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じぶん殺し
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少し期待して、横切る電車につっこんでいくと、視界が落ちた。そのまま高架を抜けた。もう線路はもぬけのからだった。
秋の冷たい風が、ヘルメットを切りつけた。べたつくハンドルを右手で捻ると、軽いエンジン音が耳をつんざいたが、迫る高級車のテールライトを見て、すぐにその勢いを殺した。右に振れたスピードメーターの針が、緩やかに戻ってゆく。
曇ったヘルメットに上司の顔が浮かんだ。ため息が視界を白く塗りつぶすが、その憮然の色を隠せるはずもなかった。
信号機が青になった。アクセルを捻ったその時、灰暗色のなにかが目の前を横切った。どんっ、と鳴った。ハンドルから伝わる衝撃が、バイクの体勢を崩しにかかる。そのまま大きく横滑りすると、ガードレールに激突した。突然の痛みに困惑する体をなんとか起こし、顔を上げると、灰色のダウンジャケットが道路に横たわっていた。あわてて駆けよると、ぼろぼろの野球帽の下で、髭づらの男が黄色い歯を剥き出しにして、にやりと笑っていた。
「よお」
「だ、大丈夫ですか」
「大丈夫なもんかよ。身体中痛くてたまらねえ」
「すぐに救急車を」
スマートフォン持つ僕の手を、男が握った。
「そいつはいけねえ」
嘘のように俊敏な動きで立ち上がった男は、集まってきた野次馬に吼えると僕の手を引いた。
「逃げるぞ」
その瞬間、なぜだか、僕は生きる権利を得た気がした。
入り組んだ路地をするりと抜け、今にも崩れ落ちそうなビルの裏口の戸を蹴破ると、妙に小綺麗な空間が目の前に広がった。皮のソファーに大きなプラズマテレビ、煌びやかなシャンデリアと、男の風貌とは結びつきもしない品々が埃っぽい室内を埋め尽くしていた。槇村と名乗った男は、檜皮色のテーブルに乗った灰皿のシケモクを咥えると、懐からマッチを取り出して火をつけた。
「お前さん、さっきまで死にたいと思っていただろう」
吐き出した白煙の向こうで笑う槇村に、僕ははっとした。
「なぜ、わかった」
「わかるもんは、わかるんだよ。俺はうぬぼれや、だからな」
「うぬぼれや?」
「自惚れ屋。俺の稼業だよ」
自惚れているやつの、真の願いを叶える。それが自惚れ屋だと、槇村は語った。
「それじゃあ、俺は死にたいと願っていたのに、死んじゃいないじゃないか。願いは叶っていない」
「お前の自惚れは、そこだ」
元よりいくらか短くなったシケモクを灰皿に押し付けながら、大きなため息をついた。気づくと、部屋中煙で真っ白だった。
「お前は死にたいと、本当は思っちゃいない。ただ、逃げたかっただけだ。逃げりゃ済むものを、死にたいなんて、たいそうなことまで、自惚れたんだ」
言葉がぐさっと、胸に刺さったような気がした。槇村を撥ねて、救急車を呼ぶのを止められ、逃げ去ったあの時、もう世間には戻れないであろうことは、なんとなくわかっていたのに、死にたいなんていう自惚れは霧散して、ああ、生きていられるんだとさえ感じたのだ。見透かされている。そう思った。
「お前が、なんのきっかけで自惚れたのかは知らねえし、わからねえ。俺は、そいつが自惚れているかどうか、この一点しかわからねえ」
「なら、どうして俺が真に望んでいるのは、逃げたいことだとわかった」
「それは、考えたんだ。お前の服装、表情や言葉、声のトーンから細かい仕草までを観察して、推理しただけだ」
自分のこめかみを小突く槇村。
「まあ、こんなもん、俺じゃなくても、誰でもわかることだけどな」
立ち上がると、眼前に迫った。体臭で、鼻が曲がりそうだった。目脂だらけの狐のような目を覗き返すと、ずいぶんと漆黒だった。
「さて、お前の願いは叶えたわけだ。お代をいただかなきゃいけねえ」
槇村の剣幕に気圧されていた僕は、なぜかしゃんとした。
「そうは言っても、俺は金なんてないぞ。ひき逃げの現行犯で、会社はおそらくクビだ。通帳もハンコも、みんな妻に預けてある。でも、もう戻れない」
「戻りたくないだけだろう」
まだ自惚れてやがるな、と槇村は吐き捨て、座る僕の胸あたりを踏みつけた。肺から空気が、とめどなく漏れ出していく。
「戻ろうと思えば戻れるんだ。やろうと思えばやれる。人生ってのは、そういうもんだ」
