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その6(最終回)

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 6年前 シェオル某所

 汚い川の水面が、地平線に沈む夕日をギラギラと照り返すのが、毎日煩わしくて仕方なかった。
 罵声を吐き出してばかりの口内からはいつも血の味がして、殴りダコが膿みかかっていて、靴底は半分なくなっていた。気が遠くなるまで殴られ続けたこともあったし、そうされたなら後でその3倍は殴り返した。今にして思えば、よく誰のことも殺さなかったものだ。
 あの時、年は12だった。相手の言い分は『目つきが気持ち悪い』とかなんとか。3人ぐるみでかかってきた相手を全員のした、そんな日の川べりだった。
「ねえ! 君、サキュバスだよね!?」
 土手の上からこちらを見下ろす一人の少年が、自分にそう叫んだ。最初は夕日の逆光でよく見えなかったが、それでも煌めく銀髪や、わずかに透けた布だけで、相当上流階級の悪魔なのだと分かった。
「誰、お前」
「ぼっ、ぼくは、■■■っていうんだ! 前にもっ、ここで君を見かけて、サキュバスなんじゃないかって……そうだよね!?」
「……」
 吃音気味の甲高い声に眉をひそめる。
 風がざあっと足元の草原を揺らして、その隙に、足元に転がっていた喧嘩相手たちが逃げ出した。あっ、と声を上げて振り返るが、尻尾を巻いて逃げた負犬どもを追う気にもならず舌打ちをする。勝敗はとっくに決していたが、憂さ晴らしには殴り足らなかった。
「くそ、逃した」
 ため息を吐けば、銀髪の少年がよたよたと土手を下って、こちらに近付いてくる。
「ねえ、大丈夫? 怪我してるよ、血が」
 おぼっちゃまらしい覇気のない言葉が、神経を逆撫でした。おずおずと伸ばされた腕が届くより先に、彼の言葉を遮って口を開く。
「俺がサキュバスだったらなんだ。でけぇ声でキャンキャン喚きやがって、じゃあお前は相当綺麗で上等で、立派な悪魔なんだろうな? 当然俺よりも強いんだよな? 見せてみろよ」
 顔の横で拳を構えたら、彼は驚いた様子で後ずさった。
「ちが、違うよ! 僕はそんなことが言いたいんじゃあない。その……っ、あ、ぼくっ、ぼくは」
 俯いてどもった顔は真っ赤で、そのまま窒息死でもするんじゃないかと思ったほどだ。彼は自身の胸に手を当てて深呼吸をして、ゆっくり、だがハッキリと、そう言った。
「ぼ、くも、サキュバスなんだ」
「……へぇ」
 どうやら嘘ではない、と分かったのは、きっと魔族としての本能だ。他にそれらしい素養が感じられなかったとか、蚊も殺せなさそうなお坊ちゃんが嘘を吐くとは思えなかったとか、後からならそれらしい理由は言える。だがこの時は妙に大人しく、彼の言葉がストンと腹に落ちたのだった。
「あ、あんまり男のサキュバスっていないだろ? いや、いるはずだけど、誰も自分から名乗り出たりしないし、みんな必死に隠してる。だからずっと、君と、話したいって思ってて」
 彼が一歩、二歩、こちらに歩み寄る。いつの間にか、自分の拳は下ろされていた。少年の瞳に夕日の入りこんで、艶やかな紫に光る。
「僕はね、もっと僕らみたいな、男のサキュバスが世の中で活躍できたらって、思ってるんだ……」
「は?」
 思わず、その言葉を鼻で笑う。神妙な面持ちで何を言い出すのかと思えば、まるで政治家の定型文みたいな台詞じゃあないか。だが彼はそれがスイッチだったみたいに、堰を切って喋り始めた。
「だっ、だって、おかしいだろ!? 僕たちだってもっと、女性のサキュバスみたいに、平等でいいはずだ。男だからってなんだ、サキュバスだからってなんだ。僕たちだって一人の魔族で、こんな、差別を受ける世の中は間違ってる!」
「……」
 真っ白な肌を赤らめて、鼻息荒く捲し立てられた言葉を、どうしてか自分はそれ以上せせら笑うことは出来なかった。
 男女平等、種族平等、差別反対……そんな言葉が叫ばれて久しい。けれども、川辺の喧嘩は止まない。「気色悪い」だの「犯罪者」だの、挙句「母親のアソコから精気を吸って育ったのか?」だの……それを言った輩は全裸で許しを乞うまで川に沈めてやったものだが……それに怒るのだっておかしな話だ。自分は母親の顔さえ知らないというのに。
 ただ自分はこの苛立ちを、拳に乗せ相手に叩きつけることしか知らなかった。何を言われても思われても、それを『間違ってる』だなんて断ずる選択肢の存在を、この時彼に教えてもらうまで、自分は知らなかったのだった。


