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剣士
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ミサに支えられ、澄香は震える足で事務所を出た。夜の街は、先ほどまでとは全く違う顔をしており、ネオンの光はただの色彩の洪水となり、雑踏のノイズは遠い背景音のように澄香の世界から隔絶されている。城崎という男とミサという少女、その二人の存在が、澄香と世界の間に一枚の薄い、しかし確かな隔壁を作ってくれたようだった。
「車を回してくる。ここで待ってろ」
城崎はそう言うと、一人で裏通りへと消えていった。ビルの入り口に残されたのは、澄香とミサの二人だけである。吹き抜ける夜風が火照った頬に冷たく、澄香は無意識に自分の身体を抱きしめていた。ミサはそんな澄香の様子を黙って見つめていたが、やがて静かに口を開く。
「まだ、怖いわね」
それは問いかけではなく、事実の確認だった。澄香がこくりと頷くと、ミサはふふ、と小さく笑った。
「当たり前よ。怖くない方がおかしいわ。でもね、澄香さん。一つだけ覚えておいて。あなたはもう一人じゃない」
その言葉は、先ほど事務所で手渡されたミルクティーのように、温かく澄香の心に染み渡った。一人じゃない。その実感が、恐怖に凍りついていた心をゆっくりと溶かし始めるのがわかる。やがて、通りの向かいに一台の黒いセダンが静かに停車し、運転席の城崎が手招きをしているのが見えた。
「さ、行きましょう。私たちの隠れ家へ」
ミサに促され、澄香は後部座席に乗り込んだ。車は音もなく夜の街を滑り出し、窓の外を流れていく景色にはもう現実感がない。まるで、自分だけが別の次元の物語に入り込んでしまったかのようだった。城崎は何も話さず、ただ前を見据えてハンドルを握っており、バックミラーに映る彼の目は、事務所にいた時と同じ、全てを見透かすような鋭さを湛えていた。
三十分ほど走っただろうか。車は都心から少し離れた、静かな住宅街の一角にある低層マンションの前で停まった。古いが、清潔に保たれている印象の建物だ。
「着いた。ここがセーフハウスだ。しばらくはここで暮らしてもらう」
城崎はエンジンを切ると、先に車を降りた。澄香とミサも後に続く。案内されたのは二階の角部屋で、城崎が鍵を開けてドアを押すと、生活感のない、しかし最低限の家具が整えられた空間が広がっていた。小さなリビングとキッチン、そして奥に二つの寝室。部屋の隅には、細い金属ポールでできた、シンプルなデザインのフロアランプがぽつんと立っている。モデルルームのように無機質だが、追われる身の澄香にとっては、これ以上ないほどの安息の地に思えた。
「さて、まずやるべきことがある」城崎は部屋の中を見渡し、澄香に向き直った。「ご両親のことはどうする。警察沙汰にしたくない以上、心配させずに時間を稼ぐ必要がある」
その言葉に、澄香ははっとした。恐怖と混乱で、両親のことまで頭が回っていなかったのだ。どうしよう、と顔を青くする澄香に、城崎は無表情のまま続けた。
「俺の用意した携帯から電話をかけろ。番号は非通知になる。話す内容はこうだ」彼は澄香の経歴を思い出していた。「中学の時の剣道部の仲間から、急に合宿に誘われた。携帯は練習中に壊れてしまったから、友達のを借りている。しばらく連絡が取れなくなる、とそう言え。声が震えれば怪しまれる。落ち着いて、事務的に伝えろ。できるな?」
澄香はこくりと頷き、震える手で渡された携帯電話を受け取った。剣道の合宿。中学時代に他の学校と合同合宿を行っていた澄香にとって、それはあまりにも自然で、説得力のある嘘だった。コール音が数回鳴った後、母親の心配そうな声が聞こえてくる。
