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中編
しおりを挟む父親の記憶はないが、母親の記憶なら朧げにある。
母は歌が上手かった。
寝苦しい夏も、寒々しい冬も、怖い夢を見た夜だって、まるでお伽話に登場する魔法使いのように、母が歌えばすぐに寝れた。
そんな母は、事あるごとに俺に言っていたことがあった。
『お母さんはね、貴方が大好きなの。お父さんはいなくなってしまったけれど、貴方がいてくれたから私は幸せなの。だからね、大好きな貴方に、一つだけおまじないをあげる。いつか心の底から願ったことが、一つだけ叶いますように………』
そんな母も、流行病であっさりと逝ってしまった。悲しむ暇なんてなく生活に困窮し、その果てにアイツに拾われた。
俺の人生に何か意味があったのか、それは分からないけど。王弟殿下の役に少しでも立てたなら良かったな。
……本当に願いが一つだけ叶うなら……もしもまた生まれ変わったら…汚れていない真っさらなまま、貴方の傍にいることを願っても、いいかな…。
ぱちり、と目が開いた。
冴えるように覚醒した、視界一面に広がる真っ青な空。鳴きながら頭上を飛ぶカモメに、波の音。
ガバリと身を起こしたそこは海辺だった。
とても明確な感覚にまだ生きていることを確信して、ほんの少しの落胆。俺は一か八かの賭けに勝ってしまったみたいだ。
あの崖は断崖絶壁だけど、満ち潮のときはかなり水位が上がる。入水さえ気をつければ助かる確率は高い。…それでも博打には変わりないけど。
だからアイツはあそこに追い詰められるようにしたんだ。万が一の時は飛び込む覚悟を持って。俺はそんなつもりは毛頭なかったのだけれど、どうやら生き延びて…
「……うん?」
なんだ?なんか…手が小さいような…んん、服も濡れていて気づかなかったけど、なんかサイズが大きいような……。
疑問に思って水面に映った姿を確認すると、見慣れた顔が何故か成人前の容貌になっていて、暫く目の前の光景が信じられずに呆然と見下ろした。
「………どう、して…」
手を汚す前の、姿だ。まだ何も罪を犯していない頃の…。
そこまで思い至って、ふと浮かんだのは落ちる瞬間に願ったことと、母の言葉。
『いつか心の底から願ったことが、一つだけ叶いますように…』
「…………そんなこと、が…」
流石に、死んだ人間を生き返らせる能力は聞いたことがない。母の言葉が本当なら、おそらく俺は運良く生き延び、落ちているときの願いに呼応して身体が手を汚す前まで縮んだ。
俺が、生まれ変わって真っさらなまま王弟殿下の傍にいたいと、願ったから…。
「………でも、生まれ変わったわけじゃ、ない」
俺が手を汚したのも、王弟殿下を裏切った事実も、何一つとして変わらない。
こんな中途半端に叶うぐらいなら、いっそのこと………
わぁっ‼︎とどこからか歓声が上がったのが聞こえた。
驚いて振り返ると、街の方からだろうか…歓声が響いていた。まるで英雄が凱旋したかのような声。
それは、隣国での王弟殿下が任務から戻ったときのものと似ていて。もしかして…という可能性が浮かび、うずうずとした身体を抑えられずに立ち上がった。
街の中心部に向かう途中で大きさの合わなくなった服を脱いで捨て、少し裕福そうな家から干されていた服を一組頂戴した。…あまり良い生地でもないし、さほど問題はないはず。靴はなかったので、適当な布を巻きつけておいた。
全裸で歩き回るよりはマシな格好になった後、やけに人通りの少ない道を小走りで駆け大通りに出ると、パレードでもやっているかのように道端に人が密集していた。
縮んでしまった身長を歯痒く思いながら、どうにか見えないかと背伸びしたり跳ねたりしてみたが、駄目だった。
