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第一話 死にたがりのベラ
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目を覚ますと、ガラス張りの天井から青空が見えた。
体が重い。背中のあたりに違和感があった。
「気がついたかい」
ベッドの横には椅子があった。腰掛けて読書していた青年が、わたしが目覚めたのに気づいたのか、声を発した。
「……ここはどこ?」
「ここは僕の部屋だよ。道に倒れていた君を拾って来たんだ」
読んでいた本から顔を上げずに、彼は答えた。
「……ありがとう」
「いいよ。どういう事情があるのか知らないけど、しばらくはうちで休んで行くといい。君、名前はあるの?」
「名前。わたしの、名前は……」
うまく思い出せない。ここに来るまでの記憶が曖昧だ。
思い出そうとすると、頭痛がした。
「わからない? それとも言えないのかな。いいんだよ、無理に言わなくて」
「いいえ。思い出せないの」
「そっか。倒れていたのを見つけたとき頭から血が流れていたから、一応手当はしたんだけど、そのショックで記憶が曖昧になっているのかもしれないね。羽の方はどうだい?」
「……羽?」
彼にその言葉を言われて、背中の感触に意識が向く。
「……これは」
「何って、羽だろう?」
「……羽」
自分の体を見る。
痩せた腕。カラスの骨のような細い指。
背中にある確かな感触。
「わたしは……人間なの?」
「人間ではないと思うよ」
彼は本から顔を上げると、そう言った。
「多分あれじゃないかな。天使」
天使。
背中に回した指先が、白く滑らかな肌触りに触れた。
硬く、しなやかなその羽は、血の通ったあたたかさを持っていた。
「驚いた。君は本当に飛べるんだね、ベラ」
「当たり前じゃない。そのためにこの羽はあるのよ」
天井付近を漂うわたしを見て、青年は珍しいものを見たなあとうんうん頷いていた。
わたしが青年の家で匿われてから、一ヶ月が過ぎた。
彼の名前はトト。高層ビルの最上階に住むくらいにはお金持ちで、わたしを匿うのくらいなんてことないそうだ。
彼の話によると、わたしが倒れていたのは高層ビルの間の路地で、まるで高いところから落ちたかのような怪我をしていたという。
ここに来るまでの記憶は曖昧だが、状況から考えて、おそらくわたしは飛んでいたのだろう。
もしくは、飛ぼうとした。
そして、落ちた。
彼はわたしに名前をつけてくれた。意味はわからないが、ベラという音は気に入っている。
わたしは彼の用意する食事を食べ、彼の買って来る本を暇つぶしに読んで過ごした。
食事を共にすることはなかった。仕事で忙しい彼は、いつも外で食事を済ませてから帰って来る。
わたしは人間ではないのかもしれないが、初めから彼の言う言葉はわかったので、文字というものもすんなり頭に入ってきた。
幼児向けの絵本から始まり、今では高度な学術書でも抵抗なく読むことができる。しかしわたしの興味は、もっぱら外の世界を映した写真集に向いていた。
見渡す限りの草原に、果てのない海。宇宙から見たこの星は青いという。
美しいものは好きだ。外の世界は人間の形をしていない者にとっては危ないとトトに教わったものの、いつしか外の世界に憧れが募って行くのを止められなくなっていた。
空の見えるこの部屋と、トト。
それがわたしの世界のすべてだった。
二ヶ月が経った頃、わたしは彼の部屋で一冊の本を見つけた。
人類の歴史について書かれた本だった。
本によると、数百年前、トトたちは別の星からこの星にやってきて、繁殖を始めたらしい。
当時この星を支配していたのは、トトたちにそっくりな見た目の生物だった。
しかし知性こそあったものの、科学や文化はそこまで発達しておらず、トトたち異星人の科学力と兵力に、その生物たちはなす術もなく敗北した。
そしてトトたちは、その生物たちを家畜として飼うことにした。
発情期もなく、年中交尾して繁殖が可能で、雑食だったその生物たちは、とても育てやすく、増やしやすかった。