「澄香?今どこにいるの!?」。その声を聞いた瞬間、涙が溢れそうになったが、隣に立つ城崎の冷たい視線を感じ、必死でこらえた。指示された通りの嘘を、なんとか感情を殺して言い切ると、母親は「昔のお友達と会えるなんて良かったじゃない」それは最近の澄香を、おぼろげながら察していた母親の言葉だった。「怪我には気をつけてね」言葉以外の想いが、澄香を支える。
「よし」城崎は携帯を回収すると、次に澄香が持っていたスクールバッグを無言で指さした。澄香はびくりと肩を震わせたが、おとなしくそれを差し出す。城崎はその中から例の拳銃だけを取り出すと、残りの教科書や文房具をベッドの上にぶちまけた。
「これは俺が預かる。お前が持っている必要はない」
その言葉に、澄香は安堵と、ほんの少しの不安を覚えた。あの鉄の塊は、恐怖の象徴であると同時に、唯一の護りでもあったからだ。城崎は澄香の複雑な表情を読み取ったのか、フッと鼻で笑った。
「安心しろ。奴がお前に手を出す前に、俺がカタをつける」
それは無責任な慰めではなく、プロフェッショナルの確約だった。城崎はミサにいくつか指示を与えると、「じゃあな」とだけ言い残し、嵐のように部屋を出て行った。再び静寂が訪れる。残された澄香とミサは、しばらく顔を見合わせていた。
「さて、と。まずはシャワーでも浴びたら?着替えは私が用意してあげる。城崎の置き土産だけど、ないよりはマシでしょ」
ミサはそう言って、クローゼットから大きめのTシャツとスウェットパンツを取り出した。澄香は言われるがまま、バスルームに向かう。温かいシャワーを浴びながら、今日一日で起きた出来事を反芻する。悪夢のような現実。しかし、今はミサがいる。城崎がいる。孤独ではない。その事実だけが、かろうじて澄香の正気を繋ぎとめていた。
その日から、澄香とミサの奇妙な共同生活が始まった。追われる身でありながらも、ミサと過ごす時間は穏やかで、澄香のささくれた心は少しずつ癒されていった。
ある夜、城崎は古い馴染みの情報屋から一本の電話を受けた。
「城崎さん、アンタが探してる男、当たりがついたぜ。右耳に包帯巻いたイカれた野郎が、例の沿線で若い女の写真見せて嗅ぎ回ってるってタレコミがあった。名前は分からねえが、ネットじゃちょっとした有名人らしい。自分の犯行を撮影して、闇サイトで流してるって話だ」
城崎の顔色が変わった。ただの常習痴漢ではない。自己顕示欲と支配欲に満ちた、より悪質で危険なタイプの犯罪者だ。彼は情報屋に礼を言うと、指定された闇サイトへアクセスした。そこには、目を覆いたくなるような光景が広がっていた。数々の盗撮動画と、盗撮だけではない、陰惨な動画。そして、最新の投稿には、こう記されていた。
『俺の芸術を穢した雌狐に、裁きを下す。見つけ出して、絶望の淵で鳴かせてやる』
城崎は即座にセーフハウスに電話をかけた。電話に出たのはミサだった。
「俺だ。状況が変わった。奴はただの変質者じゃない、裏家業に通じている。本格的に澄香の命を狙ってる。今すぐそこから動け。別の場所を用意する」
「分かったわ。でも、城崎。もう遅いかもしれない」
ミサの声が、普段の落ち着きを失って、硬く強張っていた。
「どういうことだ?」
「さっき、澄香さんが窓の外を見たの。向かいのビルの屋上に、男が立ってたって。双眼鏡で、こっちを見てたって…」
城崎は舌打ちした。見つけられた。どうやって。いや、今はそんなことを考えている場合ではない。男はセーフハウスの場所を特定した。ならば、次に行う行動は一つしかない。
「ミサ!今すぐ澄香を連れて裏口から逃げろ!奴は正面から来るぞ!」
城崎が叫んだ、その時だった。電話の向こうから、玄関のドアが激しく叩きつけられる轟音が響き渡った。一度、二度。そして、金属が歪む不快な音と共に、ドアが破壊された。
「見つけたぞ、ビッチ!!!」
憎悪に満ちた男の咆哮が、電話越しにまで聞こえてきた。受話器の向こうで、ミサの短い悲鳴と、何かが倒れる鈍い音が響く。そして、通信は途切れた。
「クソがッ!」