   ×       ×


 現在 神崎邸 廊下

 扉を叩けば、ゴンゴン、と重厚な音が響いた。この音だけで、この扉の値段が推し量れそうだ。少なくとも、ベニヤで作った安扉じゃあこんな音はしない。
 ノックに返事はなかった。だがグレンは、鍵のかかっていないその扉を無遠慮に押し開けた。
「よう、調子どうだ」
 カーテンの閉まった薄暗い部屋で、もそりとベッドが動く。
「……まあまあ」
 おもむろにベッドから顔を上げたニコラは、気怠げにそう言った。ベッドから扉まで数メートルの距離があるが、それでも彼の呼吸が荒く、熱に浮かされた瞳が潤んでいることがよく分かる。
「まあまあって面じゃあねえんだよなあ。そんな状態でわざわざアイツにちょっかいなんかかけに行って、貧弱キャパのくせに無茶やってんじゃねえよ」
「は? 余計なお世話……おい、おい待てお前、何しに来た?」
 部屋の中へ入ったら、ニコラが警戒した様子で身構えた。随分と呑気な反応だ。彼は一応立ち上がろうとしたらしいが、浮きかけた身体をベッドの中に押し戻すには十分過ぎるほどの速度と、力の差があった。
「何ってナニしに来たんだろ。抜かなきゃ治らねぇだろうが。ちょっと寄越せ」
 言いながらニコラのズボンを引き下ろす。予想と違わずしっかりと勃ち上がった彼の中心を掴んだら、ニコラは悲鳴をあげて暴れ出した。
「はぁあ!? ざっけんな、やらねえって……! 俺が貰ったんだぞ、こらっ!」
「悔しかったら筋肉つけろ、ガキ」
「俺のが、っとしうえ、だ、っての……! あぅ……っ」
 舌がそこに触れた瞬間、離乳したての子猫みたいな声が空気を揺らす。随分可愛い鳴き声で、なんてからかってやろうかとも思ったが、やめておいた。視線を上げればニコラはこんな暗い部屋でもハッキリわかるほど、その顔を真っ赤に染めていたからだ。
「ああぁ、あ、っばか、やめろ、ってえぇ…!」
 少しそこを吸い上げてやるだけで、ニコラは大袈裟に身体をよじった。必死に足を閉じ、髪の毛を握り込んで頭を引き剥がそうとするが、それきしじゃあ自分の身体はびくともしない。
 空いた右手は後ろの穴に突っ込んだ。緩やかに内臓を揺らすと、甘ったるい声をあげてニコラの身体が反り返る。
「ひゃあぁあ……っ! っあぁ、う、んうぅ、くっそ、ぉまえ、上手すぎ……ぃあ、あっ、は、はああぁ」
 ぷるぷると震える身体が達するのはすぐだった。
口の中に広がった精は花のものに比べれば劣るが、悪くはない。これだけのものを体内に溜めておくのは辛かろうに、なかなかどうして、彼も意固地なものである。
 一滴たりとも溢さぬよう飲み込んで、ペロリと唇を舐めた。ニコラは俯いて肩で息をしていて、まるで性感慣れしていない童貞みたいな反応だな、なんて思う。
「ごち~」
「くっそ、熱上がるわ……出てけ、このやろ……」
「あ? よく聞こえねぇなあ、もう一回してくれって?」
「言ってない言ってない! お前いい加減にしろよ!?」
 再びその身体を押し倒そうとしたら、顔に勢いよく羽毛の枕が飛んできた。大きくて柔らかくて、痛くも痒くもなかった。
「はいはい、退散するよ。言っとくが、明日熱が下がってなかったらまた来るからな」
「二度と来るな!」
 話しながら部屋を出たら、閉じた扉に再び枕が飛んでくる。その音を尻目に、自分は廊下を歩き出した。
 廊下には、窓から夕日が差し込んでいた。歩き出すと自動で天井灯が灯っていくが、廊下の奥は薄暗く沈み、斜陽が赤く浮かび上がっている。
 それを見て自分は踵を返した。自室へ行くにはいささか遠回りになるが、構わない。どうせ時間など有り余っているのだ。
 歩き出すとすぐに、階段を登ってきた花が視界に入る。恐らくは彼女もニコラの様子を見にきたのだろう。
「おや、ニコのお見舞い?」
「おう。まだぼけーっとした顔してたから一発抜いてやった」
「そっか、ありがとう。お腹は膨れたかな」
「いや……」
 少し返答に迷ってから、花を廊下の壁に追い詰める。壁に腕を付いたら、じゃらりと首の鎖が音を立てた。花の大きな瞳に、自分の姿が映り込んでいた。
「……足りない。まだ」
 そう言って目の前の唇に自身の唇を重ねようとする。だがそれ同士がくっつくより先に、花はピシャリと言った。
「わかった、じゃあ一緒に新入りくんの様子を見に行こう」
「……は?」
「ほら、いくよ」
 花がするりと腕の間から抜け出して、手首を引っぱる。
「おい、ふざけんなって。俺はもうアイツと話すことなんか」
「会うまでご飯はあげませーん」
「……くそ、なに考えてる」
「さあて」
 花の真っ黒な目が細められる。
 廊下を歩きながら、彼女ははただクツクツと、悪魔のように笑っただけだった。


