよ。ずっとここにいたって、つまんねえだろ」
「わかった」
なぜ、この男がここで頷いたのかわからない。
「よし、それじゃ、後半戦いくぞっ」
意気揚々と出ていくなっちゃんとユウキ。その後ろで、ヒデがこちらへ振り向くと、私を手招いた。
「行こう」
うるさい。
ヒデがスキーを得意としていたことで、私の意欲は消え失せた。ハデにすっころび、なっちゃんに助けてもらったと聞いていたので、てっきり滑れないのかと思っていたが、教えられた通りにのろのろと滑っていた私の隣を、なっちゃんとユウキと同等のスピードで通り過ぎ、みるみる小さくなってゆくその背中を眺めていると、なにかがぽきっと折れる音がした。
「ちょっと、マホ。一緒に滑るって言ってたじゃない」
なっちゃんが戻ってきた。
「やっぱり、一朝一夕じゃ、むずかしいのよ、こういうの」
小さな雪玉を作る。
「マホちゃん、一緒に滑ろうよ。ゆっくり行くからさ」
「いいよ、なんか、私に合わせてもらうの、みんなに悪いし。滑ってきなよ。これ、結構楽しんでるんだよ、私」
それを、もう一つの雪玉の上に乗せた。手も口もない、小さな雪だるま。無表情で、無機質で、それでいて傲慢に見えた。
「あれ、ヒデくんは?」
「トイレ。先に行ってようぜ」
「そっか。マホ、気が向いたら、あんたも滑ってきなさいよ」
そうは言うものの、ユウキと二人きりで滑走するなっちゃんは、嬉しそうだった。ゲレンデマジックが起きることを願い、私は無心で雪だるまを作った。
「それ、本当に楽しいんですか」
振り返ると、ヒデがいた。
「楽しいですよ、もちろん」
「そうですか」
ヒデがスキー板を外しはじめた。
「僕も作ろうっと」
「えっ、いいですよ。私になんか構わずに、どうぞ滑ってきてください」
「僕が作りたいから、作るんです」
しゃがみ込み、私の隣を完全に陣取ってしまった。
「なんで、みんな同じなんですか、それ」
「えっ、同じに見えます?」
「あなたには見えないんですか、同じに」
「そりゃ、私が作ったものですし」
「そうですか」
ざっくりと雑に削られた雪の塊は、私よりすこし大きめの手袋の中でするすると撫ぜられると、銀の粉塵を散漫させながら、玉へと姿を変えてゆく。その妙に玄人めいた手つきと、沈黙の元で没頭する真剣な表情から、なぜか私は目を離すことができなかった。
「あの」
ヒデが手を止めた。そこには一切の凹凸のない、滑らかな曲線の美しい、純白の宝玉があった。いつのまにやら紅く灯った空のむこうで、爛々とその煌めきを広げた斜陽が、宝玉を燃えるような金色へと染めあげた。
「あの」
「えっ、はい」
「頭、ありますか」
「頭?」
「雪だるまの、頭ですよ」
「それ、身体?」
「もちろん」
手元に転がっていた、無骨な雪の玉。私が途中から完成させることをすっかりと忘れ、中途半端なままのそれを手にとると、ヒデは宝玉の上にとんと乗せた。絹のような身体に、無骨な頭の雪だるまが誕生した。
「なんか、バランス悪いね」
「いいんですよ、これで」
「なんで」
「季節が巡れば、どうせ全て溶けてなくなってしまうんです」
ヒデが立ちあがった。膝がぱきっと鳴った。
「一時的にでも、雪だるまであった、という事実が、大切なのだと思います」
ふりむき微笑むヒデの顔は、やっぱりかっこよくはなかった。
声の降るほうを見上げると、なっちゃんがリフトの上で足をばたばたと上下させていた。くっついたスキー板よりぱらりぱらぱらと乱れ落ちる銀の粒子は、照らされた陽光を切りとって、澄んだ青空に星を生んだ。瞬きのあと、それは霧雨のようにふり注ぎ、額にあげたゴーグルと防寒具の隙間よりわずかに露出する私の顔に水の膜をつくった。ぴゅうと吹く風の温度を、濡れた頬が著しく下げた。
「おいおい、ゆれる、ゆれるって」
そんななっちゃんの隣に、頭ひとつほど高い見知らぬ男が一人、似たような格好をして座っていた。なっちゃんは身長の高い女性なので、私の視界に映るその男は、それなりに高身長なのだろう。ぎいと音を立ててゆれるリフトの上で、黄色い声をあげる二人は、仲睦まじいように見えた。しばらくすると、白に足元を埋めながら、揃って歩いてきた。手を振るなっちゃんに、私も手を振りかえす。
「マホ。一緒にきた、大学の友達」
「どうも」
眼前に立つとそこまで高身長でもなかった、隣の男はユウキと名乗った。鼻筋だけはしっかり通っている、男前というには物足りないが、不細工とするには良心が痛むような顔だった。
