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第1話 空の秩序にして契約なき忠誠
第11節 支配される悦楽
しおりを挟む絹が滑る。
その感触は、何よりも忠実だった。
帝国制服局が特注した、高位女性官吏用の正装下着――絹のレースと極細の裁縫糸が織りなすその装備は、“官位に相応しい象徴”として支給されたものであり、レティシア・クロードという制度内存在の証明でもあった。
だが、その柔らかすぎる質感は、彼女にとって異質な皮膚のように感じられていた。
「……防弾チョッキの方がまだ理屈が通るわね」
鏡の前でブラウスを調整しながら、レティシアは低く呟いた。
その声には皮肉と自己否定、そしてわずかな快感が織り交ぜられていた。
TS転生――
その言葉を、彼女自身が明確に使ったことは一度もない。
だが、事実としてそれは起きた。
ある日、存在が崩れ、目覚めれば“女の肉体”を持っていた。
それを“異常”と断じるのは容易かったが、制度のなかでは異常は“分類”されることで処理可能となる。
ならば、女である自分もまた、“制度が許容した役職”として分類し、運用すればいい――それが彼女の合理だった。
それでもなお、この“身体”には問題があった。
肌に貼りつく下着。
胸を締め付ける構造。
腰を強調するカッティングの軍装。
視線が注がれることを前提とした、構造としての性別。
彼女は知っていた。
この肉体は、“支配される者の象徴”であることを。
帝国制度は、支配と従属を明確に区分けする。
そのとき“女性であること”は、しばしば“演出された弱さ”として取り扱われた。
見た目、声質、立ち居振る舞い――それらが勝手に“属性”を帯びていく。
レティシア・クロードは、それを受け入れた。
否、演じることにした。
身体の制約に抗わず、むしろそれを“支配者の皮膚”として統合した。
演技とは制度。
制度とは命令。
命令とは支配。
ならば、この身体は、彼女の最前線となる。
着衣の手順を一つひとつ踏むたびに、彼女の精神は“官僚”から“象徴”へと変貌していく。
シャツを肌に通すとき、柔らかい布が乳房を撫でる。
スカートのラインが臀部をなぞり、ベルトが腰骨を締め上げる。
手袋をはめれば、外界と皮膚の境界線が明確に断絶される。
その一連の感触は、かつての“彼”にはなかった感覚だった。
彼女は拒否しない。
むしろ、そこに“支配される演者”としての悦びを見出す自分に、静かに気づいていた。
鏡に映るのは、冷徹で隙のない帝国高官――レティシア・クロード。
鋭く整えられた金髪、深く光を反射しない瞳、凛とした輪郭。
だが彼女自身だけは知っている。
その服の下にあるのは、支配される“かたち”を持った肉体であり、
そしてその肉体が、制度の舞台に立つための“演技装置”であることを。
「……やっかいな皮ね」
そう呟き、手袋の端を引き締めたとき、扉の外から控えめな声が届く。
「総督、よろしいでしょうか――入室許可を」
「入れ」
声は冷たく、完璧に調律されていた。
その瞬間、彼女は“完全に整った”。
補佐官が書類を手に現れる。
それを受け取りながら、レティシアは思う。
自分はもう、“この身体であること”に慣れはじめている。
そして、この身体だからこそできる支配のかたちがあることにも、否応なく気づいている。
帝国議事堂での演説。
外遊先での晩餐会。
地方統治の視察。
敵対勢力の使者との謁見。
あらゆる場で、彼女は“女”として“見られる”ことを前提に設計されていた。
視線。評価。恐怖。賛美。
それらが交錯する空間の中で、レティシアは“視られること”の価値を知った。
それは羞恥ではなかった。
むしろ“期待される支配の記号”として、官僚制度における極めて理性的な快感だった。
支配する側に立ちながら、支配される身体を持ち、支配される振る舞いを演じ、
そしてその演技によって支配の正統性を完成させる――
それが、レティシア・クロードという存在の真骨頂だった。
補佐官が一礼し、退出する。
扉が閉じる音が遠のく。
レティシアはゆっくりと椅子に身を沈め、紅茶に手を伸ばした。
香りは柔らかく、ほのかに甘い。
かつての彼女が「苦いものしか口にしなかった」記憶は、もう霞みかけている。
――変わったのだ。
身体が。制度が。役職が。
そして、悦びの定義までもが。
「……この程度の倒錯で、制度が揺らぐほど柔では困るわね」
誰にも聞かれない呟きを残し、レティシアは再び“支配者”として、書類の山へ視線を移した。
支配される感覚は、皮膚に。
支配する命令は、紙上に。
そのどちらもが、制度という舞台の上では――確かに、正しい。
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