ふと、落ちた視線の先に木箱が積み上げられているのを見つけて、これなら‼︎とよじ登り、開けた視界にーーやはり、その方はいた。
短く整えた美しい鳶色の髪を風に遊ばせ、透き通った硝子のような淡い色の瞳をいつもよりほんの少し緩ませて、周りの歓声に応える堂々たる姿の、王弟殿下。
その姿を少し後ろから眺めていた昨日までの記憶が、とても遠い過去のように思えた。
今更ながらに王弟殿下との立場の違いを思い知らされたような気がした。
生まれ変わったら、なんて願ったけど…それはとても烏滸がましいものだった。あの素晴らしいお方を裏切っておいて…どの面を下げて傍に居たいと願ってしまったのか。
なんだか急にとんでもない羞恥心が込み上げてきて、こんな孤児のような子供を気にかける人などいないのに、居た堪れなくなって大通りから逃げ出した。
人目につくのも嫌になって、能力で駆けながら辿り着いたのは隣国の王都の端。
王弟殿下から、憩いの場所として連れてきてもらった、森に入って少しした場所にある小さな湖だった。
流石にもう能力を使う体力もなくなって、湖の近くに突き出している石の上に座った。
「…………、」
いつのまにか日が暮れ、夜が顔を出した空に浮かぶ月。
湖に反射して映るそれがあまりにも綺麗で、しばらく魂が抜けたように眺め、ふと頭に浮かぶ現状。
ーーこれから、どうしたらいいのだろう…。
成人前まで縮んだ身体に、頼れる大人も、居場所もないこの状況。
途方に暮れるしかなく、頭上の月を見上げていた視線が徐々に落ちて湖面に反射する月を捉え、誘われるように腰を上げた。
湖のほとりで足を止め、静かに凪ぐ湖面を見下ろして、
「…このまま………」
一歩、踏み出し。片足が僅かに水に浸かった瞬間ーー背後からガサリ、と草木を掻き分ける音がした。
反射的に振り返ったそこにいたのは、息を弾ませた王弟殿下で。思ってもみなかった人物の登場に頭が真っ白になる。
ーーなんで、どうして、……あぁ、息抜きに来たんだ。
ここは王弟殿下の憩いの場所。色々とあって疲れているだろうし、休憩しに来たとしてもおかしくない。なら、このまま森の奥に逃げ、いや、それだと王弟殿下は心配して追ってきてしまう。街の方に逃げよう。
瞬時にそう判断し、能力は使えないので普通に駆けーーようと、した。
「ーー待て‼︎リィル‼︎」
名を呼ばれ、当然のように身体が停止してしまった。自分の失態に気付いたときには既に遅く、王弟殿下に腕を掴まれていた。
「…はぁ、やっと捕まえた…」
「…っ⁉︎」
色んな疑問が頭を渦巻くが、安堵したようにそう呟いた王弟殿下に腕を引かれ、背後から抱きしめられて思考が停止する。
ぴしりと固まった俺をキツく抱きしめ、王弟殿下は俺の髪に頬擦りし、深く息を吐き出した。
「……ふぅ、色々と聞きたいことも言いたいこともあるが、まずは私の邸に戻って着替えと食事だな」
「⁉︎」
まるで決定事項のように告げられたことに、とんでもない‼︎と王弟殿下の腕の中で身を捩って、振り返った。
「…離し……‼︎」
「却下だ。観念しろ」
「……んぅ⁉︎」
腕の拘束が緩まったと思ったら両頬を包まれて、突然かぶりつくようにキスされた。
そういったことに全く耐性のない俺は、遠慮も配慮もなく口内を掻き回されて、混乱と酸欠であっさりと意識を手放してしまった。
「…まったく。アレが捕まれば自然な形でこちらに繋ぎ止められると思っていたが、リィル…お前の行動力と判断力を見誤っていた。
ーーもう逃さない。覚悟しろよ」
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