「本当だ。ナツキちゃんの言うように、美人だね」
なっちゃんに影が落ちた。私の隣にいる同性には、よくあることだった。
「でしょう? さっきまで、ずっと疑ってたこと、謝ってもらいましょうか」
「ごめん、ごめんって」
男は、これを察することはできない。
「ありがとう」
ひと匙の自尊心をまぶした、はにかんだ微笑。私の得意技だった。
「なっちゃんとは、どこで知り合ったの?」
ぱっと顔色を移し、話題を変える。
「ああ、俺の友達がすっころんでたところに、ナツキちゃんがちょうど通りかかってね。手をかしてくれているところに、俺が合流した。礼をしたいってところで、ナツキちゃんも友達を連れていると聞いてね。それなら、みんなで一緒に滑りましょう……といった流れかな」
「ほんと、盛大なころびっぷりだったよね。マホよりもひどいんじゃない、あの人」
「そうかもね」
からからと笑う二人。
「あれ、そのお友達は、今どこに?」
「お前も上がってこい、と声をかけたんだけど、遠慮する、の一点張りでさ。変にプライドの高いやつだから、派手にころんだところを見られた張本人と一緒に行動するのが、いたたまれないんだろうな」
「滑れないからって、一人でずっと雪だるまつくってる、マホとそっくりね」
「あっ、ひどい」
三人で笑えた。
「滑れないのなら、教えてあげようか」
「いやいや、私、本当にだめなんです」
とりあえず、拒否する。
「大丈夫だって。俺の友達だって、俺が教えてやったら、一日で滑れるようになったぜ」
「お友達、ころんでいるじゃないですか」
「ありゃ、例外だよ」
「私だって、例外ですよ」
押し問答は好きじゃなかった。
「ううん、そっか」
さすがにここまで頑なに断られると、ユウキもあまりよい気はしないようで、笑顔がひきつってきた。
「いいじゃん、マホ」
快活な声が鳴った。
「私も、教えるからさ。一緒に滑ろうよ、ね」
なっちゃんはいつでも笑顔だ。そんななっちゃんが、私はとても好きだ。ただ、今のなっちゃんはその笑顔の裏側で、私が見知ったあの表情に、さらにもう一つの仮面をつけているような気がした。
「おっ、ナツキちゃん、加勢してくれるの?」
ほんの一瞬、なっちゃんはぐちゃぐちゃになった。
「もちろんだよ。私も、みんなで滑りたかったんだもん」
すぐに戻った。
足についた板を八の字にして、のろのろと雪面をくだる私の前を、なっちゃんとユウキが颯爽と滑走する。時折止まってはこちらを向いて、手を振ったり、大きな声でアドバイスをくれたりする。運動神経のよい人たちというのは、いかに自分が環境に恵まれているか、もっと思慮を重ねるべきだと思った。
「いいじゃん、うまいうまい」
風を切るように滑る二人の前では、励ましの言葉を素直に喜ぶことはできなかった。また、いつもの微笑を浮かべた。
「それにしても、ナツキちゃん、すごく上手いね。本当に初心者なの?」
「昔っから、身体動かすことだけは、得意だったから」
「センスあるよ、すごいすごい」
「あはは、ありがと」
なっちゃんのユウキへの熱視線に気を取られていると、ぐらりと視界が揺れた。青が消え、白に染まった。とっさに閉ざした瞼がそれを黒へ塗りつぶし、きゅっと顔が凍った。ぎゅむむとめり込んでゆく身体を起こし、顔を上げると、なっちゃんとユウキが心配したようにこちらを覗いていた。
「ハデにころんだねぇ。大丈夫?」
伸ばされた、ユウキの手。それがなんだか、とってもおかしいことのように思い、ふつふつと腹の底から湧く滑稽な陽気が胸をくすぐり、鼻の奥まで昇ったかと思うと、目尻や頬、くちびるにびゅんと広がり、ついには大口をあけて快活な声をあげて笑ってしまった。ぽかんとするユウキの隣で、なっちゃんが呆れたように嘆息した。
「こういう、変なところがツボなのよ、マホは」
「ああ、そう」
こうやって、笑う姿を呆れられる自分がまたおかしくて、ひいひいと言いながら起きあがり、閉じた口から洩れでる忍び笑いを、なんとかごわごわの手袋で隠そうとするが、くちびるに触れたそれがとんでもなく冷たくて、ひゃっと声をあげてしまったのがまたまたおかしくて、とめどない笑いの衝動を止めるタガはどこかにふっ飛んで、腹筋と声帯をこれでもかというくらい駆使して、私は笑った。
「マホ、マホ! まったく、あんだけハデにころんで、心配かけて爆笑するって、どういう了見よ」
「ごめん、ごめんって」
「まあ、無事でよかったよ、ね」
