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3.踏み出せない、栗原蒼太を縛るもの

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 蒼太はパソコンの前でため息をついた。

 仕事は終わったのに、家に戻らずオフィスでまだグダグダしていたのには理由がある。
 モニタ上には、CADで書かれた自宅の間取り図面。
 設計部門の同期に、自分で書いた自宅の図面を見せて相談してみた。
 古い風呂場をリフォームしたいのだ、と。

 浴槽が広いタイプのユニットバスを入れるには、現状の脱衣所を含めてスペースを拡張する必要があった。そして、風呂場を拡張するとトイレやキッチンの間取りにも影響が及ぶ。

『いっそ建て替えか、建物全体のフルリフォームのほうが早くね?』

 自宅の築年数を聞いた同期が思わずこぼした冗談に、蒼太も苦笑いしか出なかった。
 ただ、前面の道路幅を考えると建て替えは現実的ではない。建築基準の関係でただでさえ狭小な土地に今より小さな家しか建てられなくなってしまうからだ。

「どうせ間取りから変えるなら、いっそ建物全体をリノベーションして、キッチンも広くしたいよな……。和室と廊下を抜いて、フローリングのリビングにして――」

 そう、できるできないは別にして。
 そうやって、あれこれ考え始めるとだんだん楽しくなってくる。

 男二人が並んで料理をするには、今の台所はなんといっても狭い。
 篠崎が指摘していたとおり、古い流しは小柄な女性を想定した高さしかない。当然、蒼太の身長に合わず、腰をかがめて洗い物を続けるのは、なかなかの苦行だった。
 蒼太ほどではないにしろ、篠崎も男性としては平均的より背が高い。
 並んで料理をするにも、すれ違うのもひと苦労だった。

(アイランドキッチンにして、向かいにカウンターがあったら対面で話しながら料理が楽しめるよな……コンロは二口から三口に増やして――あ、そういえばグラタンが作りたいからオーブンが欲しいって言ってたっけ……)

 危ない急な階段も、しょっちゅう頭をぶつける鴨居も、圧迫感のある低い天井も全部なんとかしたい。熱効率の悪くて薄い壁も、狭いベッドしか入れられない狭い部屋も。そうだ、もっと住みやすいように、先輩がいごこちのいいように――

 そこまで考えて、住設機器メーカーのサイトをめぐる手がとまる。

(喜んで、くれるだろうか)

 公一さんのためならなんでもしたい。リフォームだろうが、リノベーションだろうがそこにためらいはない。
 でも、それは本当にあの人のためか?
 蒼太には、結局すべてが自分のエゴのようにしか思えてならなかった。


「まずこれが、ガス給湯器だけやり替える場合の見積もり。こっちがユニットバスにリフォームした場合。ただ、今の風呂場のサイズ的に風呂とトイレ一体型のユニットになりそうなんだよなー。んで、こっちがエコ給湯器にした場合の施工費、エコついでにオール電化にした場合と、水回りのフルリフォームした場合の超豪華リノベ費用の見積もりも、ざっくり計算してみた!」

 どうだ! とあらゆるパンフレットと施工事例をずらりと並べた篠崎がちゃぶ台の前でドヤ顔をしている。
 あっけにとられている蒼太を置き去りに、あれよあれよとプレゼンが始まり、さくさくとあらゆるパターンのメリットとデメリットを提示される。

 その手際があまりに良すぎて蒼太は今、目を白黒させながら、「さすが先輩だなあ」なんて明後日の感想を抱いていた。

「午後休とって、顔なじみの職人さんに来てもらったんだ。風呂場だけじゃなくて、修理したほうが良さそうなところも結構あるしな。屋根や外壁なんかのメンテナンスは、家を長持ちさせるためにも定期的に入れたほうがいいのは確かだし」

 篠崎の言い分はもっともだ。
 外壁は20年に一度塗装しなおした方がいい。営業で蒼太も顧客相手に言ったことがある。だが、この家でそんな外壁工事をしたことは一度もない。
 劣化が進む外壁は、大きな低気圧が近づいてきたら、ヒビの入った部分から水が染み込む。いつかの台風のときには雨漏りした。あの時、祖父が屋根に上ってなにかしていたが、本当なら応急処置で終わらせず、業者に頼んで屋根の葺き替えをきちんとするべきだっただろう。

 そう、壊れた風呂場だけの話ではない、
 このままこの家に住み続けるつもりなら、時期的にも今が大幅に手を入れるべき時だった。

「……水回りのリフォームする気があるなら、俺も金を出す。出させてほしい。っていっても……家主は栗原だしな」

 元気にプレゼンしていた篠崎の声のトーンが少し下がる。
 上目に蒼太の様子を伺い、どこか言いづらそうにしている様子にジワリと焦りが湧いた。

「家族との思い出もあるだろうし、慣れ親しんだ家の中をいろいろ……変にいじりたくないっていう気持ちは、あってもおかしくないし」

 昨日から、微妙に蒼太の歯切れが悪いのを、篠崎はそんな風に解釈しているらしい。

「おじいさんを看取ってまだ一年くらいだもんな? そんなにすぐには思い切れないだろ」

 違う。
 家のことはどうでもいい。この家のことなんか――
 胸がつかえる。意識しないまま、蒼太の眉間に深いしわが寄る。

「すみません。ちょっと……考えさせてください」

 絞り出すようになんとか吐き出した一言に、篠崎の顔が強張ったのが分かった。
 きっと勘違いさせた。
 だが、蒼太はそれ以上どう言っていいかわからず、逃げるようにその場から立ち上がった。


 二階の自室に逃げ込んで、ストンと引き戸を閉じる。
 蒼太はその引き戸に背を預けたまま、ズルズルとその場にうずくまった。

 広い風呂場に使い勝手のいいキッチン。お金を出しあって、この家をリノベーションして、先輩と、公一さんとこの先もずっと一緒に住む。
 想像するだけで、目がくらむほどの幸せな夢だ。
 自分も金を出す、そう改めて言い切ったということは篠崎自身もそれを望んでいるということ。

 一緒に暮らそう、これからも。

 言外にそう望まれて、蒼太の足は竦んだ。
 いいのだろうか、そんなことを自分が望んでも。
 本当に自分なんかで、いいのか?

 篠崎公一という人は幸せな人だ。

 それが、栗原蒼太が初対面で彼に抱いた印象だった。
 普通の家庭で育ち、苦労を知らない人。日向を生きて、自分が恵まれていることにも気が付かない。
 困っている人に手を貸せるのは、それだけ心の余裕がなければできないことだ。

『不倫したあげくに子供ができた、なんて言って勝手に出ていったのに、あのバカ娘。子供だけ残して死んだなんて。またご近所に知れたら、どんなことを言われるか』
『それでも家で引き取るしかない。仕方ないだろう。施設に預けたなんて知れたらそれこそ外聞が悪いんだ』

 初めて会った、唯一の肉親というふたりが火葬場の隅でそんな話をしていた。
 偶然耳にしてしまった、そんな祖父母の言葉が今でも蒼太を縛っていた。
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