こうしてその生物は、トトたちの良質な食糧になった。
食糧が確保できた後は、より育てやすくおいしい食糧にするべく、彼らを交配させ、遺伝子改良して他の生物の特徴を取り込むことが積極的に行われた。
下半身が魚のもの、馬の半身を持つもの、髪の代わりに蛇の上半身が生えたもの。
そして、背中に鳥の羽があるもの。
改良されたそれらは、やがて愛玩動物として流通するようになった。
遺伝子をいじられる前、その生物たちは、自分たちのことを、「人間」と呼んでいたらしい。
人類は家畜に堕ちたのだ。
胃の中身がこみ上げてきた。両手で口元を押える。
こらえきれず、わたしは床に嘔吐した。
彼が用意してくれた食事。調理された美味しい肉。
胃の中身を全て吐き切るまで、嘔吐は止まらなかった。
そうか。
わたしは自分のことを、人間だと思っていたんだな。
本の中に、天使について解説しているページを見つけた。
鳥の遺伝子を組み込んだ人間。
様々な種類の鳥との交配が試験されたが、中でもうまく行き、ダントツで人気なのは、白い羽をもつ鳥との交配だそうな。
ペット用に交配された種のため、逃げ出すことがないよう、実際には飛べないように羽のサイズが設計されているという。
人間サイズにそのまま拡大した鳥の羽をつけたところで、本来なら飛べるはずがないのだそうだ。人体のままでは、羽を動かすための胸筋が足りないらしい。
どうやらわたしは、ペットとしては致命的な欠陥を抱えた失敗作のようだ。
うっすらと記憶が蘇る。
トトに拾われる前、わたしは、わたしは、ペットショップに輸送される途中だった。
飛べないものと高をくくった異星人たちの元から、必死に羽ばたいて逃げ出した。
やがてわたしは力尽き、ビルの隙間に落ちた。
「人間ではないと思うよ」
「多分あれじゃないかな。天使」
「驚いた。君は本当に飛べるんだね、ベラ」
彼の言った言葉の意味が、今ならはっきりわかる。
彼にとって「人間」とは、食用の人類のことだ。
彼のいう通り、わたしは人間ではない。
愛玩用の人類だからだ。
本当は飛べるはずのない、天使。
ペットにつける、人気の名前一覧が書いてあった。
人間が犬や猫につけていた名前を、愛玩用の人間につけるのが流行っているらしい。趣味の悪い異星人だと思った。
彼はわたしの名前を尋ねるとき、「名前はあるの?」と尋ねた。
「名前はなんていうの?」ではなく。
「この子犬、名前はもうあるの?」というわけか。
アメリカで流行っていた、雌犬につける一番人気の名前は、ベラだった。
気がつくと、わたしは飛んでいた。
床を蹴り、思い切り跳ね上がり、背中の白い羽を大きくはためかせ、力強く羽ばたく。
ガラスの天井を突き破ると、青空の下にいた。
この感情はなんなのだろう。
彼と過ごしたこの二ヶ月は、なんだったのだろう。
彼は確かに優しかった。
野良犬に。
どうして野良犬にも感情があるんだろう。
白い砂浜だった。
顔を上げると、頰についた砂つぶがさらさらと落ちる。
身を起こし、辺りを見回した。
海だ。
写真の中でしか見たことのない、広い海。
渡り鳥には、生まれつき海の先を見る感覚があるという。
わたしの中の鳥の部分が、ここへ連れてきたのか。
綺麗だった。
初めて見る本物の海は、本当に果てなく広がっていて、嘘みたいに澄んでいた。
こうして波の音を聞きながら水辺を眺めていると、人類が家畜に堕ちたことも、背中の羽も、嘘みたいだった。
わたしの中の人の部分が、そう思わせるのか。
「ねえ、君。大丈夫?」
不意に、後ろから声をかけられた。
聞き覚えのある声に、驚いてわたしは振り向いた。
「……トトなの? どうして……!」
「落ち着いて。僕はトトじゃない。ジョエルだよ」
錯乱するわたしに、トトの顔をした青年はそう名乗った。
意味がわからなかった。
こんなところまで逃げて来たのに、トトは追って来たのだろうか。どうして別の名前を名乗るのだろうか。わたしにわからないとでも思っているのだろうか。ペットは知能が低いとでも、思っているのだろうか。