肋骨がみしみしと悲鳴をあげた。
「戻れないんじゃなくて、戻りたくない。そんなこと、自分ではよおくわかっているはずなのに、この自惚れ屋の俺の前で、まだまだ自惚れ続けてやがる」
にたっと笑った。懐から拳銃を取った。
「掛け値なしの自惚れ屋だ」
銃口が額に当たった。
「お代は命で、勘弁してやる」
銃声を聞く前に、僕の意識は途絶えた。
秋の冷たい風が、ヘルメットを切りつけた。べたつくハンドルを右手で捻ると、軽いエンジン音が耳をつんざいたが、迫る高級車のテールライトを見て、すぐにその勢いを殺した。右に振れたスピードメーターの針が、緩やかに戻ってゆく。
曇ったヘルメットに上司の顔が浮かんだ。ため息が視界を白く塗りつぶすが、その憮然の色を隠せるはずもなかった。
信号機が青になった。アクセルを捻ったその時、灰暗色のなにかが目の前を横切った。どんっ、と鳴った。ハンドルから伝わる衝撃が、バイクの体勢を崩しにかかる。そのまま大きく横滑りすると、ガードレールに激突した。突然の痛みに困惑する体をなんとか起こし、顔を上げると、灰色のダウンジャケットが道路に横たわっていた。あわてて駆けよると、ぼろぼろの野球帽の下で、髭づらの男が黄色い歯を剥き出しにして、にやりと笑っていた。
「よお」
「だ、大丈夫ですか」
「大丈夫なもんかよ。身体中痛くてたまらねえ」
「すぐに救急車を」
スマートフォン持つ僕の手を、男が握った。
「そいつはいけねえ」
嘘のように俊敏な動きで立ち上がった男は、集まってきた野次馬に吼えると僕の手を引いた。
「逃げるぞ」
その瞬間、なぜだか、僕は生きる権利を得た気がした。
入り組んだ路地をするりと抜け、今にも崩れ落ちそうなビルの裏口の戸を蹴破ると、妙に小綺麗な空間が目の前に広がった。皮のソファーに大きなプラズマテレビ、煌びやかなシャンデリアと、男の風貌とは結びつきもしない品々が埃っぽい室内を埋め尽くしていた。槇村と名乗った男は、檜皮色のテーブルに乗った灰皿のシケモクを咥えると、懐からマッチを取り出して火をつけた。
「お前さん、さっきまで死にたいと思っていただろう」
吐き出した白煙の向こうで笑う槇村に、僕ははっとした。
「なぜ、わかった」
「わかるもんは、わかるんだよ。俺はうぬぼれや、だからな」
「うぬぼれや?」
「自惚れ屋。俺の稼業だよ」
自惚れているやつの、真の願いを叶える。それが自惚れ屋だと、槇村は語った。
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「お前の自惚れは、そこだ」
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「お前は死にたいと、本当は思っちゃいない。ただ、逃げたかっただけだ。逃げりゃ済むものを、死にたいなんて、たいそうなことまで、自惚れたんだ」
言葉がぐさっと、胸に刺さったような気がした。槇村を撥ねて、救急車を呼ぶのを止められ、逃げ去ったあの時、もう世間には戻れないであろうことは、なんとなくわかっていたのに、死にたいなんていう自惚れは霧散して、ああ、生きていられるんだとさえ感じたのだ。見透かされている。そう思った。
「お前が、なんのきっかけで自惚れたのかは知らねえし、わからねえ。俺は、そいつが自惚れているかどうか、この一点しかわからねえ」
「なら、どうして俺が真に望んでいるのは、逃げたいことだとわかった」
「それは、考えたんだ。お前の服装、表情や言葉、声のトーンから細かい仕草までを観察して、推理しただけだ」
自分のこめかみを小突く槇村。
「まあ、こんなもん、俺じゃなくても、誰でもわかることだけどな」
立ち上がると、眼前に迫った。体臭で、鼻が曲がりそうだった。目脂だらけの狐のような目を覗き返すと、ずいぶんと漆黒だった。
「さて、お前の願いは叶えたわけだ。お代をいただかなきゃいけねえ」
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「そうは言っても、俺は金なんてないぞ。ひき逃げの現行犯で、会社はおそらくクビだ。通帳もハンコも、みんな妻に預けてある。でも、もう戻れない」
「戻りたくないだけだろう」
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