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第1話 空の秩序にして契約なき忠誠
第12節 命令と紅茶
しおりを挟む蒼天は変わらず澄み、帝都からの飛行伝令艇が、第七環宙域の政庁ドームに着艦したのは、午前第六時報をわずかに回った頃であった。
その外装に刻まれた帝国徽章は、夜明けの陽光を受けて淡く輝き、まるで“天命の使者”を演出するように舞台装置の役割を果たしていた。
伝令士が携えていた封筒は、白銀に彩られた儀礼装にふさわしく、七重の封蝋によって閉ざされていた。
端には極めて細い筆跡によって、赤く「直達」と記され、朱印の下には帝国最高評議機関の名が墨色で刻まれている。
さらに、角に押された“白印”が、この文書が単なる通達ではなく――“帝国最高権の名において発せられた命令”であることを、否応なく示していた。
すなわち、これは命令である。契約ではなく、指導でもなく、ましてや討議の余地すらない一方通行の支配の顕現だった。
レティシア・クロードは、政庁執務室の奥、やや古めかしい木製の帝政様式の机に向かって座っていた。
広大なガラス張りの天井からは天蓋のように空が広がり、眼下に広がる黒曜石の床が、彼女の存在をまるで舞台の主役のように照らし返す。
空に支配される者たちを統べる者として、彼女は確かにそこにいた。
机上の書類の束を無言で脇に寄せ、封蝋を切る。刃を使わず、指先で無音のまま――儀礼と演出を拒否した動作だった。
中から滑り出たのは、硬質な羊皮紙に記された一枚の命令文、そして透かしの入った報告写本。
報告の第一行は、冷たくも簡潔だった。
――【確認報告:空賊組織「自由商会」後方支援者に、元帝国陸軍第三空挺師団所属・准将ヘルムート・シェンクの存在を認む】
レティシアの表情は変わらなかった。
眉ひとつ動かさないというより、それすらも既に“反応として織り込み済み”の無表情である。
それは、驚愕でも混乱でもなく、事象の次の段階がようやく表層化したことへの、予定された反応だった。
おそらく帝都の文官たちは、この一文を見て青ざめたに違いない。
“元将校”という語が孕む政治的爆薬、軍と帝国制度の残滓が結託する可能性、そのすべてが恐怖であり不都合だったからだ。
だが、レティシア・クロードにとっては違った。
「……裏切り者の亡霊が、ようやく地上に姿を現したか」
その呟きは、どこか愉悦を含んでいた。
“敵の顔”が明瞭になるということは、制度的な正当性を持って“排除”を進められるということである。
合法的暴力の発動、つまり支配の根拠の更新に他ならなかった。
彼女は、湯気の上がる紅茶のカップに手を伸ばした。
白磁に注がれた琥珀色の液体――それは血ではなく理性を象徴する帝国官僚の霊薬であり、日々の冷静さを演出するための舞台小道具でもあった。
「……本当に、紅茶とは便利なものだ」
皮肉にも、そこにはわずかな本音が混じっていた。
血を流さず支配する者たちにとって、激情を抑え込むための最良の補助装置が、“温度”と“香り”で成立するこの液体なのである。
彼女にとって紅茶とは、命令と同じく、一方的に下される儀式でありながら、その受容に甘美さを付与する“慣習”であった。
命令文には、こうあった。
――【特命任務:空賊集団の背後に潜む反帝国勢力を洗い出し、根絶すること。必要とあらば、戦時戒厳権限を即時行使せよ】
明らかだった。
これは“契約”でも“提案”でもない。
それは一方通行の命令であり、執行者としてのレティシアの“存在そのもの”を肯定する唯一の言葉だった。
「……命令、か」
彼女はわずかに口元を緩めた。
その微笑には、忠誠心も、愛国心も、そして恐れもなかった。
ただ、理解があった。
構造への、制度への、そして“命令体系そのもの”への絶対的な理解による冷徹な納得。
それは、支配されることでしか生きられない者が、支配する立場を利用してなお“命令に従属する悦び”を得るという――倒錯的で制度的な救済でもあった。
「契約は、合意と対等性の幻想を伴う。だが命令には、裏切りも、疑念もない。命令とは、ただ上下の構造のみで成立する」
紅茶の香気の中、彼女は静かに立ち上がる。
外の空では、再び帝都の航空艦艇が遠ざかっていく。
それはまるで“意志の発令”が済んだ証拠のように、無音のまま蒼穹へと溶けていった。
「私は――命令によってここに在る。ならば、その命令に応える。それが支配者であることの、唯一の存在証明だ」
カップを口元に運び、一口、極めて慎重に、だが演技のような精密さで含む。
それは単なる嗜好品の消費ではなく、制度の象徴としての動作だった。
「“契約”ではない。ただの命令だ」
誰に向けたわけでもないその言葉は、冷たく政庁の空間に響き、静かに消えた。
紅茶の香りだけが、なおも空間に残り――それはやがて、空域全体を覆う支配の予兆と化していく。
命令とは、従属の形式にして、官僚制国家における唯一無二の愛だった。
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