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セレスタ 帰還編

甘い時間の作り方 波乱の始まり

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  王子の部屋を辞してマリナの部屋に向かう。
  部屋は灯りが点ってはいるが、マリナの姿がない。
 (逃げたか?)
  昨日の今日だから何らかの反応はあるかと思ったが逃げられるとは、やはりやり過ぎただろうか。
  どんな触れ方なら怖がらせずにすむか色々試してみようとしたのだが、途中から楽しくなってきてわざと動揺されるような触れ方をした。
  マリナが怒らないから調子に乗ってしまった。と、そう自分を分析できるくらいには落ち着いている。
  共にいる時間が増えると知らなかった面がまた見える。新しい顔を見せる度に胸の内が震えて、冷静ではいられない。
  顔や態度には出さないようにしているが時々泣きそうな顔で見上げるマリナに激しい感情が湧き上がってくる。
  息も出来なくなるくらい強く抱きしめて離したくないとそう思う。
  その一方であまり性急に関係を進められないとも感じている。
  昨日も正面から抱き締めたら息を呑んで固まったくらいだ。
  犬に変えられるかと思ったが、変化がなかったのでマリナが制御していたんだろう。
  魔法を使えないヴォルフにはわからないが魔力を制御するのは大変そうだ。
  最初に変化させられたときには文句を言いたくなったが、理由がわかるとそこまで意識されるのが嬉しいと思える。
  普段のマリナはヴォルフを意識しているようには全く見えない。
  どこにスイッチがあるのか完全に意識を切り替えていた。
  落ち着き払ったマリナが自分の前では容易く動揺を見せ、隠した感情を覗かせる。
  自分の前でだけ見せる顔に惹かれない訳がなかった。
 (だからといってやり過ぎは良くなかったな)
  ひっそりと反省する。
  少しずつ慣れればいいと言った自分が口とは違う行為をしている。
  今夜は頭を冷やした方がいいかと思って、マリナの姿は探さずに自室に戻った。
  そこにマリナがいるとは思わずに。


  扉を開けた姿のまま少し動きを止める。
  自分が開けた扉を確認しようかと思うほどには目の前の光景が信じられない。
  マリナの部屋を出て自室に戻ったらソファでマリナが寝ていた。
  まさかマリナから近づいてくるとは。
  予想外だった。
 「怒っているかと思ったんだが」
  こうしてヴォルフの部屋にいるからには違うんだろう。
  隣に座っても起きない、無防備な寝姿に力が抜ける。
  ソファの隅で丸くなった姿は猫のようだ。
  眠るマリナは2割増しで幼い。
  意志の強い瞳が隠れるだけで印象が大分違って見えるものだ。
 「マリナ?」
  声をかけても反応しない。
  頬に触れても全く起きる気配がない。人の部屋で寛ぎ過ぎだろう。
  次に二人になったら何を言おうかと考えていたのが馬鹿馬鹿しくなる。
 「全く」
  端にいるマリナを引き寄せ自分に凭れかけさせる。そうしても起きないマリナに苦笑しか出てこない。
 「油断し過ぎだぞ」
  薄く開いたくちびるはやわらかな薄紅色をしている。
  紅も引いていないのに艶やかに色付いた唇はヴォルフを誘うのに十分な色香を放っているが、勝手に触れるほど血迷ってはいない。
  表情のあどけなさに毒気を抜かれてしまう。
  髪を撫でるとわずかに甘えたように身を寄せてくるマリナをただ単純に可愛いと思った。
  起こすのも忍びなくてこのまま休もうかとソファに身を預ける。
  さらりと指を通る髪の感触を楽しみながら目を閉じた瞬間、扉を叩く音が聞こえ、部屋の扉が開いた。
 「失礼いたしま…」
  入ってきた女官の言葉が止まる。
  顔と口には出さずに悪態を吐く。
  断りなく部屋に入ってくるという、人によっては無礼な行為を困らないからと放置していた自分のせいだ。
  女官は自分が目にしているものが信じられないというようにヴォルフたちを凝視していた。
  表情を変えないようにと教育されているはずの女官がここまで驚きを露わにする。
  それほど驚愕の事態なのか、個人の未熟さ故かどちらにしても頭の痛い事態になった。
  半歩部屋の中に入っていた女官は見なかったふりで扉を閉めることも出来ずにいる。
  ここまで見られてしまった以上なかったことには出来ない。
  どうせ口の端に乗るのなら利用させてもらおう。
  事態の収拾は諦めて打算を働かせる。
 「丁度良かった。 水を持って来てくれ」
  動けない女官に向かって指示を出す。
 「は、え…?」
  まだ混乱しているのかまともな返事が出来ないようだ。
 「何、俺が動くと起こしてしまいそうだからな」
  そう言うと女官の目がマリナに向く。
  視線が向いたところで見せつけるように髪を掬い口付ける。
  女官が息を呑んだのを見てほくそ笑む。
  きっとすぐに噂が回るだろう。
  女官が出て行った扉を見ながら考える。
  あの女官なら水を用意する前に噂を流しにかかるかもしれない。
  いずれはこうなるはずだった。
  多少考えていたよりも早いだけで問題はない。
  ただ…。
 「お前は怒るだろうな」
  意図したタイミングではないので、これを知って怒り狂う姿が目に浮かぶ。
  こればかりはヴォルフが完全に悪いので甘んじて怒りを受けるしかないだろう。
  何も知らずに寝ているマリナを抱きしめて束の間の平穏を味わうことにした。
  これから起こる波乱を思えば穏やかな眠りはしばらく訪れないだろうと思って。 
 
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