   ×       ×


 ガチャリ、と空いた扉から、3番目のサキュバスは静かに目を逸らした。
 現れたのは見飽きた女と、友人だと信じていた男だ。これ見よがしに首輪と鎖を揺らし、二人揃って現れた。
 ベッドから身体を起こすこともせず、ごろりと転がって二人に背を向ける。女も、グレンも、扉の前からこちらに近寄ってはこない。
「こんにちは」
 女が口を開いた。返答の言葉などあるはずもなかった。
「ご機嫌斜めかな。グレンとお友達なんでしょ? 仲良くしなよ」
「……」
 喋るのは女だけだ。自分はもちろん、グレンも一言も発さない。
 一体何をしにきたのだろうか。また自分を犯しにでもやってきたのか。だがもう、怒りさえも湧いてこない。何をされたとて、自分はただじっと耐えるだけだ。
 重い沈黙で満たされていく部屋から、最初に逃げ出したのはグレンだった。彼はくるりと踵を返し、部屋から出て行こうとした。女がその腕を掴んで引き止めた。
「こーら、どこいくの。まだ終わってないよ」
「……終わっただろ」
「終わってない」
 含みのある言い方が気になって、そっと身体を捻る。だから見えたのだ。女が何か、グレンに耳打ちする姿が。
 内容は聞き取れなかった。だがそれを言われたグレンは、驚きとも、困惑とも、嫌悪ともつかぬような顔をして、それから確かに……『愉悦』の表情を滲ませた。
 そこからは本当に、最悪だった。これから続く人生全ての嫌悪と憎しみをかき集めたとて、この日抱いた感情には及ぶまい。
 グレンの巨躯が、厳かに女の前に跪く。女はただそんなグレンを見下ろしていて、グレンは女の黒くて長いワンピースをたくし上げた。さながら新婦の顔にかかったヴェールを持ち上げるみたいだった。とはいえそこから顔を表したのは、清廉な花嫁には程遠い、血管を浮かせていきりたつ女の劣情であったのだが。
「…………は?」
 口から間抜けな声が出る。グレンは丁寧に布をかき分けて、女の中心に口付けた。そしてそのまま、それを口の中へと押し込んでいく。
「ん、ゔ……っ」
 大きなそれはグレンの口の中にさえ到底収まりきらなくて、グレンは苦しそうにえづきながら、そこを吸った。ぢゅる、ぢゅるぢゅるり、ちゅぽ、ちゅぱ、下品な音が響き出す。
「おい……グレン、何を……!」
 二人とも、こちらには目もくれなかった。聞こえるのはただ水っぽい愛撫の音と、熱を孕んだ女の吐息だけだ。
 グレンは何度も頭を往復させては、口を開け、長くて真っ赤な舌で女の陰茎を舐め上げた。何度も、何度も、手を替え品を替え繰り返される愛撫はひどく妖艶で、吐き気がするほど献身的だった。
「なんだ、くそっ……おい、ふざけるな! なんなんだこれは!」
 嫌悪に任せて叫んだが、状況は何も変わらない。
「グレン! 何のつもりだ! どうして……っ! 僕に何の恨みがある! グレン!!」
 グレンはついぞ、こちらに視線さえ寄越さなかった。
 俯く女の横顔は髪に隠れて見えなかったが、それでも、彼女がふるりと震えたのは分かった。細くて長い、白魚のような手が、グレンの頬に添えられる。
「出すよー……」
 その声を聞いたグレンは一層深く、彼女のそれを飲み込んだ。見ているだけで喉の奥が苦しくなるような光景だった。
「んぐ、っう……!」
 彼の喉奥でくぐもった声がする。女が肩をすくめて、同時に、グレンの大振りな喉仏が上下した。彼の目の縁から、一筋の透明な涙が伝っていく。
「くそっ! グレン、やめろ! 吐き出せ、早く!!」
 ガシャン、と派手な音がして、首の鎖が突っ張る。いまさらどうなる訳もないと分かっているのに、暴れずにはいられなかった。
 淫靡な性行におよそ似つかわしくない金属音が、ガシャガシャと辺りに響く。しかし二人の様子は変わらない。全てはまるで画面の向こう側で起きているかのごとく、自分は何一つ目の前の光景に干渉できなかった。
「んふふ、じょーず」
「ゔぇ、っかは……!」
 ずるりとグレンの口から彼女の性器が引き抜かれた。グレンは苦しそうに身体を丸めてえづき、悲痛な咳を繰り返したが、その口からは唾液の一滴さえもこぼれない。
「グレン、グレン! くそっ、なんで……!」
 言葉を遮るみたいに、ゆらりと、琥珀の瞳がこちらを向いた。
 何も言えなくなった。蛇に睨まれたカエル、とはこういことを言うのだろうか。突如正面からかちあった視線は、自分を黙らせるに十分過ぎる力を持っていた。
 彼の唇からのぞく赤い舌が、彼自身の唇をなぞる。
 既にすっかり上気した顔で、グレンは立ち上がった。はあ、と漏らした吐息は熱く、額に張りついた髪をかき上げながら、衣擦れさえ快感であるかのようにその身を震わせる。
 彼は歩いて部屋を横断し、壁際のソファへどっかりと腰掛けた。ベッドの足側の壁に置かれた、簡素なソファだった。
 グレンがこちらに向かって大きく足を開いて、ベルトを外す。彼がそのままズボンを下ろすと、勃ち上がる彼の性器があらわになった。それは露出される際にズボンの端に引っかかってブルリと揺れ、彼自身の興奮を象徴するかのように、まっすぐ天を仰ぐ。
 グレンは何も言わなかった。ただその大きな口を歪ませて、悠然と笑っていた。爛々と輝く琥珀の瞳には、狼狽するばかりの無様な自分の姿が映り込んでいた。
