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第2話 契約と断罪と、空の秩序
第1節 帝都からの使者
しおりを挟む午前第五時報。
空域は未だ薄曇りに覆われ、七環の高層気流を横切る航路には、帝都宛の特急便が次々と通過していた。
その中に紛れて、やや異質な機影が一つ――帝都行政庁舎の紋章を帯びた灰銀の特使艇が、帝国東方交易省・第七環総督府の政庁港に静かに降下してきたのは、まさに定刻通りのことであった。
接岸後、降り立ったのは、肩章に双槍の徽章をつけた帝都内務監察庁・監察官アウグスト=ハルト。その背後に控えるのは無言の護衛官たち。黒革の靴音が、白磁の床面に乾いたリズムを刻む。
そして彼は、政庁最上階の“制御中枢”たる執務室へと通された。
レティシア・クロードは既に待機していた。
黒の正装軍装、その上から羽織る深紅の礼礼装は、もはや帝国の威信を象徴する“制服”として、彼女の存在を明確に定義していた。
机上に並ぶ書類群と、蒸気の立ちのぼる紅茶の香りが、整然とした官僚の“戦場”を演出していた。
「ようこそ、帝国の辺境へ。監察官閣下」
抑制された笑みと共に、彼女は椅子から立ち上がり、右手を伸ばす。
儀礼は、制度である。制度における序列こそが、この帝国の“正義”なのだ。
ハルトはその手を受け取り、ほんの一瞬、視線を交錯させたのち、声を落とした。
「帝都より通達。交易航路における自由商会の襲撃事件に関し、総督府の対応が“遅延”しているとの報告を受けている」
言葉は丁寧、だがその意図は明白だった。
つまり――帝国は、制裁を欲している。
「ご心配なく。制度は常に手続きを必要とします。無論、武力行使も“通達と印”があってこそ正当化される」
レティシアは紅茶を一口すすると、視線も動かさずに応じた。
“自由商会”。それは、帝国が制度外と定義する非合法交易集団であり、近年では貿易艦隊への襲撃を繰り返す空賊組織でもある。
その背後に旧貴族派や退役軍人の影があることも、既に“情報”としては掌握済みだった。
「帝都は、迅速なる排除を望んでいる」
「排除という語は便利ですね。制度に従う者にとっては命令と同義ですが、制度外の者にとっては――ただの粛清に過ぎません」
言葉の応酬は、もはや外交戦である。
だが、レティシアにとってそれは支配契約と同義の儀式だった。
制度の文脈を武器に、敵意を“合法化”し、“正当性”で相手を絞め殺す。
それがこの帝国の官僚制という名の戦場における、最も洗練された殺意だった。
「航路は制度で定められています。契約艦には、交易省が保有する“貿易認証符”が発行され、空路の優先権が保証される」
「襲撃とは、つまり制度への反抗であり、それ自体が帝国法の敵対行為に該当します」
「ならば――即時武力行使は妥当であると?」
「違います。あくまで、命令が下れば、です」
ハルトの眉がわずかに動いた。
レティシアの語り口は一貫して冷徹で、そして――“演技”があまりに自然だった。
その姿が女性であることを忘れさせるほどに、官僚として完璧であり、同時に“女であるがゆえに周囲の錯覚を利用している”ような、微かな演出すら滲ませていた。
(――私は女などではない。“かつて男だった”という記憶すら、もはや手続きの一部に過ぎない)
そんな思考が、ふと脳裏をよぎる。
あの婚約破棄。帝都の貴族どもが吐いた、「女が出過ぎるな」の一言。
――あれこそが、制度ではなかった。
あの時、彼女は確かに“レティシア・クロード”という装置を選んだのだ。
女であることを利用する冷徹な意志として。
「監察官。自由商会への対応については、我々が定めた形式に従い、しかるべき機関と調整の上、速やかに執行します」
「つまり、即時には動かぬと?」
「制度の外からの要求には、制度の内部で応じねばなりません」
ハルトは一歩踏み出す。威圧という名の手段。
だが――その瞬間、背後に佇んでいた補佐官《カティア》が、無言のまま一歩前へ出る。
その挙動はごく自然で、まるで“影”が主人を追うようなものであったが、彼女の視線は監察官を真っ直ぐに見据えていた。
(この女……いや、この“器官”)
ハルトが僅かに息を飲む。
彼女の無言の一歩が、帝都からの“監視”であることを暗黙に伝えていた。
「それでも帝都の意志は動いている。中央は、実力排除の準備に入っている」
「ならば――命令を」
レティシアは即座に応じた。表情一つ動かさず、紅茶を持ち上げる。
その香りとともに、言葉が空気を制する。
「私には、命令が必要です。それが制度です。契約ではない。交渉でもない。“命令”が降れば、即時行動いたします」
監察官は黙り込んだ。
沈黙の数秒後、帽子のつばを整え、くるりと踵を返す。
「……善処を願う」
それだけを残し、彼は執務室を後にした。
残されたのは、再び静まり返った政庁の空気と、紅茶の香り。
レティシアは椅子に戻り、書類へ視線を落とした。
そして思う。
(――演じきるしかない。制度を、命令を、“支配契約”の仮面を)
(私は私である。その証明は、声でも性でもなく――通達と命令だ)
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