「いや! 来ないで!」
暴れ始めたわたしを、彼は両手を上げて敵意がないことを示しながら、必死になだめた。
「落ち着いてってば! 大丈夫だよ、何もしない。何もしないから」
ジョエルと名乗る青年の言葉を、どこまで信じていいのかわからなかった。
しかし少なくとも、トトはそんな必死なそぶりを見せたことなどなかった。
今のジョエルの方が、よっぽど人間臭い気がした。
ここまで海を飛んで来た疲労もあってか、やがてわたしは落ち着くと、抵抗を諦めて彼の話を聞いた。
彼はこの島に何人かで暮らしているらしい。
わたしが流れ着いたのはたまたまなのか、それとも、巣に帰る渡鳥の本能だろうか。
彼の言葉を信じるならば、彼は異星人ではなく、本物の人間だった。
彼らは天使のわたしを快く迎え入れてくれた。
わたしを見つけたのもジョエルと名乗ったあの青年が最初ではなく、他の住人だった。
「たいへんだったのよ。あなたの羽、水を吸って重くて仕方なかったんだから」
彼女は裸の胸元を隠そうともせずそういった。尾びれがぱちゃんと音を立てて海面を叩いた。
わたしを拾ってくれたのは、この島に住む人間のひとりだった。人間といっても、彼女はわたしと同じで、愛玩用に改造された人類だ。
わたしと違うのは、下半身が虹色にきらめく美しい鱗に覆われた、魚であるというところ。
アンナと呼ばれた彼女は、人魚と呼ばれるタイプの種だった。
島の端にある入江に住む彼女とは、よく話をした。
アンナは人間のところをなんとか逃げて来て、下水を通って海に出たらしい。そしてこの島に泳ぎ着いた。
「だって上半身も魚のやつとセックスさせられるのよ。ほんとキモい。あり得なくない?」
「上半身も、って、それ全身魚じゃない」
「そ、ただのでかい魚! しかもあいつら、ところ構わずぶっかけてくるの。ほんと無理」
あけすけな性格で人魚の彼女とは気が合った。
わたしは森に居ついて、木の実なんかを食べて細々と生きている。
ジョエルは時々わたしやアンナの元にやって来て、食料を分けてくれた。
トトと顔が同じなのは、どうやら本当に偶然らしい。話をするうちに、中身が全く違うことがわかった。
彼らはわたしのことを、羽があるだけの同じ人間として扱ってくれた。
わたしはジョエルの元で、ときどき高いところにものを設置するような仕事を手伝った。
アンナも海で魚を獲って、ジョエルたちに分けてあげているらしい。
ここでは彼女は漁が得意なただの女の子で、わたしは高いところに手がとどく、ただの女の子だった。
ある日わたしは、ジョエルに呼び出された。
出会ったのと同じ白い浜辺を、月明かりが一層白く照らしていた。
「ベラ。聞いて欲しいことがあるんだ」
「なに。ジョエル」
「好きだ。愛している。僕と一緒になってくれないか」
月の光は青白かった。海はより青く、砂浜はより白く、彼の顔は綺麗だった。
「ごめんなさい、トト。やっぱりわたし、ペットとして愛されるのには、耐えられそうもないわ」
「……ベラ?」
呆然とする彼の前で、わたしはゆっくりと羽を広げた。
やっぱりここは、異星人の島だったんだな。
追いすがる彼の声は遠く、なにを言っているかは聞き取れなかった。
わたしは黒く、青白い海を飛んだ。
降りる場所がどこにも見えなくなるまで飛んだ。
わたしの頭は、とっくにおかしくなっていたのだろう。
いつからかはわからない。
始めからかもしれない。
でなければ、トトも、ジョエルも、アンナも、みんな好きになんて、ならないはずだ。
異星人も、人間も、人魚も、わたしにはわからなかった。
トトとジョエルの区別は、最後までつかなかった。
わたしは天使だったから。
わたしは自分のことを人間だと思っていたが、きっとそれは間違いだったのだろう。
ペットは飼い主のことを、どのくらい好きになるのだろうか。
高く、高く飛び続けて、薄く冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んで、最後にわたしが見たものは、トトの部屋で、写真で見たのと同じ景色だった。