「う……」
 思わず身を引く。首から伸びる鎖が緩んだが、呼吸は今の方がしにくくさえ感じられるくらいだ。
 グレンの横に女が腰を下ろした。たくし上げられた布は女自身が抱え、卑猥な陰茎は未だ恥ずかしげもなく空気に晒されていた。
「はい、どーぞ」
 女が言う。グレンはそれを聞くと、こちらを向いたままそれを跨いだ。そうしてわざわざよく見えるよう片足を上げて、それを自身の尻に押しつけたのだった。
「んん、あ、は……」
 ゆっくりとグレンの腰が下りていく。女の陰茎が、彼の中に飲み込まれていく。
「やめろ……やめろ、やめろっ! ふざけるな!! やめろーっ!!」
 叫ぶ、叫ぶ。しかしそんなことで、目の前の地獄がどこかへ消え去ってくれるはずもない。
「そおら、聞こえるね、グレン。新入りくんが見ているよ」
「あー、はは、サイコー……っだなぁ、うぁ、はあ……」
 肘掛けに腕を置いてバランスを取りながら、ゆっくりと、だが完全に、グレンは腰を下ろしきった。
 鍛え上げられた分厚い身体が、大きく膨らんでは萎む。グレンは切なげな吐息を漏らしたが、今まで以上に勃ち上がるその中心からは、何も出ていかない。
「おや、出さなかったんだ。よく我慢したね」
 そう言って、女はまるで犬か赤子でもあやすようにグレンの頭を撫でた。グレンがその手に自ら頬を擦り寄せる。
「さあ、動いてごらん」
 女が言うと、グレンは身体を震わせながら、自ら腰を上下に揺らし始めた。それに合わせ、はちきれんばかりに怒張した彼の中心が揺れる。
「はぁあ、うぁ、ほんと、すごい……っあぁあ、あー、やば、やばい、んぁ、出、そ……」
 動き始めてすぐに彼は限界を訴えて、声を詰まらせた。
 それまで静かにコトを見守っていた女が、彼の腰に腕を回す。そうして子供のように、コロコロと笑った。
「君のいいとこは、こーこ!」
「ひっ、ぁああっ!? あっあっあ!」
 グン、と女が腰を突き上げた。女の性器が一層深く彼の中へと突き刺さり、グレンがガクガク身体を震わせながら射精する。その勢いたるや凄まじく、ベッドにいる自分の頬にさえかかるほどだった。
「わー、すっごい飛んだ」
「うぁ、あっ、はーっ、はあぁ」
 グレンが快楽の残滓に喘ぎながら、肩で息を繰り返す。
 自分がこの目で見ていたのはそこまでだ。自分の身体は弾かれたみたいに2人に背を向けた。何も言葉は出てこなかった。けれども身体だけはよく動いて、自分は必死になってシーツへ顔を埋めた。
「あれ、むこう向いちゃった。グレン、ほら、たくさん声を出さないと、君がどうなってるのか伝わらないよ。どこが気持ちいい?」
 言葉と共に、ギシギシとソファが軋み始める。
「ふあっ、ああぁっ、あぅ、あ、おく、お腹の、奥ぜんぶ、気持ちいぃ……! あっあ、あ、それっ、されると、しゃせい、とまんなっ、あぁあ!」
 畜生、畜生、最悪だ。
「君が今なにをされているのか、新入りくんに教えてあげて?」
「おか、っされてる、貴女に……あっ、あぁ、それっ、が、気持ちいぃ、すごく、すごく……っ」
 こんな場所、もう1秒だっていたくない。もう一呼吸たりとも、この場所の空気を吸いたくない。
「他には? どんなことが好きなのかな?」
 だのに今の自分は逃げ出すどころか、耳も満足に塞げやしない。
「んん、んっ、う……撮られ、たり、見られるの、も……好きぃ……はあぁ、あ、ちくび、も……っキスも、だいすきいぃ……っ」
「そうだねえ、ちゅーだけで射精できちゃうもんねえ、グレンは」
 こんな現実、信じたくなかった。
 あんなに気丈で殊勝な男が生娘みたいに喘いで、泣いて、それでも自分にだけはあんなに挑発的に笑うだなんて、知りたくなかった。
「さわって、さわって、もっと、おねがい……っ」
 でも、そんなことより。
「わかったわかった」
 そんなことよりも、どうしてこんなにも最悪な気分になるかって。
「ああっ、あっ、んうぅ、う、ああぁっ! すご、すごいぃ、でちゃ、あ、はあぁっ」
 それを聞くだけで、まるで自分がそうされているみたいに、腹の奥が疼くからだ。
「可愛いね、グレン」
 それをされた時、自分がどんな声をあげるのか知っているからだ。
「畜生……」
 やっとこの口が小さな罵声を吐いた時、もうグレンの嬌声はすっかり聞こえなくなっていた。聞こえるのは2人分の荒い呼吸と、女がゆっくりとこちらに歩み寄ってくる足音だけだ。
 ギシリ、ベッドが軋んで、顔を上げる。
 女はベッドの上に立ち、汗ばんだ額に髪を張り付かせたまま、静かにこちらを見下ろしていた。
「羨ましいんでしょう?」
「……っ!」
「自分もこんな風にされたいって、思ってるんじゃない?」
「……ちがう」
「『ちがう』『やめろ』。キミは否定してばっかりだ」
 女の足が、股間を踏みつけた。ぐり、と嫌な感覚がする。
「う……っ」
「こんなに大きくして、あなたのおちんちんは『はやく、僕も』って言ってるよ?」
「言ってない……!」
「『僕のことも犯して、犯して』って」
「思ってない!」
「『本当はずっとずっとこうされたかった』って」
「ちがう! ちがう、ちがう!!」