城崎は携帯を叩きつけるように切り、車のエンジンをかけた。全力でアクセルを踏み込む。だが、ここからセーフハウスまでは、最短でも十五分はかかる。間に合わない。
セーフハウスの中。玄関ドアは無惨に破壊され、あの男が仁王立ちになっていた。右耳は包帯で覆われ、その目は血走り、狂的な光を宿している。手には、金属バットが握られていた。男はゆっくりと、リビングへと足を踏み入れた。その奥の寝室のドアの前に、澄香が立ち尽くしている。顔は恐怖で真っ青になり、全身が小刻みに震えている。
「いい顔だ。その恐怖に歪んだ顔が見たかったんだよ」男は金属バットを弄びながら、悦に入ったように語り始めた。「あの時はよくもやってくれたな。おかげで俺の自慢の耳が台無しだ。そうだ、お前に良いものを見せてやろう」
男はポケットから何か小さなものを取り出し、汚れた指先でつまんで澄香の目の前に突き出した。米粒ほどの大きさの黒いチップ。microSDカードだ。澄香の心臓が氷の塊になった。
「見覚えあるだろ?お前が壊したスマホから、わざわざ取り出してやったんだよ」男は下卑た笑みを浮かべた。「中身はもちろん、最初の凌辱の記録だ。お前がどんな顔で、どんな声を出してたか、全部入ってる。これで、お前は永遠に俺のものだ」
その言葉は、澄香に残されていた最後の希望の欠片を、無慈悲に踏み砕いた。証拠は消えていなかった。自分の最も醜い、屈辱的な瞬間が、この男の手に握られている。
「まずはお前の手足を一本ずつ、このバットで砕いてやる。悲鳴を上げても誰も来ない。それから、この動画を再生しながら、お前が一番感じやすい場所を徹底的に嬲って、無理やりイかせてやる。お前のプライドが完全に壊れるまでな。そして最後は、お前の目の前で、この動画を世界中に配信してやる。お前の名前と学校も付けてな。お前の人生は、今日ここで、俺の手によって終わるんだよ」
絶望が澄香の全身を支配し、視界が白く点滅し始める。全身から、力が抜けていく。
その時。彼女の目に、男の足元に転がる小さな影が映った。ミサだ。リビングの入り口で、額から血を流し、ぴくりとも動かずに倒れている。自分より年下に見える小さな身体で、自分を庇おうとして、この男に突き飛ばされたのだ。
この人が、私を助けてくれた。
この人が、「一人じゃない」と言ってくれた。
この人が、傷つけられた。私のせいで。
脳内で、何かが焼き切れる音がした。恐怖を、絶望を、上回る熱い何かが腹の底から突き上げてくる。それは、自分を癒してくれた唯一の存在を守らなければならないという、原始的で、絶対的な衝動だった。
男が満足げにバットを振り上げた、その瞬間。澄香の脳裏に、ミサの言葉が稲妻のように蘇った。
『あなたの身体は、それを知っているはずよ。恐怖に蓋をされているだけで、忘れてはいない』
そうだ。忘れてなんかいない。澄香の目の色が変わった。恐怖に汚染されていた意識が急速に沈殿し、代わりに水面のように静かで冷たい集中力が浮かび上がってくる。目の前の男が、竹刀を構えた対戦相手の姿と重なった。振り下ろされるバットの軌道。速度。タイミング。全てが、研ぎ澄まされた感覚の中に吸い込まれていく。男が勝利を確信し、大上段にバットを振りかぶった、その最大の一瞬。
澄香は、後ずさりするのではなく、逆に一歩、鋭く踏み込んだ。それは、剣道における「入り身」の動きそのものだった。男の懐、攻撃の死角へ。空振りしたバットの勢いで、男の体勢がわずかに崩れる。その一瞬の隙(すき)を、澄香は見逃さなかった。彼女は部屋の隅に立っていた、あの金属製のフロアランプを右手で掴むと、シェードの部分を床に叩きつけて引きちぎった。残ったのは、人の身長ほどの長さの、頑丈な金属の棒。竹刀よりも重く、冷たい感触が、彼女の掌に封印していた闘争本能を呼び覚ます。
「なっ…!?」
予想外の抵抗に、男の顔に驚愕の色が浮かぶ。だが、もう遅い。澄香は、その金属棒を両手で握り締め、剣道の正眼の構えを取った。切っ先を、男の中心へ。彼女の思考から、恐怖も絶望も消えていた。ただ、倒れているミサと、目の前の敵を隔てる。その一点を守り抜くという、剣士としての純粋な意志だけが漲っていた。
