『少女、始めました。』

葵依幸

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【4】ひと休みしましょうじょ?

4-2

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   ◇

「荒太が……?」

 ご主人サマは呆然と呟くと、そのまま足早に玄関へと向かっていた。

「えっ、ちょちょっと! お兄ちゃん!」

 杏子さんが慌てて声をかけるが既に靴を脱ぎ、家に上がってしまっている。

 ――荒太さんって、あの映画を一緒に作ったって言う?

 監督の所にその名前が有った気がする。慌ててお姉ちゃんに続いて私も後を追うと靴は玄関に脱ぎ散らかされていて、廊下の奥からおばさんが何事かと顔を覗かせていた。

「なんでもないからっ!」

 廊下を走り抜けながらそう告げるお姉ちゃんだったけど、集まっていた人々までざわめき始めていた。「あの子ったらもう」と愚痴をこぼすおばさんの声。よくよく考えれば自分の妻の一周忌を放ってドタバタと何かしているとなれば、お咎めの一つあってもおかしくはない。それでも大した騒ぎにならないのは、ご主人サマのそう言う所を認めているのか、もしくはそう言った事情を考えて控えてる事を知っているのか――、何にせよ私たち以外にご主人サマの様子を見に来ようとはしなかった。

 ようやく部屋に辿り着くと乱暴に荷造りをする姿が飛び込んで来る。

「ちょっと落ち着きなよ!」

 杏子さんが肩を掴むけど、ご主人サマは乱暴にそれを振り払うばかりで取り合おうともしない。
 部屋に沈黙が訪れ、黙々と鞄に荷物を詰める音だけが響く。

「わ、わたしもっ……!」

 ――このままだと置いていかれる。
 そう思い急いでリュックか出していた漫画や着替えを詰め直し始めるけど、手元が焦って上手く中に仕舞えない。

「あっ……、もうっ……!」

 そうこうしてるうちにご主人サマは荷物を持って部屋から出て行ってしまった。
 杏子さんも私を気にしつつも、その姿を追いかけて行く。廊下から怒鳴る声が聞こえて来るけど、構わず鞄の中に荷物を詰め込む事に専念する。

「ああっもー! なんでこんなもんまでっ!」

 どうでも良いような小物まで詰め込んで来た事を若干後悔しつつ、どうにかこうにかリュックに詰め込む。急いで重くなったそれを背負い追いかけた時にはご主人サマはもう靴を履き、玄関をくぐる所だった。

「お兄ちゃんッ!」

 必死な杏子お姉ちゃんの声が響く。流石に悲鳴のようなその声を無視する事が出来無くなったのか、騒いでいた親戚の人達も顔を覗かせ、事の成り行きを見守り始める。

「……なんだ」

 足を止め、ジロリと振り返るご主人サマ。
 長い髪の隙間から見える細い目が、一瞬、鋭い光を帯びたように感じ、思わず足がすくんだ。

「何処行くつもり……?
「病院に決まってるだろう」

 静かに告げられる言葉にぞくっと背筋が凍った。

「ぁ……、あれ……?」

 急に冷たくなった指先を見つめるとそれは小刻みに震えていた。

「な、なんで……、」

 足も竦んでしまって動けない。自分もご主人サマに何か言いたいのに唇も震えて、言葉が出てこない。

 ――怖い……怖いっ……!

 あんな目をした姿を見るのは初めてだった。いままで何をしても叱りはしても、怒りはしなかった。それなのにその目には明らかな殺意にも似た怒りが感じられて……、いまにも泣き出しそうになりながらそれでも足を踏み出そうとして見えない何かに触れて、また涙が溢れて、それ以上動けなくなった。

「いまからじゃ東京まで戻れないよ! 電車無くなってるってば!」
「タクシー捕まえれば良いだろ」
「マキちゃんの事どうするのよ! 一人置いてくつもりッ!?」

 杏子さんを見ていた目が、まるで獣のような目が、私を見つめる。

「ぁっ……、」

 思わず後ずさってしまった。
 あれ程まで大切に思ったのに、何かをしてあげたいと思ったはずなのに――。

「あっ……」

 その姿を拒絶するかの様に体は反応し、後ろへと下がる。
 少しでも目から、ご主人サマから逃げようとするかの様に。

「…………」
「お兄ちゃんっ……!」

 必死に杏子さんが叫び、やがてご主人サマの目から光は抜けてゆき、何も残らなくなった。
 どんよりとした暗い瞳だけが私を見つめる。

 何を思ってるんだろう、何を考えてるんだろう……。

 いつしか恐怖は薄れ、代わりにどうしようもなく切ない気持ちが溢れて来る。

 ――かわいそうだ。

 ただ黒いだけの瞳を前に、そう思った。
 いまさっき逃げようとした自分には情けなくなる。いますぐにでも全部投げ出して逃げ出したい位だ。――けど、私の前にあるその目を見ているとそんな事もどうでも良くなって来る。