 リザ。穏やかで上品で、時折まっすぐな視線で僕を射抜く、ウィンザー家のエリザベス。
 白くて長い脚が、いつもスカートからすらりと覗いていた。自信にあふれて凛とした立ち姿が美しくて、目が離せなかった。
『お前さあ、リザさんに飼ってもらった方が良いんじゃねえの?』
 その言葉に怒ったのは、侮辱されたと思ったからじゃない。むしろ逆だ。図星だった。けれども僕は絶対にそれを認める訳にはいかなくて、だから衝動に任せて彼を殴った。
 思えば自分の周りにいた女性は強い人ばかりだった。
 ある日の姉は、家に帰ってくるなりまっすぐこちらへ近付いてきて、僕の頬を思い切り引っ叩いた。
「あんたのせいだ!!」
 顔を真っ赤にした姉は肩をいからせて、鼻息荒くそう言った。僕は叩かれた衝撃でひっくり返ったし、驚き過ぎて涙も出なかった。むしろ大粒の涙を流して泣いていたのは、姉の方だった。
「男サキュバスが生まれるような家の子はだめだってさ……! そんな汚い血の娘はいらないって!!」
 怒声とともに、彼女の足が股間に降ってくる。
 その痛みに僕は今度こそ悲鳴を上げて、そこでやっと、ベリト兄さんが駆けつけた。
「ナアマ、何をやってる! ■■■は関係ないだろう!」
「あるわよ!! あんなに良い感じだったのに! 家族構成見た途端、あの男……っ! こいつのせいだ!!」
 姉はその場で床を踏み鳴らし、僕に人差し指を向ける。
「ナアマ、憶測でものを言うのはやめろ。見合いで失敗するたびに癇癪を起こすつもりか!?」
「アンタになにが分かるのよ! 運命の人だって思ったの……あんないい人もう二度と現れないわ!!」
 未だ叫び続ける姉から逃げるように、僕は部屋を後にした。まだ幼かった僕は、母に助けを求めて、廊下を一人で足早に進んだ。
 母は寝室で、誰かと音声通話をしていた。薄暗い部屋で肩を落とした背中を、今も鮮明に覚えている。
「はい、はい。この度は……いえ、違うんです、決して隠し立てしていた訳では……すみません、本当に、申し訳ありません……」
 部屋の入り口からでも、相手が強い語調で何かを言っていることはわかった。相手はまだ母が謝罪をしてるのにも関わらず一方的に通話を切って、母は深くため息を吐いた。
「おか、さん……」
「あっ、■■■。ごめんね、気付かなかったわ。どうし……えっ、頬が……! どうしたの!?」
 きっとその頃には、自分の頬は腫れ上がっていたのだろう。母は血相を変えて僕に駆け寄った。
「う、ううん、大丈夫、痛くない、よ……お母さん、僕、僕頑張るから、ちゃんと立派な、みんなにソンケイされるひとになるから、ね……」
 そこで、急に目から涙が溢れ出した。そこからは全く年相応に、声をあげて泣いたのを覚えている。
悲しかった。痛かった。屈辱的だった。その感情には絶対に間違いなんてない。
 でも、あの時。姉に頬を叩かれ、股間を踏まれて、怒鳴られた時に、自分の心の奥底では確かに歪んだ熱が燻っていたことを、知っていた。

