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第1話 空の秩序にして契約なき忠誠
第9節 始まりの記録
しおりを挟む浮遊島の夜は、意外なほど静かだった。
風も、星の瞬きも、空に漂う浮雲の影さえも、まるで世界が呼吸を忘れたかのように動きを潜めている。
レティシア・クロード――セレスタイン帝国東方交易省・空中交易局第三区の総督にして、若くして事務次官相当官の座にある女官僚は、私室の書類山を片付け終え、窓辺に立っていた。
その視線の先にあるのは、空でも秩序でもない。
ただひとつ、**“記録されざる始まり”**という、制度には存在しない概念であった。
記憶というものは、往々にして容赦がない。
まして、それが“前世”という形をとって断片的に蘇るなら尚のことだ。
その夜――それは不意に訪れた。
最初に意識が戻った時、彼――かつての“彼”は、知らぬ天井と、知らぬ空気と、異様に滑らかな床の上にいた。
白く冷たく、無機質すぎる円形の空間。
まるで実験室か、もしくは神話的“異界”のようだった。
耳鳴りがした。
喉が焼け、視界は乱れていたが、それでも“それ”が目に飛び込んできた瞬間の衝撃だけは忘れようがなかった。
――魔法陣。
その一語に集約される、異形の意志。
数式とも回路ともつかぬ構造体が床面全体に展開され、人智を超えた何かが沈黙のままこちらを“分類”していた。
言語すら存在しない。
ただそこにあったのは、意味の崩壊と、概念の流出。
制度や命令でさえ測れぬ何かが、**“余剰な魂”**として彼を引き込んだのだ。
「……どこだ、ここは」
発された声に、背筋が粟立った。
高い。柔らかい。異質。
視線を落とせば、見慣れぬ手指と華奢な関節。
胸部に違和を感じ、髪に指を通せば、金色の細糸がさらりと流れ落ちた。
「……女、か?」
否、正確には**“女児”に近い。
身体が小さい。
呼吸が浅い。
そして、“自分であるという感覚”**だけが異常に強く残っていた。
そう、彼――いや、彼女には、記憶があった。
日本。東京。
誰もが知るわけではないが、業界内では名の通る中堅総合商社に勤めていた。
役職は主任補佐。業務は海外開発。
誰の人生にも似た、代替可能な日々。
満員電車。エクセルの嵐。会議。上司の冗談。定時後の資料作成。
そして、あの日――冬の朝の歩道橋、足を滑らせた記憶。
死んだ、とは思っていなかった。
だが、それ以外に説明のしようがなかった。
気づけば、“レティシア・クロード”という戸籍が割り当てられていた。
場所は、セレスタイン帝国――それも、帝国本土ではない。
重力制御の失調した浮遊島群の一角。
辺境にして、**“旧叛乱氏族の処分地”**として記録されている土地だった。
登録上は、クロード家の庶流。
かつて貴族を名乗っていた時代の栄光など、文字の形にすら残っていない。
実態は、干からびた土地にしがみつく、もはや農民とも言い難い零細家系。
制度的に言えば、“貧困外様下級貴族の最下層”――すなわち、存在価値が最も希薄な分類である。
幼少期は地獄だった。
空腹、病、無教育。
そして、“女”であるという分類が、さらに生存可能性を狭めていた。
だが、彼女――かつての“彼”は、それでも黙って適応した。
まず言葉を覚えた。
次に数字を理解した。
徴税記録を模写し、寺院に忍び込み、命令文を暗記した。
そして、“制度の言葉で制度に抗わない者”となった。
初めて“月経”を迎えた夜、彼女は泣かなかった。
そういう仕様なのだと理解した。
仕様である以上、受け入れれば済む。
ただし、それを他者に見せないという規律だけは、必ず守った。
魔法については、一度だけ目撃した。
辺境の廃墟で、祈祷師と称する老人が“文字にならない言語”を発していた。
だが、それは制度には登録されておらず、帝国からすれば“違法存在”でしかない。
魔法は奇跡ではなく、恐怖だった。
合理の外側にある、“処理不能な情報”の集合体だった。
選ばれた? 異世界転生? そんな幻想を抱く余裕はなかった。
この帝国では、契約より命令が優先される。
自由より秩序が求められる。
感情より通達が強い。
――それが、彼女にとっての“救い”だった。
才能があったわけではない。
ただ、“苦にならなかった”のだ。
人の顔色を見ずに済む仕組み。
誰も名前を覚えてくれなくても、帳簿が認識してくれる構造。
そして、誰かを罰する時に“自分の感情”が不要な社会。
彼女は、ただその中を“登った”。
努力と記録と実績で。
それだけで、帝国東方交易省に“抜擢”された。
そして、今――空を支配しつつある。
「……私に、英雄譚は似合わない」
窓の外に、星が流れた。
あれは、制度が記録しなかった“始まり”の象徴。
かつて誰かが落とし、誰にも拾われなかった物語の残骸。
だが、レティシア・クロードは知っている。
始まりなど、制度が書き換えれば存在するのだと。
そして、それを誰も“訂正しない限り”、それは“真実”になるのだと。
だからこそ、今日も彼女は命令を下す。
制度の上に、己の意志を。
記録の欄外に、訂正不能な印影を――
ただ、それだけが、“女”として分類され、
“制度で管理された命”として生きる彼女にとって、唯一の自己証明だった。
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