少女が銃を手にした理由

カクア

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エピローグ

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あれから一ヶ月が経った。九月の風は、夏の残滓を優しく洗い流していく。紫藤澄香は、鏡の前に立ち、自分の姿を見つめていた。あの事件の後、自分を縛り付けていた何かを断ち切るように、胸元まであった長い髪をばっさりと切った。今は肩のあたりで切り揃えられた髪が、首を傾げるたびにさらりと揺れる。それは、過去の自分との、ささやかな決別だった。制服のブラウスのボタンを、一つ一つ丁寧に留めていく。鏡に映る自分の瞳は、もうあの頃のように怯えてはいなかった。嵐が過ぎ去った後の湖のように、穏やかで、静かな光を宿している。

もちろん、全てが消え去ったわけではない。ふとした瞬間に、満員電車の圧迫感や、男性の低い声に、心臓が凍り付くことはまだある。夜中に、あの男の憎悪に満ちた目や、窓から落ちていく最後の瞬間を夢に見て、汗びっしょりで飛び起きることも。男から受けた凌辱に、嘔吐することも。だが、そんな時、澄香は自分の部屋のベッドの上で、荒い呼吸を整えながら、ミサが教えてくれた言葉を、お守りのように心の中で繰り返すのだ。『体と心は、違うものだよ』。恐怖に震えるのは体の反応。私の心は、もうあの男の支配下にはない。自宅の、慣れ親しんだ部屋の静けさの中で、そう自分に言い聞かせると、不思議と呼吸が楽になった。

学校での日々も、少しずつ変わり始めていた。事件のことは、ごく一部の教師と警察関係者、そして城崎がうまく立ち回ったおかげで、大事にはならなかった。教室では相変わらず遠巻きにされているが、以前のような悪意のこもった視線は減ったように感じられた。澄香は、もうその壁を気にしなかった。休み時間には、図書室で静かに本を読む。それは、孤独ではあったが、惨めではなかった。自分のための、穏やかな時間だった。

その日の放課後、澄香は駅前のカフェでミサと城崎に会っていた。澄香が呼び出したのだ。テーブルの上には、三つのカップが並んでいる。

「……助けてくれて、ありがとうございました」

澄香は深く頭を下げた。城崎は相変わらず飄々としていたが、その目には微かな労いが浮かんでいるように見えた。

「礼を言う必要はない。こっちの不始末に、あんたを巻き込んだだけだ。むしろ、迷惑をかけた」

彼はそう言うと、ミルクティーを一口啜った。

「あの人は……」

「正当防衛が認められた。まあ、俺が少し手を回したがな」城崎はこともなげに言った。「奴が持ってた動画データも全て警察が押収し、証拠として処理された。二度と世に出ることはない。奴自身も、今回の件と過去の余罪で、当分は塀の中から出てこれん」

その言葉に、澄香はずっと胸につかえていた最後の棘が抜けていくのを感じた。

「ミサちゃんも、本当にありがとう。ミサちゃんがいなかったら、私、きっとダメだった」

澄香が隣に座るミサに向き直ると、彼女は首を振ってにこりと笑った。

「私は、何もしてないよ。澄香が、自分で立ち上がっただけ。自分の足で、自分の力でね」

その笑顔は、澄香の心を温かくする。どうしても、聞いておきたいことがあった。

「ねえ、ミサちゃんは……本当は、何者なの? どうして、あんなに……」

大人びていて、人の心がわかるの、と続けようとした言葉を、ミサは悪戯っぽい笑みで遮った。

「さあ? 魔女に呪いをかけられて、大人になれなくなっちゃった、ただの女の子だよ。信じる?」

その答えは、あまりにも荒唐無稽で、けれど、ミサが言うと不思議な説得力があった。澄香は、それ以上聞くのはやめた。この謎は、謎のままでいいのかもしれない。ミサが、自分にとって大切な友達であるという事実さえあれば、それで十分だった。

「じゃあ、俺たちはこれで」

城崎が立ち上がり、伝票を掴んだ。

「もし、また何か理不尽な目に遭ったら、これを」

城崎は一枚の名刺をテーブルに置いた。『城崎探偵事務所』とだけ書かれている。

「まあ、もうあんたに俺の助けは必要ないだろうがな」

そう言って、城崎は先に店を出て行った。ミサも立ち上がり、澄香に手を振る。

「元気でね、澄香。いつでも連絡して。またクッキー焼こうね」

「うん、またね!」

一人残されたカフェで、澄香は窓の外を眺めた。雑踏に消えていく二人の後ろ姿。彼らは、澄香の日常に現れた、一夏の嵐のようだった。嵐は多くのものを奪っていったが、同時に、新しい景色ももたらしてくれた。澄香はミルクティーの最後の一口を飲み干し、静かに席を立った。

翌日の朝、教室へ向かう廊下で、澄香はクラスメイトの一人に声をかけられた。

「紫藤さん、おはよう」

それは、以前「顔色が悪い」と心配してくれた女子生徒だった。確か、鈴木さん、という名前だったはずだ。以前の澄香なら、俯いて通り過ぎてしまっていたかもしれない。だが、今は、ちゃんと相手の目を見て、微笑み返すことができた。

「おはよう、鈴木さん」

「あのね、よかったら、今日のお昼、一緒に食べない? 図書室で読んでる本、私も興味あるんだ」

「……うん!」

驚きと、込み上げてくる喜びで、声が少し上擦った。鈴木さんは嬉しそうに笑うと、「じゃあ、お昼にね」と言って自分の席へ向かった。

澄香は自分の席に着き、窓から差し込む朝の光を見上げた。空は高く、どこまでも青い。問題が全て解決したわけではない。心に残った傷跡は、これからも時々、疼くことがあるだろう。けれど、もう一人じゃない。私の世界は、もう灰色一色ではない。澄香は、少し離れた席で友達と笑い合っている鈴木さんの横顔を見て、確かな一歩を未来へと踏み出した。
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