「……どうして泣くの?」
 ずび、と水っぽい鼻水をすする音が辺りに響く。
女はしばらく、ただ静かに僕のことを見下ろしていた。
「……鼻をかみな。せっかくの美人が台無しだよ」
 そう言って、女はベッド脇のティッシュを取り鼻に押し付ける。未だ腕を後ろ手に繋がれた自分は、ただ言われた通りにをかむしかなかった。
 女は残った鼻水や涙を新しいティッシュで拭いながら、にっこりと微笑んでみせる。
「いいや、やっぱり取り消そうかな。こういう顔も可愛い。流石はサキュバス、容姿端麗な悪魔の代表格」
 言葉を終えると、女はふう、と耳を吹いた。思わず肩がはねるが、何か言うよりも先に、彼女の口が耳たぶに吸い付く。
「あっ、ぅ……」
 じゅるり、耳の中から音がして身をよじった。反射的に逃げようとした頭は抑えられ、耳の中に舌をねじ込まれる。じゅるる、じゅるると水っぽい音がするたび、まるで脳みそを吸われているみたいな気持ちになって、勝手に口が開いていった。
「うあぁ、は、あぁ……んひっ、ぃ、うぅあ」
 首輪をつけられて、舌を出したまま呼吸をして、本当に飼い慣らされた犬みたいだ。
 女の口は次に、唇の方へやってきた。唇同士がくっついて、薄い舌が口の中へと入ってくる。
「ん、うぅ……」
 女は膝立ちになり、ぐいとこちらの首をのけぞらせた。息がしづらくて、鼻息が荒くなる。舌を、顎を、歯列を、隅々まで舐められた。二人分の唾液で溺れそうになるものだから、必死になってそれを飲み込んだ。
 ああ、甘い。それが食道を通っていく感覚さえ心地よく、胃に到達すればふわりと快楽が全身を包んだ。暖かくて、安心して、頭がぼうっとする。
「んんっ、ぅあ、あ、っふ、ぅ、はあ」
 女の口が離れて、唇と唇の間に透明な糸が伝った。そうしてやっと、自由な呼吸が許される。
 女の手が、慣れた手つきで着ていたバスローブをはだけさせた。その手で自身の髪をかきあげながら、彼女は言った。
「お尻出しなさい」
「……」
 その言葉に、自分は何を返せばよかったのだろう。何かを言おうとした気がする。それでも自分はただ、口に溜まった生唾を嚥下することしか出来なかった。
 腕を繋がれた不自由な身体で、ぎこちなく彼女に背を向ける。不恰好に身をよじり、うつ伏せになって、膝だけを立てた。隠部が全て、彼女には丸見えになる体勢だった。
 一気に狭くなった視界で、自身の心臓の音ばかりが、いやに大きく鼓膜を揺らしている。
 女の指が臀部に触れたとき、自分の身体は馬鹿みたいに大きく跳ねた。ぎゅっとそこが縮こまって、羞恥に顔が赤くなる。
「綺麗なお尻」
 その、直後だった。女の吐息が肌を撫でたと思ったら、彼女の歯が、臀部に思い切り食い込んだ。
「いっ、だっ、ぁあ゛っ!」
 何かを思うより先に、身体が跳ねた。全身がガクガク痙攣して、腰が抜け、肺の空気が残らず絞りだされる。
 それから、性器の先がツンとした。何か出たのだろうか。見えない、分からない。
「ああっ、はっ……い、いたい、いたいぃ……」
 しゃくりあげるようになって、呼吸がうまくできなかった。
 痛みに喘いでいると、彼女が指の先で臀部をくるりと撫でる。
「お尻、上げて?」
 言われて初めて気付いた。自分の体制は崩れ、半ば横倒しの状態になっている。
 なんとか腹に力を込めて、体勢を立て直した。ようやく臀部が下の場所まで持ち上がると、彼女は満足げにふふんと笑った。
「よし、いい子だね」
 そうして今度はそこへキスをする。だがまたすぐに、先ほどとは反対側へ、硬い歯列が食い込むのだった。
「いぃ゛……っ! うあぁ、はあっ、あっ」
 ぎゅっと目を瞑り、息を止めて痛みに耐える。
 彼女の唇は柔らかに肌をなぞり、痛む歯形を慰めた。細くて長い指が指がするりと体内に入って、内臓を押す。
「んうぅ、あっ……っふ、うぁ、あ……」
 だが、それら全ての甘美な刺激に震えても、何も見えぬこの状態では、文字通り彼女がいつ牙を剥くのかはまるで分からない。
 その口はいつ開くのだろうか。いつ気まぐれに、顎を閉じるのだろうか。それは先ほどよりも強いだろうか、深いだろうか。それはどれほど痛いのだろうか。
 だが結局、彼女がそれ以上噛み付いてくることはなかった。彼女は気まぐれに口を離すと、両手を腰に添え、有無を言わさず挿入した。身体を捩っても、彼女の腕は微動だにしなかった。
「あぁあ……っ!」
 まるで自分のものではないかのような、切なげな声が出る。
 圧倒的な質量に全身の肌が粟立った。息が苦しくて、頭がクラクラする。なのにそれが深く深く差さっていくに連れ、得も言われぬ快感が全身を支配していく。
 そうして彼女のそれが根元まで挿さりきった時。パンッと小気味いい音がして、臀部に再び痛みが走った。
「ひあっ!?」
 一瞬遅れて、叩かれたのだと分かる。身体にぎゅっと力が入って、中に入った彼女のものが殊更に存在を主張した。
 彼女の腰が動き始めたが、それと同時に、再びパンッと大きな音が部屋に響く。
「ああっ! あっ、は、はあぁ」
 弾けるような痛みがゆっくりと体内に霧散していく。その残滓は、彼女が腰を揺らすたび、身体の内側で快楽と共にぐちゃぐちゃに混ざっていった。
「君はニコにも、グレンにも暴言を吐いたね。随分暴れて、腕も、首も、枷を付けたところは傷だらけだ。手間をかけさせて……悪い子だね」
「あっ、やぅ、あっあ、ごめ、なさ」
「聞こえないよ」
 バチン、彼女の手のひらが振り下ろされる。
「あゔぅっ、う、ふあ、あ……っ」
「悪い子だ」
 もう一度。
「ひあ゛っ……! はあっ、あ、ごめんなさ……」
「もう一回」
「ごめ、なさい……っ、ああ゛っ!」
 もう一度。
「ごめんなさいっ、ごめっ、なさ……!」
 ただ、謝罪の言葉を繰り返す。
 お父さんお母さん、がっかりさせてごめんなさい。
 ナアマ姉さん、縁談をご破算にしてごめんなさい。
 ベリト兄さん、いつも生意気言ってごめんなさい。
 みんな心配してくれたのに結局捕まってしまってごめんなさい。
 一瞬でも満腹でいられたことに満たされてしまってごめんなさい。
 誰かに庇護されることを望んでしまってごめんなさい。
 異星の女に押さえつけられて無理矢理犯されることをよろこんでしまって、ごめんなさい。