ああ。
この星は、本当に青いんだな。
家畜は飼い主に、恋をするのだろうか。
体が重い。背中のあたりに違和感があった。
「気がついたかい」
ベッドの横には椅子があった。腰掛けて読書していた青年が、わたしが目覚めたのに気づいたのか、声を発した。
「……ここはどこ?」
「ここは僕の部屋だよ。道に倒れていた君を拾って来たんだ」
読んでいた本から顔を上げずに、彼は答えた。
「……ありがとう」
「いいよ。どういう事情があるのか知らないけど、しばらくはうちで休んで行くといい。君、名前はあるの?」
「名前。わたしの、名前は……」
うまく思い出せない。ここに来るまでの記憶が曖昧だ。
思い出そうとすると、頭痛がした。
「わからない? それとも言えないのかな。いいんだよ、無理に言わなくて」
「いいえ。思い出せないの」
「そっか。倒れていたのを見つけたとき頭から血が流れていたから、一応手当はしたんだけど、そのショックで記憶が曖昧になっているのかもしれないね。羽の方はどうだい?」
「……羽?」
彼にその言葉を言われて、背中の感触に意識が向く。
「……これは」
「何って、羽だろう?」
「……羽」
自分の体を見る。
痩せた腕。カラスの骨のような細い指。
背中にある確かな感触。
「わたしは……人間なの?」
「人間ではないと思うよ」
彼は本から顔を上げると、そう言った。
「多分あれじゃないかな。天使」
天使。
背中に回した指先が、白く滑らかな肌触りに触れた。
硬く、しなやかなその羽は、血の通ったあたたかさを持っていた。
「驚いた。君は本当に飛べるんだね、ベラ」
「当たり前じゃない。そのためにこの羽はあるのよ」
天井付近を漂うわたしを見て、青年は珍しいものを見たなあとうんうん頷いていた。
わたしが青年の家で匿われてから、一ヶ月が過ぎた。
彼の名前はトト。高層ビルの最上階に住むくらいにはお金持ちで、わたしを匿うのくらいなんてことないそうだ。
彼の話によると、わたしが倒れていたのは高層ビルの間の路地で、まるで高いところから落ちたかのような怪我をしていたという。
ここに来るまでの記憶は曖昧だが、状況から考えて、おそらくわたしは飛んでいたのだろう。
もしくは、飛ぼうとした。
そして、落ちた。
彼はわたしに名前をつけてくれた。意味はわからないが、ベラという音は気に入っている。
わたしは彼の用意する食事を食べ、彼の買って来る本を暇つぶしに読んで過ごした。
食事を共にすることはなかった。仕事で忙しい彼は、いつも外で食事を済ませてから帰って来る。
わたしは人間ではないのかもしれないが、初めから彼の言う言葉はわかったので、文字というものもすんなり頭に入ってきた。
幼児向けの絵本から始まり、今では高度な学術書でも抵抗なく読むことができる。しかしわたしの興味は、もっぱら外の世界を映した写真集に向いていた。
見渡す限りの草原に、果てのない海。宇宙から見たこの星は青いという。
美しいものは好きだ。外の世界は人間の形をしていない者にとっては危ないとトトに教わったものの、いつしか外の世界に憧れが募って行くのを止められなくなっていた。
空の見えるこの部屋と、トト。
それがわたしの世界のすべてだった。
二ヶ月が経った頃、わたしは彼の部屋で一冊の本を見つけた。
人類の歴史について書かれた本だった。
本によると、数百年前、トトたちは別の星からこの星にやってきて、繁殖を始めたらしい。
当時この星を支配していたのは、トトたちにそっくりな見た目の生物だった。
しかし知性こそあったものの、科学や文化はそこまで発達しておらず、トトたち異星人の科学力と兵力に、その生物たちはなす術もなく敗北した。
そしてトトたちは、その生物たちを家畜として飼うことにした。
発情期もなく、年中交尾して繁殖が可能で、雑食だったその生物たちは、とても育てやすく、増やしやすかった。
こうしてその生物は、トトたちの良質な食糧になった。
食糧が確保できた後は、より育てやすくおいしい食糧にするべく、彼らを交配させ、遺伝子改良して他の生物の特徴を取り込むことが積極的に行われた。