「っ――――」

 思った次の瞬間には抱きついていた。自分よりも一回りも二回りも大きく感じるその体にしがみついていた。

「――落ち着いて、大丈夫、きっと大丈夫だから……落ち着いて下さいっ……」

 精一杯抱きしめる。
 私の体よりも一回りも、二周りも大きな体はいつもよりも小さく感じて、

「怖くないよ、だいじょうぶだから……」

 なんだか、子供みたいだと思った。


 翌朝、日も登らないうちにご主人サマが布団から這い出すのを感じて私は目を覚ました。本当に始発で帰るらしく、黙って家を出ようとする姿におばさんは目を擦りながら呆れてた。

「たまには帰って来なさいよ」 

 そう言われ、小さく頷く様子は昨日よりも落ち着いたように見える。ただ、目の下には隈ができていて憔悴しきっていて、気が抜けない感じはした。

「マキちゃんも、何か困った事が有ったらすぐ連絡してね? 気を使わなくていいから」

 目線の高さまで腰を曲げておばさんが微笑む。

「はい、また遊びに来ます」

 私も笑顔で答えるけれど、それがもう無い事位分かってる。たった一晩だけだったけど家族って言うものがなんだか羨ましかった。

「おい、行くぞ」

 停車しているタクシーにご主人サマが荷物を持ち上げ近づいていく。私もおばさんに一礼してその後を追った。

「妹さんには挨拶しなくて良いんですか?」

 車に乗り込み、ドアを閉めてから聞いてみる。

「きっと怒りますよー?」

 私も挨拶するかどうか悩んだが、どうやらまだ寝ているらしく部屋は静かなままだった。昨日夜遅くまで他の人と話していたようだからそれでだろう。

「知らん」

 素っ気ない態度は相変わらずだ。ただその反面、いつもと変わらない反応は少しほっとする。

「あーぁ、もう少しぐらい素直になれば良いですのにー」

 って言ってもご主人サマは何も言わないんですけどねー。
 折角だし、自分だけでも最後の別れを済ませようと窓を開けると家の中から飛び出して来る姿が見えた。

「ぁっ――」
「ゲームばっかしてんなよー、バカ兄貴ーっ!」

 朝の静かな軒先から元気な声上がる。

「ッの、バカ――」

 ご主人サマが小さく舌打ちし「出して下さい」と伝えると、車は静かに動き出す。
 後ろを見ると玄関から杏子さんが駆け寄って来て、道の真ん中で大きく手を振っていた。見る見るうちにその姿は小さくなり、やがて道が曲がった事で見えなくなった。

「……仲がいいんですねぇ」

 座席に座り直し、流れて行く景色を眺めつつ呟く。

「私、また来たいですっ」

 そんな私の戯言に対してご主人サマは何も言わなかった。
 でも、ただ嬉しかった。こうして見送られる事が、ご主人サマの隣に座っている事が。

 それからまた電車に乗り換え、東京へと向かう。東京に近づくに連れご主人サマの口数は減っていき、私が何を言っても「ああ」だとか「おう」としか答えてくれなくなった。窓から遠くを見つめて上の空。車内サービスでお姉さんが回って来たから「お弁当買って良い?」と訪ねると「ああ」、「今晩はステーキが食べたいな」と言えば「おう」、「明日から見たい映画が始まるんだけど!」と言えば「わかった」。

 何でもかんでも約束を取り付けられるのはいいけど、何処まで覚えているかなんて定かじゃない。いっその事録音してみようか、と思ったけれどご主人サマの携帯電話の電池は目の前で音を立てて切れ、私自身にはそんな機能備わっていなかった。

「ぬぅ……」

 歯がゆい気持ちを堪えつつ、静かにお弁当の端に盛りつけられていたぶどうを摘む。

「どうすればいいんでしょうねぇ……」

 そんな風に呟いてみても全く反応を示さないご主人サマが徐々に心配になって来た。様子がおかしいのは分かってる。けどなんて表現したら良いのか分からない。心ここにあらず、と言うべきか……。まるで抜け殻になったかのような様子でボーッと窓の外を眺めていて、時折苦いものでも噛んだような表情を見せる。
 原因は例の「朽木荒太さん」って人なんだろうけど、生憎その人に付いての話は全く聞き出せなかった。
 杏子さんが言うには「高校時代からの悪友」だそうだけど、それがどう関係してるのかは分からないしその事をご主人サマに聞く事だけは避ける様に釘を刺されてしまった。

「んぅ……、杇木さんってどういう方なんんです?」

 駄目元で聞いてみる。

「――バカだよ」
「――――ぇ?」

 また気の無い返事が返ってくるのかと思いきや、以外とちゃんとした言葉が返って来る。

「根っからのバカで、大バカ者だ」
「…………」

 それ以上、私は何も聞けなかった。

 ――笠井ミサトさん……、朽木荒太さん。そして……、ご主人サマ。

 あの映画を撮った3人に何かあったんだろうか……?
 流れていく景色は紅葉に染まり、綺麗だったのだけど……来る時よりも随分と長く感じた。


   ◇
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