拝啓、聖女様

桧山 紗綺

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戦火の足音

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  小一時間ほど共に過ごすとエニシアは部屋を出た。
  楽しい時間の終わりはいつも頭の中に不満が渦巻いている。
 「なんで、聖女だからって食事の時間まで別にしなきゃいけないのよ」
  姉と過ごせる時間の短さにエニシアはいつも不満をいだいていた。
 「お父様ももっと会いに来ればいいのに……」
  もちろん父にも政務があるのはわかっている。だからって家族と過ごす時間が全くないわけじゃないのだ。
 「ああもうっ、イライラする……!」
  もやもやする感情を手の中に握りしめた時、横から冷たい声がかかった。
 「終わったのか」
  無表情を通り越して冷たささえ感じられる顔に、苛立っていた心が急に冷やされていく。
 「アルノルト……」
 「何をひとりでブツブツ言っていたんだ」
  全く感心のない顔で言う。冷えた心が熱を取り戻していく。
  うるさいと噛み付く前にアルノルトが手を伸ばしてきた。
 「これでも食べて忘れろ」
  アルノルトが手渡したのは一粒の飴玉だった。
 「あ、ありがとう……」
  いらないものをくれただけなのかもしれないが、急に気持ちが浮き上がっていく。
  単純だとは思うけど浮かれてしまう。
  ねえ。………私たちって家族の時間が足りないんじゃないかなぁ」
  エニシアの言葉にアルノルトからは呆れの混じった声が返ってくる。
 「お前は公務を何だと思っているんだ」
  冷たい視線に頬を膨らませる。エニシアだってわかっているのだ。エリノアには聖女としての公務があるし、父だってこの国の命運を握る大切な公務を担っていることくらい。
 「だからってもう少しくらいなんとかなるでしょう」
 「陛下もエリノア様も国の行く末と民の命を預かっているんだ。 それを優先するのは当然だろう」
 「私だけ何もしてないのに……」
  まだ14という年齢のせいかエニシアは公務などには参加していない。
 「でもお姉ちゃんは6歳の時から式典とかに出てた」
  姉は6歳で聖女の名エリノアを賜り、聖女として祭事などを行っている。
 「アルノルトだって同じころからお姉ちゃんの護衛をしてたんでしょう?」
  もちろん当時はアルノルトだって子供なので護衛というよりは話し相手という意味合いが強かったと思うが、それでもいまのエニシアよりずっと幼い。
 「何かしなきゃいけない気分になるの。 私だけこのままじゃいられないもの」
 「くだらない……」
  アルノルトの瞳の色が一瞬暗くなった。
  くだらない……?
  アルノルトの言葉に頭の中が真っ白になる。
  反射的に手の中の飴玉を投げつけようとした。
  背を向けて去っていくアルノルトは後ろのことなんて全く感心がない。
  前にいる、お姉ちゃんしか見てない。
  振り上げた手が虚しく下りる。飴玉を睨みつけてもいらだちが消えるわけもなく、エニシアは口に放り込んで噛み砕く。
  がりがりと音をたてると口の中に甘みがひろがり、心の中を落ち着けていく。
  さっきのはなんだったんだろう。
  アルノルトの瞳を思い返す。
  灰色の濃さが深まったような気がした。
  無表情は変わらなかったけれど、一瞬寒気を感じるほどの怒りを見た気がした。