「本当に、もう」
呆れるなっちゃんが、またツボなのだ。
「あっ、また!」
結局、笑い疲れて滑る体力をなくした私は、スキー板を外し、とぼとぼと歩いて降りた。なっちゃんとユウキも、同じようにしてくれた。ずっと不安定な板の上にいたものだから、こうやって地に足をしっかりつけられるようになると、いつもどおりのはずなのに、いたく感動してしまう。
斜面をくだりきり、休憩所に入った。ぶ厚い防寒着でかさばる人間がわらわらと群れをなし、寒々しかった野外のほうが幾分かましだと思うくらいに、むんとした独特のなまぬるい熱気が満ちていた。とはいえ、朝食以降なにも口にしていない私たちははらぺこで、がさがさがちゃがちゃと動くたびに鬱陶しい雑音を撒きながら、同じように昼食にありつこうとする人の列へ並んだ。数十分後、注文したものを受けとり、ごった返す室内を見渡すと、窓際の一席に座ったユウキが大きく手を振った。よく見ると、隣にもう一人、男がいた。
「いやあ、おつかれ。混んでるね、この時間は」
湯気のたつどんぶりの乗ったトレイを木のテーブルにごとりと置いて、座った。ユウキの隣で、男が黙りこんでいる。こちらは、男前と呼ぶには良心が痛む顔立ちだった。
「あっ、さっきの」
同じようにトレイを置いたなっちゃんが、だんまりのもう一人の男を指さした。
「ヒデ、お前の話でずっともちきりだったんだぞ」
目を流すユウキへ、ヒデはその気難しそうな眉間のしわをさらに深めた。
「どうせ、バカにしてたんだろう」
「バカになんてしてないさ。面白がっていただけで」
「それを、バカにしているというんだ」
湯気のたたないコーヒーをすすり、ヒデは嘆息した。私はなっちゃんと顔を見合わせる。
「それで、この女の子たちは、だれ」
「おいおい」
「ちょっと、雪に埋もれたあなたを助けた恩人の顔をもう忘れたの?」
この笑顔のなっちゃんは、内心思うことがあるのだ。
「ああ、どうも」
ぶっきらぼう。
「すまんね。こいつ、へそ曲がりでさ」
ユウキはどこかへらへらとしていた。
「ヒデ、この子、マホちゃん。ナツキちゃんの友達」
肩を叩かれたヒデが、私を一瞥した。とっさに微笑を浮かべた。
「マホです。よろしく」
「ああ、どうも」
軽く頭を下げて、すぐにそっぽを向いた。
「なんだよ、それだけか? こんな美人、なかなかいないぜ」
「そんなに変わらんだろ、二人とも」
ぴしっと、何かが軋む音がした。
「マホ、めずらしく、怖い顔しないの」
なっちゃんの指摘で、自分の顔から微笑が消えていたことに気がついた。
「一緒なんてもんじゃないよ。私なんかより、マホのほうがすごい美人だもん」
なっちゃんはすこし嬉しそうだ。
「そんなこと、ないよ」
やんわりといつものように、否定できているのか、わからない。
「いやいや、ナツキちゃんも十分イケてるって。ね、本当に」
ユウキの発言は最善だと思った。ヒデの言うことを肯定してしまえば、どことなく私に失礼にあたるし、否定してしまえば、今度はなっちゃんに失礼だからだ。
「ささ、なんにせよ、さっさと飯食っちまおうぜ。べらべら喋ってたら、冷めちまう」
ユウキが皆を食事にいざなう。ぬるくなったきつねうどんをすすった。不味くも美味くもなかった。
「二人は、出身はどこらへん?」
「私は愛知、マホは大阪」
「へえ、全然ちがうんだ。なんの繋がりで?」
「大学の飲みサークル。まあ、私もマホも、あんまり肌が合わなくて、もうめっきり行ってないんだけどね」
食べながら会話を繰り広げるなっちゃんとユウキの隣で、私とヒデはひたすら黙りこんでいた。ちらっと、ヒデを見た。やっぱり、男前じゃない。たぶん、中の下くらいだ。この男が私となっちゃんを同じものだと扱うのか、不思議だった。
すするうどんは無味無臭で、喉ごしを感じるまもなく食べ終わってしまった。どんぶりのつゆに映る、自分の顔をのぞいてみた。いつもの私だった。顔を上げると、ヒデは目を伏せた。
「あの」
こちらから、声をかけてやった。
「ヒデさんって、どういう人がタイプなんですか」
すると、ヒデは目を丸くしたあと、突然困ったようにううんううんと唸りだした。
「好きになった人」
ぽつりと呟いて、またそっぽを向いた。なんなんだ、この男は。全然かっこよくもないのに、話も下手で、こちらからの質問への返答もまるで面白くない。
「お友達とは」
今度は、ヒデから口を開いた。
「はい」
「お友達とは、長いんですか」
