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第1話 空の秩序にして契約なき忠誠
第8節 浮かぶ島と落ちる心
しおりを挟む風があった。
それは高空を滑る冷涼な気流であり、行政空域セレスティア第七環の外郭構造を優しく撫でるように通り抜けていく。だがこの風は、地上を知る者にとっては、むしろ隔絶の象徴に他ならなかった。
レティシア・クロードは、事務日誌の記入を終えると、ペンを静かに置いた。
何百という命令と報告、許可と拒否、転属と追放の記録が一日のうちに交わされるこの場所にあって、彼女の手の動きは常に静謐だった。音を立てることすら無駄であり、浪費であると見なされる環境において、それは“秩序”の体現でもあった。
ふと、視線を横へ流す。
開け放たれた窓の向こう、遥か下方――雲の切れ間に、いくつかの浮遊島がぼんやりとその輪郭を見せていた。
高度差にして五千、あるいは六千メートル下層。
そこに浮かぶのは、帝国の公式地図にもろくに記されていない小規模な植民区――通称“落ちこぼれ島”だった。
正式名称はあった。だが記録の上で生きていても、実態が死んでいれば、それは行政的ゾンビに過ぎない。
過去に一度、租税逃れと反帝活動の疑いで接収寸前にまでなった島である。地元民の粘り強い陳情と、時の担当官の奇妙な温情主義が、結果として「見なかったことにする」という最悪の妥協を生んだ。
――落ちる、というのは、物理的高度ではなく、制度内序列の比喩だ。
レティシアは椅子から立ち上がると、ゆるやかに窓際まで歩を進めた。
窓枠に手を添えるでもなく、ただ立ったまま、彼女はその景色を眺める。空の蒼、雲の白、そして、忘れ去られた島の灰色。
(落ちこぼれ、か)
心中で呟いたそれに、嘲りの響きはない。むしろ、どこか懐かしさに近い感情が滲んでいた。
なぜなら――かつて自分もまた、“落ちた場所”から始まったのだから。
ほんの一瞬。
記憶の断層が、不意に切り替わる。
そこは――地球。日本。
そして、灰色のスーツに身を包んだ、ごく普通の“彼”が、書類の山に囲まれて仕事をしていた頃の光景。
残業。会議。忖度。メール。上司の顔色。客の無理難題。
すべてが積み重なり、“生きている”とすら感じさせてくれなかった日々。
だが、そんな中にも秩序はあった。
己の職務を果たし、組織の歯車として動き続けるという、それ自体が社会契約の履行であり、価値とされる環境だった。
――気づけば、死んでいた。
あるいは、死んだことにされたのかもしれない。
目覚めた時、自分はこの空にいた。
女の身体で。帝国の一員として。統治する者として。
それは“選ばれた者”の物語ではなかった。
単なる偶然、あるいは、制度の網に引っかかって生まれ落ちた小石のような存在。だが、使えるなら使われる。それが帝国だ。
そして彼女は、見事に“使える者”として評価され、現在に至る。
「……生き残る価値を問う前に、生き延びる術を問うべきでしょうね」
誰にともなく呟いた声が、部屋の空気に溶けて消えた。
再び視線を浮遊島に戻す。
あの島には、まだ人が住んでいる。空路の補給網は切れ、通商の恩恵も乏しい。帝国から見放された存在だ。
だが、島の灯は消えていない。
煙が立ち、発電塔がゆっくりと回っている。
(彼らは生きている。制度の外で、だがなお、秩序を模倣しながら)
レティシアはその構造に微かな興味を覚える。
制度の外部にある者たちが、制度的秩序を真似るという滑稽。
だがその滑稽さが、同時に“文明”というものの本質でもあった。
命令が届かぬ場所。
契約が意味を成さぬ空間。
そこでも人は、日々の暮らしの中で“疑似的な秩序”を再構築する。
――だが、それが許されるのは、こちらが“見逃している”限りにおいてだ。
レティシアは背を向け、窓を閉じた。
風の音が止み、部屋は再び静寂に包まれる。
かつて自分が落ちた場所は、もはや遠い。
今の彼女は、空の上にいる。命令を出す側、記録を残す側、服従を要求する側として。
その立場は、今や絶対だった。
“落ちる”という可能性を、彼女自身が最も忌避している。
だからこそ、あの島に対しても、同情や懐古ではなく、“警戒”を持って接する。
人は、落ちることができる。
だが、それを許せば、空の秩序は崩れる。
だからこそ――命令が必要なのだ。
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