  冷たいのか熱いのか、わからない。
  胸の中で荒れ狂う奔流はひやりとしているのに、触れたら火傷しそうなドロリとした熱を持っていた。
  こんな感情を持ったまま聖女の前には出られない。あの人の前ではいつも清廉な自分でいたかった。
  ドアの前の壁にもたれて外を見ていると、ドアの開く音がしてエリノアが顔を出した。
 「アルノルト?」
 「エリノア様……」
  気配で気づかれてしまったらしい。
 「どうしたの? そんなところにいないで、中にいらっしゃい」
  全ての影を祓うような微笑みに数瞬前の感情が霧散する。
  この人の前ではどのような影も存在することができないと、そう思わせる微笑みだった。
 「外でエニシアに会ったのでしょう?」
  先程のやり取りを思い出させる問いにも感情を挟まずに答えられた。
 「そうですね……。 エニシア様は少し寂しがっておいでのようです」
  実際は他国の王宮よりも恵まれた時間があると思うが、エリノア様は物憂げな顔で頷いた。
 「そうね……。 あの子は市井の人とも交わる機会が多いから、余計にそう思ってしまうのでしょう」
  満足に時間を取ってやれないことが申し訳なさそうに目を伏せる。この人が気に病むようなことではないのに。
  暗い影が胸の内に入る前に話題を変えた。
 「それで、今日の報告を聞いて何かお気づきのことはありますか?」
 「……ええ、良くない状況だわ」
  このところ他国で争いが続いている。南の大国グライフが小国ロストに攻め込んだのをきっかけに始まった戦争はすでに半年を過ぎ、戦火は広がりつつある。
  ロストの同盟国ダルクを筆頭に今では4つの国が戦争に参加しており、更に増えることも予想されている。
  エリノアに報告したエニシアは気づいていないようだったが、この国リューネにも戦争の影が忍び寄っていた。
 「街でも不安を感じている者は多そうよ……」
  戦争が始まれば真っ先に巻き込まれる民は危険に敏感だ。押し寄せる不穏な気配に神経を尖らせている。
 「不安だけではすまないでしょうね……」
  エリノアは沈痛な面持ちで俯いた。
  余計な慰めは不要だと知っているアルノルトは黙って耳を傾ける。
  英明なこの人に口先だけの言葉は意味を成さない。
  この国は大丈夫、絶対に守るなどと、軽薄な言葉は口に出来なかった。
 「遠からずこの国にもグライフは攻め込んでくることでしょう」
  だからこそアルノルトは現実を口にした。
  エリノアも異を唱えることなく頷く。
 「ロストが攻め込まれた原因を思えば、この国が無関係でいられるわけがないわ」
  始まりはグライフの国王が改宗したことだ。
  もともと領土を巡り緊張感のある関係だったグライフとロストの両国は歴史上も何度も戦争や小競り合いを繰り返している。
  しかし今回は様相が違った。
  グライフが周辺諸国で広く信仰されている聖教から新教に改宗し、異教徒となったロストに攻め込んだのだ。
  当初はグライフの中でも今まで信仰していた神を裏切ることに抵抗する者が多く、侵攻が成功すると見る者は少数だった。
  それが今では国内で反抗する者の多くが平定され、ロストの都市部でも聖教の象徴である雪見草のレリーフが下ろされ、黒朱旗に変わっている。
  領土権を奪うための戦いを宗教戦争にすることで、グライフは侵攻を成功させつつある。
  聖教を信仰する国では恐々として戦局を見守っているが、リューネも例外ではなく、むしろ他の国よりも危機感を持って状況を見ている。
  聖教の発祥の国とも言えるリューネは盟主として確固たる権限を持っているわけではないが、発言権は大きく、周辺諸国からも一目置かれていた。
 「早ければ年内にも戦争が始まるでしょう」
  的確な判断にこの人が聖女であることを悔やむ。
  聖女はあくまで国の精神的支柱で、政治に関わることは許されていない。
  この人が男子であったなら……、そうでなくても聖女でさえなければ……。
  何処へまでも羽を広げられる人なのに―――。
  アルノルトが黙ったことで二人の間に沈黙が落ちる。
  エリノアが首元に手をやり、下げていた飾りを外す。
  その動作に息を呑んだ。
  視線の先にある首飾りは宝石の部分が外れ、中から小さな鍵が現れている。
 「これを、あなたに預けるわ」
  エリノアが聖女になったときからずっと持っていた秘密の鍵。それが城から逃げるための隠し通路の鍵だと、アルノルトも知っていた。
 「きっと、必要になるから……」
  逃げる時、逃がす時、必要になる。大切だからこそ託すと言われて胸が詰まる。
  抗弁しようと口を開くアルノルトの手がそっと握られた。思わず動きを止めたアルノルトをエリノアの目が捉えた。
  悲愴なほどの決意に言葉が出なくなる。
 「わかりました……」
  うめくように声を絞り出すと手を握る力がわずかに強まった。口に出せない想いが、どうか伝わらなければいい。感情とは別に、理性でそう思った。



 「嘘でしょ……」
  廊下で聞いていたエニシアは思わず呟く。
  さっきのアルノルトの反応が気になって戻ってみたら丁度アルノルトがお姉ちゃんの部屋に入るところだった。瞳に宿した陰がお姉ちゃんを見て消えるのを見て、どうしようもなく感情が荒れた。いけないと止める理性を振りきってドアに耳を当てた。
  戦争―――?
  エニシアが見てきた城下には影なんて見えなかった。
  けれど、二人が話していたのは紛れもなくこの国のことだ。
  巻き込まれることを決定したことのように話す二人が恐ろしい。
  まるで、別の国の話をしているようだ。
  そっと扉を開けて隙間から覗き込む。
  エリノアがアルノルトに何かを手渡そうとしている。
  エリノアの手にある物を見たアルノルトは口を開き、何かを言おうとしていた。
  そっと取られた手がアルノルトの動きを止める。
  絶句し、俯いたアルノルトの唇が震える。
  アルノルトにあんな悲痛な顔をさせられるのはお姉ちゃんだけだ。
  微笑みも、怒りも、悲しみも、全てがお姉ちゃんのため―――。
  手を取り、見つめ合うふたりには他者には入れない信頼があった。
  いたたまれなくなってエニシアはその場から逃げ出す。
  戦争が起こるという恐ろしさよりも、ふたりが誰よりお互いを信頼していることよりも、アルノルトがお姉ちゃんに寄せる感情を見てしまうことが嫌だった。
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