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第2話 契約と断罪と、空の秩序
第2節 書かれざる命令
しおりを挟む政庁に静寂が戻ったのは、第七時報を過ぎた頃であった。
帝都からの特命使節――監察官ハルト一行が去ったのち、執務室は再び機械仕掛けの静謐へと沈み、空気中に残る紅茶の香気が、冷却された政治の残滓として漂っていた。
レティシア・クロードは、無言のまま書類の山を整えながら、数秒の静止を挟んだ後、ゆっくりと視線を上げる。
そこには既に、補佐官《カティア》の姿があった。
女か、器官か。
無言の影――そう呼ぶほかない存在である彼女は、まるで総督の呼吸と同調するかのように、資料を一冊、静かに机上へと滑らせる。
「……定時通信の記録です。帝都内務監察庁より、暗号文書にして第七環への照会。内容は、“特命使節の進行に支障なきことを報告せよ”と」
その声は、波紋を立てぬ水面のように冷たく、だが明瞭だった。
「つまり、あの監察官は“命令”を持たぬまま来訪した」
「はい。“実力排除の準備”という言葉は出ましたが、通達でも命令文でもありません。単なる“意向表明”です」
レティシアは頷いた。
“意向”と“命令”――それは、この帝国において根本的に意味が異なる。
命令には署名が要る。発信部局、印影、文言の正確性、それらすべてが揃わなければ、制度は作動しない。
逆に言えば、“作動しない制度”に対していかなる行動も“私権の濫用”と定義される。
「愚かですね。命令なき行為は、秩序の自己否定に他ならない」
「……ですが、帝都は明確に“排除”を望んでいます。問題は、それが制度の形で届くか否か、です」
補佐官《カティア》は一歩踏み出し、別の書類を差し出す。
「こちらは、帝都の“対外貿易強化案”。それに付随する“非合法交易団体の監視強化”が、予算項目として挿入されていました」
「……つまり、“自由商会”を名指ししたわけではないが、予算上の処理対象には含めた、というわけか」
「はい。通達ではなく、“予算に書かれた命令”です」
それは、明文化されぬ通達。
命令に見せかけた数字の言語。
レティシアは小さく息をつくと、背もたれに身を預けた。
「制度は命令を基準とする。だが、帝国は“命令以外の命令”にも、従うよう設計されている」
「意志なき命令、署名なき通達、言葉なき支配。……この国の構造そのものですね」
カティアの言葉には、わずかばかりの皮肉が滲んだ。
だがそれ以上に、その言葉が“監視者の視点”に近いという事実が、レティシアに一つの確信を与えていた。
(――彼女は、帝都の目であり、耳だ。私に“監視される”ための補佐官)
だがそれでも、使える。
カティアが制度の内側にいる限り、支配関係は崩れない。
レティシアは立ち上がり、窓辺へと歩を進めた。
遥か下方に見えるのは、空中庭園の整備区画。
その向こう、雲を突き抜けた高空航路には、今日も帝国の交易艦が航行している。
「言葉なき命令、か。……滑稽ですが、それが帝国だ」
「そして我々は、その滑稽を演じきる役者に過ぎません」
カティアの声に、レティシアは振り返りもせず、静かに答えた。
「ならば――演じ続けましょう。“命令なき命令”に従い、“通達なき支配”を遂行する者として」
「総督。帝都からの返信は?」
「ない。つまり、“命令しない”という命令が下ったのです」
カティアは頷いた。
沈黙。
だがそれは、帝国における最も強力な通達であった。
レティシアは再び机へ戻ると、紅茶に口をつける。
苦味が、制度の味のように喉を下った。
(私は、制度に従う。ただし、制度が沈黙するときは――私が制度になる)
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