「ああああっ!」
裂帛の気合いの叫びは、恐怖の悲鳴ではなかった。丹田から絞り出された、守るべき者のために発する咆哮だった。澄香は床を蹴った。腰の突きだし、腕の伸び、踏み込み足、全てが連動した完璧な「体当たり」に近い胸突き。金属棒はしなることなく、澄香の全身の勢いを乗せて、男の水月に突き刺さった。「ゴッ!」という骨と肉を打つ鈍い衝撃音と共に、男の巨体は鞠のように弾き飛ばされた。
「が、はっ…!」
人体の急所を突かれた男は息もできず、数メートルをなすすべもなく後退し、背中からリビングの大きな窓ガラスに叩きつけられた。バリケードが崩れるような派手な音を立てて、ガラス全面に亀裂が走る。男は衝撃で呼吸もままならず、蜘蛛の巣状に砕けたガラスに背を預けたまま、苦悶の表情でその場に崩れ落ちそうになった。
中学までの剣道経験しかない澄香は、突きを習っていない。だがそれは、澄香が必要に応じて繰り出した技だった。
澄香は攻めを緩めなかった。好機を逃せば、次は無い。一撃で崩した相手の体勢を立て直させない。それは剣道における鉄則だった。彼女の身体は、思考よりも速く、次の動作に移っていた。男が体勢を立て直すよりも早く、彼女はさらに一歩深く踏み込む。
二度目の突き。それはもう、相手を押し込むための一撃ではなかった。崩れた体勢の中心、がら空きになった胸元へ。澄香の構えから放たれた金属棒の先端が、寸分の狂いもなく、正確に急所を捉えた。それは的確に男のバランスを崩し、後退させる。それは、突き刺すというよりも、一点に集中した「押し」だった。
窓ガラスはすでに限界を超えていた。澄香の最後の踏み込みが加えた力が、男の体重を支えきれなくなった窓枠を押し破る。男の身体は、砕け散ったガラス片と共に、夜の闇へと、まるでスローモーションのように吸い込まれていった。直後に聞こえた、地面に何かが叩きつけられる鈍い音。
静寂が戻った部屋で、澄香は金属棒を握りしめたまま、荒い呼吸を繰り返していた。窓の外から吹く込む冷たい夜風が、汗ばんだ彼女の額を撫でていく。床には、気を失ったミサと、破壊されたドア、そして砕け散ったガラスが散乱している。悪夢のような光景の中心で、澄香はただ一人、立っていた。澄香の視線、そして剣先はまだ、窓の外を向いている。
遠くから、遅れたサイレンの音が聞こえてきた。間に合わないと悟った城崎が手配したものだろう。澄香はようやく、構を解いた。
全て、終わったのだ。
「車を回してくる。ここで待ってろ」
城崎はそう言うと、一人で裏通りへと消えていった。ビルの入り口に残されたのは、澄香とミサの二人だけである。吹き抜ける夜風が火照った頬に冷たく、澄香は無意識に自分の身体を抱きしめていた。ミサはそんな澄香の様子を黙って見つめていたが、やがて静かに口を開く。
「まだ、怖いわね」
それは問いかけではなく、事実の確認だった。澄香がこくりと頷くと、ミサはふふ、と小さく笑った。
「当たり前よ。怖くない方がおかしいわ。でもね、澄香さん。一つだけ覚えておいて。あなたはもう一人じゃない」
その言葉は、先ほど事務所で手渡されたミルクティーのように、温かく澄香の心に染み渡った。一人じゃない。その実感が、恐怖に凍りついていた心をゆっくりと溶かし始めるのがわかる。やがて、通りの向かいに一台の黒いセダンが静かに停車し、運転席の城崎が手招きをしているのが見えた。
「さ、行きましょう。私たちの隠れ家へ」
ミサに促され、澄香は後部座席に乗り込んだ。車は音もなく夜の街を滑り出し、窓の外を流れていく景色にはもう現実感がない。まるで、自分だけが別の次元の物語に入り込んでしまったかのようだった。城崎は何も話さず、ただ前を見据えてハンドルを握っており、バックミラーに映る彼の目は、事務所にいた時と同じ、全てを見透かすような鋭さを湛えていた。