下半身が魚のもの、馬の半身を持つもの、髪の代わりに蛇の上半身が生えたもの。
そして、背中に鳥の羽があるもの。
改良されたそれらは、やがて愛玩動物として流通するようになった。
遺伝子をいじられる前、その生物たちは、自分たちのことを、「人間」と呼んでいたらしい。
人類は家畜に堕ちたのだ。
胃の中身がこみ上げてきた。両手で口元を押える。
こらえきれず、わたしは床に嘔吐した。
彼が用意してくれた食事。調理された美味しい肉。
胃の中身を全て吐き切るまで、嘔吐は止まらなかった。
そうか。
わたしは自分のことを、人間だと思っていたんだな。
本の中に、天使について解説しているページを見つけた。
鳥の遺伝子を組み込んだ人間。
様々な種類の鳥との交配が試験されたが、中でもうまく行き、ダントツで人気なのは、白い羽をもつ鳥との交配だそうな。
ペット用に交配された種のため、逃げ出すことがないよう、実際には飛べないように羽のサイズが設計されているという。
人間サイズにそのまま拡大した鳥の羽をつけたところで、本来なら飛べるはずがないのだそうだ。人体のままでは、羽を動かすための胸筋が足りないらしい。
どうやらわたしは、ペットとしては致命的な欠陥を抱えた失敗作のようだ。
うっすらと記憶が蘇る。
トトに拾われる前、わたしは、わたしは、ペットショップに輸送される途中だった。
飛べないものと高をくくった異星人たちの元から、必死に羽ばたいて逃げ出した。
やがてわたしは力尽き、ビルの隙間に落ちた。
「人間ではないと思うよ」
「多分あれじゃないかな。天使」
「驚いた。君は本当に飛べるんだね、ベラ」
彼の言った言葉の意味が、今ならはっきりわかる。
彼にとって「人間」とは、食用の人類のことだ。
彼のいう通り、わたしは人間ではない。
愛玩用の人類だからだ。
本当は飛べるはずのない、天使。
ペットにつける、人気の名前一覧が書いてあった。
人間が犬や猫につけていた名前を、愛玩用の人間につけるのが流行っているらしい。趣味の悪い異星人だと思った。
彼はわたしの名前を尋ねるとき、「名前はあるの?」と尋ねた。
「名前はなんていうの?」ではなく。
「この子犬、名前はもうあるの?」というわけか。
アメリカで流行っていた、雌犬につける一番人気の名前は、ベラだった。
気がつくと、わたしは飛んでいた。
床を蹴り、思い切り跳ね上がり、背中の白い羽を大きくはためかせ、力強く羽ばたく。
ガラスの天井を突き破ると、青空の下にいた。
この感情はなんなのだろう。
彼と過ごしたこの二ヶ月は、なんだったのだろう。
彼は確かに優しかった。
野良犬に。
どうして野良犬にも感情があるんだろう。
白い砂浜だった。
顔を上げると、頰についた砂つぶがさらさらと落ちる。
身を起こし、辺りを見回した。
海だ。
写真の中でしか見たことのない、広い海。
渡り鳥には、生まれつき海の先を見る感覚があるという。
わたしの中の鳥の部分が、ここへ連れてきたのか。
綺麗だった。
初めて見る本物の海は、本当に果てなく広がっていて、嘘みたいに澄んでいた。
こうして波の音を聞きながら水辺を眺めていると、人類が家畜に堕ちたことも、背中の羽も、嘘みたいだった。
わたしの中の人の部分が、そう思わせるのか。
「ねえ、君。大丈夫?」
不意に、後ろから声をかけられた。
聞き覚えのある声に、驚いてわたしは振り向いた。
「……トトなの? どうして……!」
「落ち着いて。僕はトトじゃない。ジョエルだよ」
錯乱するわたしに、トトの顔をした青年はそう名乗った。
意味がわからなかった。
こんなところまで逃げて来たのに、トトは追って来たのだろうか。どうして別の名前を名乗るのだろうか。わたしにわからないとでも思っているのだろうか。ペットは知能が低いとでも、思っているのだろうか。
「いや! 来ないで!」
暴れ始めたわたしを、彼は両手を上げて敵意がないことを示しながら、必死になだめた。
「落ち着いてってば! 大丈夫だよ、何もしない。何もしないから」