 彼女の手が、行き場なく揺れる陰茎の根本を握った。
「勝手に出したらだめだよ?」
「あっ、あっあ、出したい、出したいです、射精、したい……っ」
 腹の中が熱くて、目の前がチカチカして、もうとっくに自分は限界だった。
 根本を握られたまま射精してしまったらどうなるのだろう、と怖くなり、早く出したい、とただそれだけの欲望に思考が塗り潰されていく。
「お願いします?」
「おねっが、しますうぅ」
「はい、いい子だ」
 彼女の手は根本から離れ、性器の裏側を撫でた。そうしてピストンがより一層深く、早くなる。
「ああぁっ、出ちゃう、出ちゃう……っ!」
 ずっと腹の中で疼いて仕方なかった熱の塊が、バン、と弾けた。
 尿道を駆け抜ける精液がたまらなく気持ちよくて、背骨を駆け上がる快感に意識が飛びそうになる。身体全体に力が入って、息が出来なくなった。指先までビリビリと甘美な痺れが広がっていった。
 彼女の性器がずるりと引き抜かれ、その場に崩れ落ちる。彼女は背を撫で、頭を撫で、それから背中で拘束された腕を解いて、ベッドから去っていった。
「グレン、グレン」
「んぁ……」
 グレンの寝ぼけた声がする。
「終わったよ。立てる?」
「立てない……」
「じゃあここで寝る? 新入りくんいるけど」「…………いや、立てる」
 視界の外で、グレンは立ち上がって、女と共に部屋を出て行った。
 丸めた背中には確かに、彼の静かな視線を感じていた。


   ×       ×


 “怒り”という感情を具現化したようなその姿が、綺麗だと思った。
 夕日がギラギラと輝く川辺で彼を見たのは、初めてのことじゃなかった。あの日はことさら陰湿な嘲笑の的となった日で、憂鬱な気持ちで土手の上を歩いていたことを覚えている。家族の顔さえ見たくはなく、当てどもなく家とは反対方向に歩いた。
 彼を見たのはそんな時だ。一対多、つい先ほどまでの自分と同じように、下卑た笑いを浮かべた連中に囲まれた少年は、さりとて自分とは違い、男たちを端から殴り倒していった。
 蹴り、噛み付き、体当たりをしては掴みかかり……あっという間に、川辺に立っているのは彼一人になった。夕日の差し込む穏やかな川辺には男たちがすすり泣く声と、彼の獣のような呼吸音だけが響いていた。
 それが、たまらなく綺麗だった。思わず声をかけてしまうほど、羨ましくて、眩しかった。
『……そっか』
 あの日、咄嗟にまくしたてた稚拙な演説に、彼はそれだけ言って表情を緩めた。般若のように釣り上がっていた目が、ふわりと垂れた。
 後にも先にも、彼ほど鮮烈な出会いをした相手はいない。……少なくとも、この屋敷に来るまでは。


   ×       ×


 5時間後 神崎邸一室

 冷たい夜風が、穏やかに髪を揺らしていた。
 両腕は今や自由で、さりとて精を注がず帰っていった女のお陰で、自慰に及ぶほどの精気もない。
 晴れた夜空に、中途半端に欠けた月がぽっかりと浮かんでいた。それをぼんやり眺めていたら、ガチャリ、と背後で扉が空く。
「よう。いい夜だな」
「…………グレン」
 グレンはシーツとタオルを抱え、まるで母星のアジトにいるときみたいに、何事もないような顔で現れた。
「ほら。替えの服と、シーツ。替えてやるから、避けてろ」
 返事も待たず、グレンはテキパキとシーツを取り替えていく。持ち込まれた服は白いシャツとズボンで、そっとベッドの脇に並べられた。
「一昨日、お前が初めてここに来たとき、部屋を片付けて、お前をベッドに繋いだのも俺だった。本当に悪趣味だよな、あの女」
「ああ……違いない」
「……」
 少しの間、沈黙があった。
 その間にもグレンはさっさと部屋を片付けていく。だが彼がこの部屋を出て行ってしまう前に、自分は彼に訊かなければならないことがあった。
「……グレン、最後にもう一度だけ訊かせてくれ。本当に、母星には帰らないんだな?」
 その問いにグレンは手を止めた。
 目を伏せてしばらくじっと逡巡して、それからやっと口を開く。
「俺はずっと、お前のことが嫌いだった」
「……」
「お上品でお綺麗で……妬ましかったよ。どうして俺はお前じゃないんだって、毎日硬い寝床で目を閉じるたび思った」
 グレンの口角がニヒルに歪む。それでも。
「お前と一緒に、お前と同じ理想を負えば、俺もお前と同じ種類の存在になれる、そんな気がしてたんだ。……お前は『こんな世の中間違ってる』『世界を変えてやる』って、何度も言ってたよな。だけど俺はそんな風に希望を持てるほど……きっとあの星を愛してない」
 それでも、その目は穏やかに垂れていた。
「……わかった」 
 他に口にする言葉なんてなかった。
 それきり黙りこくった自分に、グレンは意外そうに視線を寄越した。大きなため息が聞こえてきたのは、それからしばらく後のことだ。
「これが最後だ」
 そう言ってグレンがこちらに歩み寄る。彼の大きな腕が、銀の鎖に伸びていった。


