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第1話 空の秩序にして契約なき忠誠
第6節 審問の椅子
しおりを挟む帝国東方交易省、セレスティア第七環の内部構造は、中央の行政管轄棟を核とし、放射状に貯蔵庫・兵舎・通信室が配置されている。
そのうち、最も地味で、最も使用頻度が高いのが――“審問室”であった。
薄暗い照明。鉛のように重たい空気。無音に近い沈黙。
まるで音という概念が排除されたかのような無響の空間である。
この場に音は必要ない。
必要なのは、命令と、それに従う沈黙だけだ。
「連行せよ」
乾いた命令が下されると、二人の省兵が動いた。
灰色の制服に身を包み、青銅製のボタンだけが虚しく光を反射する。
彼らが引き連れてきたのは、痩せぎすの青年。
右腕に巻かれた粗末な布。破れかけた靴。
そして、その瞳に宿るのは、後悔ではなく、疲労と諦念だった。
――罪状:未許可交易。
それだけだ。
だが、この“だけ”が帝国では致命傷になる。
「名を述べよ」
総督席から、レティシアが声を投げる。
表情は動かない。眼差しは静かにして冷たい。
「ルイス・バンダル……です」
かすれた声が返る。
無意味な名乗りだ。帝国において、平民の名など帳簿の数字以下の価値しかない。
だが、それでも形式は守られる。
秩序とは形式の連続であり、形式こそが文明を作る。
「罪状は確認している。反論は?」
「……ありませ、ん」
「交易許可証の提示もなく、帝国貨幣の授受記録もない。
さらに、入手経路が不明な鉱石を船に積んでいた。……該当貨物は“徴収”され、内容は報告済み」
レティシアは卓上の書類を一枚、指先で弾いた。
まるで、既に裁定は決していると言わんばかりの動作だった。
彼女にとって、これは仕事であり、そして――快楽でもあった。
制度が、命令が、すべてに優越する世界。
理屈ではなく、構造で支配する仕組み。
彼女が“好む”のは、こういう瞬間だった。
「貴様が属していたのは、東第二浮遊島。
同島は現在、交易省の第七行政区域に属しており、直接統治下にある。
つまり、総督たる私の許可なくして行動したこと自体が、反帝国的行為と見做される」
言葉は淡々としている。
だが、“私の許可なくして”という一節には、確かに“女”ではなく、“主”としての力が込められていた。
ルイスはうつむきながら、何も言わなかった。
あるいは、何を言っても無駄だと悟っていたのだろう。
あるいは、自分が“誰に審問されているのか”を理解していたのかもしれない。
レティシア・クロード――帝国が派遣した行政官にして、数多の浮遊島を“従属”に塗り替えてきた女。
彼女の下した命令は、過去一度たりとも覆ったことがない。
彼女の署名は、ある種の“絶対性”として、省内でも知られていた。
「裁定を下す。
貴様の罪状は帝国法第Ⅹ条第4項に照らし、“帝国経済秩序の撹乱”に該当。
よって、資産没収・浮遊域からの強制排除、および三十日間の矯正労役に処す」
レティシアは印章を手に取った。
ゆっくりと、確実に、赤い蝋封に判を押す。
その動作は、まるで“契約”に近かった。
ただし、それは対等な契約ではなく、
――支配者が被支配者に下す、一方通行の“認可”にすぎない。
「連行せよ」
再び、省兵が動く。
男の身体が引きずられるとき、レティシアの視線はわずかに揺らいだ。
――この秩序は、確かに自分の手で築いた。
――だが、それに耽溺しているのは、自分ではないか?
審問とは、形式だ。
人を裁くのではなく、秩序を保つための通過儀礼。
その儀式を、己は“好んで”執行している。
命令に従う者たち。
沈黙を守る空間。
そして、絶対性を信じる眼差し。
「……いい秩序だ」
椅子にもたれ、紅茶を一口。
苦味の奥に、どこか甘い感覚が残った。
それは、支配者だけが味わえる、制度への陶酔だった。
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