「え、まあ、二年くらい」
「そうですか」
再び、そっぽを向きやがった。
「あの」
「はい」
「なんか、こう、話を盛り上げようとか、そういうのって、ないんですか」
「盛り上がってるじゃないですか、隣」
「私と、あなたの話です」
「盛り上がってほしいんですか」
「そりゃ、まあ」
「じゃあ、盛り上げてくださいよ」
「えっ」
「盛り上げたいんでしょう? それじゃ、どうぞ」
だめだこいつ。
「なっちゃん、なっちゃん」
「あっ、そろそろ滑る?」
「おっ、いいね。マホちゃんも、やる気になった?」
「いや、そうじゃなくて」
「えっ、そうじゃないの?」
「いやっ、そうじゃないわけでもないんだけど」
「じゃあ、滑ろうよ」
「ヒデもこいよ。ずっとここにいたって、つまんねえだろ」
「わかった」
なぜ、この男がここで頷いたのかわからない。
「よし、それじゃ、後半戦いくぞっ」
意気揚々と出ていくなっちゃんとユウキ。その後ろで、ヒデがこちらへ振り向くと、私を手招いた。
「行こう」
うるさい。
ヒデがスキーを得意としていたことで、私の意欲は消え失せた。ハデにすっころび、なっちゃんに助けてもらったと聞いていたので、てっきり滑れないのかと思っていたが、教えられた通りにのろのろと滑っていた私の隣を、なっちゃんとユウキと同等のスピードで通り過ぎ、みるみる小さくなってゆくその背中を眺めていると、なにかがぽきっと折れる音がした。
「ちょっと、マホ。一緒に滑るって言ってたじゃない」
なっちゃんが戻ってきた。
「やっぱり、一朝一夕じゃ、むずかしいのよ、こういうの」
小さな雪玉を作る。
「マホちゃん、一緒に滑ろうよ。ゆっくり行くからさ」
「いいよ、なんか、私に合わせてもらうの、みんなに悪いし。滑ってきなよ。これ、結構楽しんでるんだよ、私」
それを、もう一つの雪玉の上に乗せた。手も口もない、小さな雪だるま。無表情で、無機質で、それでいて傲慢に見えた。
「あれ、ヒデくんは?」
「トイレ。先に行ってようぜ」
「そっか。マホ、気が向いたら、あんたも滑ってきなさいよ」
そうは言うものの、ユウキと二人きりで滑走するなっちゃんは、嬉しそうだった。ゲレンデマジックが起きることを願い、私は無心で雪だるまを作った。
「それ、本当に楽しいんですか」
振り返ると、ヒデがいた。
「楽しいですよ、もちろん」
「そうですか」
ヒデがスキー板を外しはじめた。
「僕も作ろうっと」
「えっ、いいですよ。私になんか構わずに、どうぞ滑ってきてください」
「僕が作りたいから、作るんです」
しゃがみ込み、私の隣を完全に陣取ってしまった。
「なんで、みんな同じなんですか、それ」
「えっ、同じに見えます?」
「あなたには見えないんですか、同じに」
「そりゃ、私が作ったものですし」
「そうですか」
ざっくりと雑に削られた雪の塊は、私よりすこし大きめの手袋の中でするすると撫ぜられると、銀の粉塵を散漫させながら、玉へと姿を変えてゆく。その妙に玄人めいた手つきと、沈黙の元で没頭する真剣な表情から、なぜか私は目を離すことができなかった。
「あの」
ヒデが手を止めた。そこには一切の凹凸のない、滑らかな曲線の美しい、純白の宝玉があった。いつのまにやら紅く灯った空のむこうで、爛々とその煌めきを広げた斜陽が、宝玉を燃えるような金色へと染めあげた。
「あの」
「えっ、はい」
「頭、ありますか」
「頭?」
「雪だるまの、頭ですよ」
「それ、身体?」
「もちろん」
手元に転がっていた、無骨な雪の玉。私が途中から完成させることをすっかりと忘れ、中途半端なままのそれを手にとると、ヒデは宝玉の上にとんと乗せた。絹のような身体に、無骨な頭の雪だるまが誕生した。
「なんか、バランス悪いね」
「いいんですよ、これで」
「なんで」
「季節が巡れば、どうせ全て溶けてなくなってしまうんです」
ヒデが立ちあがった。膝がぱきっと鳴った。
「一時的にでも、雪だるまであった、という事実が、大切なのだと思います」
ふりむき微笑むヒデの顔は、やっぱりかっこよくはなかった。
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冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
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