三十分ほど走っただろうか。車は都心から少し離れた、静かな住宅街の一角にある低層マンションの前で停まった。古いが、清潔に保たれている印象の建物だ。
「着いた。ここがセーフハウスだ。しばらくはここで暮らしてもらう」
城崎はエンジンを切ると、先に車を降りた。澄香とミサも後に続く。案内されたのは二階の角部屋で、城崎が鍵を開けてドアを押すと、生活感のない、しかし最低限の家具が整えられた空間が広がっていた。小さなリビングとキッチン、そして奥に二つの寝室。部屋の隅には、細い金属ポールでできた、シンプルなデザインのフロアランプがぽつんと立っている。モデルルームのように無機質だが、追われる身の澄香にとっては、これ以上ないほどの安息の地に思えた。
「さて、まずやるべきことがある」城崎は部屋の中を見渡し、澄香に向き直った。「ご両親のことはどうする。警察沙汰にしたくない以上、心配させずに時間を稼ぐ必要がある」
その言葉に、澄香ははっとした。恐怖と混乱で、両親のことまで頭が回っていなかったのだ。どうしよう、と顔を青くする澄香に、城崎は無表情のまま続けた。
「俺の用意した携帯から電話をかけろ。番号は非通知になる。話す内容はこうだ」彼は澄香の経歴を思い出していた。「中学の時の剣道部の仲間から、急に合宿に誘われた。携帯は練習中に壊れてしまったから、友達のを借りている。しばらく連絡が取れなくなる、とそう言え。声が震えれば怪しまれる。落ち着いて、事務的に伝えろ。できるな?」
澄香はこくりと頷き、震える手で渡された携帯電話を受け取った。剣道の合宿。中学時代に他の学校と合同合宿を行っていた澄香にとって、それはあまりにも自然で、説得力のある嘘だった。コール音が数回鳴った後、母親の心配そうな声が聞こえてくる。
「澄香?今どこにいるの!?」。その声を聞いた瞬間、涙が溢れそうになったが、隣に立つ城崎の冷たい視線を感じ、必死でこらえた。指示された通りの嘘を、なんとか感情を殺して言い切ると、母親は「昔のお友達と会えるなんて良かったじゃない」それは最近の澄香を、おぼろげながら察していた母親の言葉だった。「怪我には気をつけてね」言葉以外の想いが、澄香を支える。
「よし」城崎は携帯を回収すると、次に澄香が持っていたスクールバッグを無言で指さした。澄香はびくりと肩を震わせたが、おとなしくそれを差し出す。城崎はその中から例の拳銃だけを取り出すと、残りの教科書や文房具をベッドの上にぶちまけた。
「これは俺が預かる。お前が持っている必要はない」
その言葉に、澄香は安堵と、ほんの少しの不安を覚えた。あの鉄の塊は、恐怖の象徴であると同時に、唯一の護りでもあったからだ。城崎は澄香の複雑な表情を読み取ったのか、フッと鼻で笑った。
「安心しろ。奴がお前に手を出す前に、俺がカタをつける」
それは無責任な慰めではなく、プロフェッショナルの確約だった。城崎はミサにいくつか指示を与えると、「じゃあな」とだけ言い残し、嵐のように部屋を出て行った。再び静寂が訪れる。残された澄香とミサは、しばらく顔を見合わせていた。
「さて、と。まずはシャワーでも浴びたら?着替えは私が用意してあげる。城崎の置き土産だけど、ないよりはマシでしょ」
ミサはそう言って、クローゼットから大きめのTシャツとスウェットパンツを取り出した。澄香は言われるがまま、バスルームに向かう。温かいシャワーを浴びながら、今日一日で起きた出来事を反芻する。悪夢のような現実。しかし、今はミサがいる。城崎がいる。孤独ではない。その事実だけが、かろうじて澄香の正気を繋ぎとめていた。
その日から、澄香とミサの奇妙な共同生活が始まった。追われる身でありながらも、ミサと過ごす時間は穏やかで、澄香のささくれた心は少しずつ癒されていった。
ある夜、城崎は古い馴染みの情報屋から一本の電話を受けた。