   ×       ×


 同日 主寝室

 暗い部屋に花は居た。
 電気のついていない暗い部屋。けれども青白い月光が差し込む、暖かい部屋。
 大きなベッドの横に、机と椅子がある。花はその革の椅子に腰掛けて、夜風に髪をすかれながら、ただ月を見上げていた。
 しかしその静かで穏やかな時間は、ドタドタと廊下を駆ける足音によって遮られた。
「花さん、花さん!」
「……ニコ」
 振り向けば、ノックもせずに扉を開けたニコラが肩で息をして立っている。その顔にはハッキリと、焦りの色が浮かんでいた。
「アイツ、いなくなってる!」
 ニコラが叫んだ。
「えっ、アイツ、って……新入りくん?」
「そう、さっき様子見に行ったら、いなくなってて……! 鎖が引き千切られてた……俺探してくる!」
 そう言うと、返事も待たずニコラは走り去っていった。
 嵐のような来訪者に、しばし呆然と半開きの扉を見つめる。慌ただしい足音は、扉の開閉音を挟みながら段々と離れていった。
「そう、か……」
 大きなため息を吐きながら、花は浮かしかけた腰を椅子に下ろした。
 逃げた。逃げてしまった。あの美しい人型の魔物は。
 逃げたのがどれくらい前のことかは分からないが、屋敷の外に出たのであればもう見つかるまい。悪魔だなんて超常存在を捉えていられたこと自体、奇跡のような話だったのだ。
「鎖が、ね……」
 あの首輪を外すのは難しくない。なにせただの犬用の首輪なのだから。多少金具に細工をしたとはいえ、少なくとも鎖を千切るよりはずっと簡単に外せる筈だ。
 それなのにわざわざ鎖を千切った。自分への意思表示だろうか? そうだとしても、ここにきてわずか2日の彼ら色魔に、鎖を素手で切れるほどの力があるとは思えない。
「……多分、グレンかなあ。あとでオシオキしないと」
 椅子に身体を沈めながら、再び嘆息する。
 そんな時だった。ざあっと窓から風が吹き込んだ。木々がざわざわと音を鳴らし、レースのカーテンが揺れ、長い黒髪が巻き上げられる。
 窓に向かって振り返れば、そこには白銀のサキュバスが凛と窓枠に立っていた。
「……あら? 逃げたんじゃなかったの?」
「これを返しにきた」
 そう言って彼が腕を上げる。そこには外された赤い首輪があった。千切られたという鎖は確かに端が潰れていたが、首輪自体は金具から綺麗に外されている。
「ああ、これはどうもご丁寧に」
 その手から首輪を受け取った。
 夜風が彼の髪を揺らしている。
「……僕は帰る。故郷じゃまだまだ世界は不公平で、苦しんでる仲間が沢山いるから」
「うん」
「……」
 魔物はじっとこちらを見下ろしていた。
 月を背にした黒いシルエットは、闇夜にハッキリと浮かび上がっている。揺れる髪の隙間から月光が差し込むたび、紫の瞳がキラキラ光って、いつまでも見ていられると思った。
 視界の端で揺れるカーテン、夜空を流れていく雲、耳をすませば確かに聞こえる、彼の呼吸音。吹き込んでくる風の中には、どこか彼自身の匂いが混ざり込んでいるような気がした。
 長い沈黙だった。しかし不意に、だが確かに、美しい悪魔は口を開いたのだ。
「……リュカ」
「えっ……?」
 白くて長いまつ毛がゆっくりと上下する。
「リュカ・ブロイ・レオンハート。僕の、名前」
「……」
 彼は部屋に降り立った。トッ、と裸足が絨毯を踏む。白い身体は跪き、頭を垂れた。
「呼んで」
「……リュカ」
「はい」
「リュカ・ブロイ・レオンハート」
「はい……」
 手を差し出したら、彼はそこに自身の頬を擦り寄せた。
「寂しくなるよ、私の可愛いサキュバス。……今日は、キミが初めてこの窓をくぐった夜に似ているね。月が綺麗だ」
 彼が穏やかに微笑む。紫の双眸はこちらを捉え、口を開いた。
「あなたほどじゃない」


   ×       ×


 某日 深夜 神崎邸主寝室

 夜風の吹き込む窓に、白い魔物は音もなく降り立った。
「おや、お客さんだ」
 黒髪の女が嬉しそうに首を傾ける。
 白い魔物は部屋に入ると、自ら女にその身体を擦り寄せた。
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