ジョエルと名乗る青年の言葉を、どこまで信じていいのかわからなかった。
しかし少なくとも、トトはそんな必死なそぶりを見せたことなどなかった。
今のジョエルの方が、よっぽど人間臭い気がした。
ここまで海を飛んで来た疲労もあってか、やがてわたしは落ち着くと、抵抗を諦めて彼の話を聞いた。
彼はこの島に何人かで暮らしているらしい。
わたしが流れ着いたのはたまたまなのか、それとも、巣に帰る渡鳥の本能だろうか。
彼の言葉を信じるならば、彼は異星人ではなく、本物の人間だった。
彼らは天使のわたしを快く迎え入れてくれた。
わたしを見つけたのもジョエルと名乗ったあの青年が最初ではなく、他の住人だった。
「たいへんだったのよ。あなたの羽、水を吸って重くて仕方なかったんだから」
彼女は裸の胸元を隠そうともせずそういった。尾びれがぱちゃんと音を立てて海面を叩いた。
わたしを拾ってくれたのは、この島に住む人間のひとりだった。人間といっても、彼女はわたしと同じで、愛玩用に改造された人類だ。
わたしと違うのは、下半身が虹色にきらめく美しい鱗に覆われた、魚であるというところ。
アンナと呼ばれた彼女は、人魚と呼ばれるタイプの種だった。
島の端にある入江に住む彼女とは、よく話をした。
アンナは人間のところをなんとか逃げて来て、下水を通って海に出たらしい。そしてこの島に泳ぎ着いた。
「だって上半身も魚のやつとセックスさせられるのよ。ほんとキモい。あり得なくない?」
「上半身も、って、それ全身魚じゃない」
「そ、ただのでかい魚! しかもあいつら、ところ構わずぶっかけてくるの。ほんと無理」
あけすけな性格で人魚の彼女とは気が合った。
わたしは森に居ついて、木の実なんかを食べて細々と生きている。
ジョエルは時々わたしやアンナの元にやって来て、食料を分けてくれた。
トトと顔が同じなのは、どうやら本当に偶然らしい。話をするうちに、中身が全く違うことがわかった。
彼らはわたしのことを、羽があるだけの同じ人間として扱ってくれた。
わたしはジョエルの元で、ときどき高いところにものを設置するような仕事を手伝った。
アンナも海で魚を獲って、ジョエルたちに分けてあげているらしい。
ここでは彼女は漁が得意なただの女の子で、わたしは高いところに手がとどく、ただの女の子だった。
ある日わたしは、ジョエルに呼び出された。
出会ったのと同じ白い浜辺を、月明かりが一層白く照らしていた。
「ベラ。聞いて欲しいことがあるんだ」
「なに。ジョエル」
「好きだ。愛している。僕と一緒になってくれないか」
月の光は青白かった。海はより青く、砂浜はより白く、彼の顔は綺麗だった。
「ごめんなさい、トト。やっぱりわたし、ペットとして愛されるのには、耐えられそうもないわ」
「……ベラ?」
呆然とする彼の前で、わたしはゆっくりと羽を広げた。
やっぱりここは、異星人の島だったんだな。
追いすがる彼の声は遠く、なにを言っているかは聞き取れなかった。
わたしは黒く、青白い海を飛んだ。
降りる場所がどこにも見えなくなるまで飛んだ。
わたしの頭は、とっくにおかしくなっていたのだろう。
いつからかはわからない。
始めからかもしれない。
でなければ、トトも、ジョエルも、アンナも、みんな好きになんて、ならないはずだ。
異星人も、人間も、人魚も、わたしにはわからなかった。
トトとジョエルの区別は、最後までつかなかった。
わたしは天使だったから。
わたしは自分のことを人間だと思っていたが、きっとそれは間違いだったのだろう。
ペットは飼い主のことを、どのくらい好きになるのだろうか。
高く、高く飛び続けて、薄く冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んで、最後にわたしが見たものは、トトの部屋で、写真で見たのと同じ景色だった。
ああ。
この星は、本当に青いんだな。
家畜は飼い主に、恋をするのだろうか。
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