「城崎さん、アンタが探してる男、当たりがついたぜ。右耳に包帯巻いたイカれた野郎が、例の沿線で若い女の写真見せて嗅ぎ回ってるってタレコミがあった。名前は分からねえが、ネットじゃちょっとした有名人らしい。自分の犯行を撮影して、闇サイトで流してるって話だ」
城崎の顔色が変わった。ただの常習痴漢ではない。自己顕示欲と支配欲に満ちた、より悪質で危険なタイプの犯罪者だ。彼は情報屋に礼を言うと、指定された闇サイトへアクセスした。そこには、目を覆いたくなるような光景が広がっていた。数々の盗撮動画と、盗撮だけではない、陰惨な動画。そして、最新の投稿には、こう記されていた。
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「分かったわ。でも、城崎。もう遅いかもしれない」
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「見つけたぞ、ビッチ!!!」
憎悪に満ちた男の咆哮が、電話越しにまで聞こえてきた。受話器の向こうで、ミサの短い悲鳴と、何かが倒れる鈍い音が響く。そして、通信は途切れた。
「クソがッ!」
城崎は携帯を叩きつけるように切り、車のエンジンをかけた。全力でアクセルを踏み込む。だが、ここからセーフハウスまでは、最短でも十五分はかかる。間に合わない。
セーフハウスの中。玄関ドアは無惨に破壊され、あの男が仁王立ちになっていた。右耳は包帯で覆われ、その目は血走り、狂的な光を宿している。手には、金属バットが握られていた。男はゆっくりと、リビングへと足を踏み入れた。その奥の寝室のドアの前に、澄香が立ち尽くしている。顔は恐怖で真っ青になり、全身が小刻みに震えている。
「いい顔だ。その恐怖に歪んだ顔が見たかったんだよ」男は金属バットを弄びながら、悦に入ったように語り始めた。「あの時はよくもやってくれたな。おかげで俺の自慢の耳が台無しだ。そうだ、お前に良いものを見せてやろう」
男はポケットから何か小さなものを取り出し、汚れた指先でつまんで澄香の目の前に突き出した。米粒ほどの大きさの黒いチップ。microSDカードだ。澄香の心臓が氷の塊になった。
「見覚えあるだろ?お前が壊したスマホから、わざわざ取り出してやったんだよ」男は下卑た笑みを浮かべた。「中身はもちろん、最初の凌辱の記録だ。お前がどんな顔で、どんな声を出してたか、全部入ってる。これで、お前は永遠に俺のものだ」
その言葉は、澄香に残されていた最後の希望の欠片を、無慈悲に踏み砕いた。証拠は消えていなかった。自分の最も醜い、屈辱的な瞬間が、この男の手に握られている。
「まずはお前の手足を一本ずつ、このバットで砕いてやる。悲鳴を上げても誰も来ない。それから、この動画を再生しながら、お前が一番感じやすい場所を徹底的に嬲って、無理やりイかせてやる。お前のプライドが完全に壊れるまでな。そして最後は、お前の目の前で、この動画を世界中に配信してやる。お前の名前と学校も付けてな。お前の人生は、今日ここで、俺の手によって終わるんだよ」
絶望が澄香の全身を支配し、視界が白く点滅し始める。全身から、力が抜けていく。
その時。彼女の目に、男の足元に転がる小さな影が映った。ミサだ。リビングの入り口で、額から血を流し、ぴくりとも動かずに倒れている。自分より年下に見える小さな身体で、自分を庇おうとして、この男に突き飛ばされたのだ。
この人が、私を助けてくれた。
この人が、「一人じゃない」と言ってくれた。
この人が、傷つけられた。私のせいで。
脳内で、何かが焼き切れる音がした。恐怖を、絶望を、上回る熱い何かが腹の底から突き上げてくる。それは、自分を癒してくれた唯一の存在を守らなければならないという、原始的で、絶対的な衝動だった。
男が満足げにバットを振り上げた、その瞬間。澄香の脳裏に、ミサの言葉が稲妻のように蘇った。
『あなたの身体は、それを知っているはずよ。恐怖に蓋をされているだけで、忘れてはいない』
そうだ。忘れてなんかいない。澄香の目の色が変わった。恐怖に汚染されていた意識が急速に沈殿し、代わりに水面のように静かで冷たい集中力が浮かび上がってくる。目の前の男が、竹刀を構えた対戦相手の姿と重なった。振り下ろされるバットの軌道。速度。タイミング。全てが、研ぎ澄まされた感覚の中に吸い込まれていく。男が勝利を確信し、大上段にバットを振りかぶった、その最大の一瞬。
澄香は、後ずさりするのではなく、逆に一歩、鋭く踏み込んだ。それは、剣道における「入り身」の動きそのものだった。男の懐、攻撃の死角へ。空振りしたバットの勢いで、男の体勢がわずかに崩れる。その一瞬の隙(すき)を、澄香は見逃さなかった。彼女は部屋の隅に立っていた、あの金属製のフロアランプを右手で掴むと、シェードの部分を床に叩きつけて引きちぎった。残ったのは、人の身長ほどの長さの、頑丈な金属の棒。竹刀よりも重く、冷たい感触が、彼女の掌に封印していた闘争本能を呼び覚ます。
「なっ…!?」
予想外の抵抗に、男の顔に驚愕の色が浮かぶ。だが、もう遅い。澄香は、その金属棒を両手で握り締め、剣道の正眼の構えを取った。切っ先を、男の中心へ。彼女の思考から、恐怖も絶望も消えていた。ただ、倒れているミサと、目の前の敵を隔てる。その一点を守り抜くという、剣士としての純粋な意志だけが漲っていた。
「ああああっ!」
裂帛の気合いの叫びは、恐怖の悲鳴ではなかった。丹田から絞り出された、守るべき者のために発する咆哮だった。澄香は床を蹴った。腰の突きだし、腕の伸び、踏み込み足、全てが連動した完璧な「体当たり」に近い胸突き。金属棒はしなることなく、澄香の全身の勢いを乗せて、男の水月に突き刺さった。「ゴッ!」という骨と肉を打つ鈍い衝撃音と共に、男の巨体は鞠のように弾き飛ばされた。
「が、はっ…!」
人体の急所を突かれた男は息もできず、数メートルをなすすべもなく後退し、背中からリビングの大きな窓ガラスに叩きつけられた。バリケードが崩れるような派手な音を立てて、ガラス全面に亀裂が走る。男は衝撃で呼吸もままならず、蜘蛛の巣状に砕けたガラスに背を預けたまま、苦悶の表情でその場に崩れ落ちそうになった。
中学までの剣道経験しかない澄香は、突きを習っていない。だがそれは、澄香が必要に応じて繰り出した技だった。
澄香は攻めを緩めなかった。好機を逃せば、次は無い。一撃で崩した相手の体勢を立て直させない。それは剣道における鉄則だった。彼女の身体は、思考よりも速く、次の動作に移っていた。男が体勢を立て直すよりも早く、彼女はさらに一歩深く踏み込む。
二度目の突き。それはもう、相手を押し込むための一撃ではなかった。崩れた体勢の中心、がら空きになった胸元へ。澄香の構えから放たれた金属棒の先端が、寸分の狂いもなく、正確に急所を捉えた。それは的確に男のバランスを崩し、後退させる。それは、突き刺すというよりも、一点に集中した「押し」だった。
窓ガラスはすでに限界を超えていた。澄香の最後の踏み込みが加えた力が、男の体重を支えきれなくなった窓枠を押し破る。男の身体は、砕け散ったガラス片と共に、夜の闇へと、まるでスローモーションのように吸い込まれていった。直後に聞こえた、地面に何かが叩きつけられる鈍い音。
静寂が戻った部屋で、澄香は金属棒を握りしめたまま、荒い呼吸を繰り返していた。窓の外から吹く込む冷たい夜風が、汗ばんだ彼女の額を撫でていく。床には、気を失ったミサと、破壊されたドア、そして砕け散ったガラスが散乱している。悪夢のような光景の中心で、澄香はただ一人、立っていた。澄香の視線、そして剣先はまだ、窓の外を向いている。
遠くから、遅れたサイレンの音が聞こえてきた。間に合わないと悟った城崎が手配したものだろう。澄香はようやく、構を解いた。
全て、終わったのだ。
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