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女王蟻のパルヒュム

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どのくらいの時間が経っただろうか。
頭痛薬の副作用による眠気に襲われて、しばらく病室で寝ていたのだけれど… 頭痛の痛みと薬による眠気が治まって目覚めた頃には、既に日が落ちて随分経っているようだった。

「セバスチャンに連絡しないと… きっと心配してる」

廊下に出ると、そこは人気なく静まり返っていた。診療時間はとっくに過ぎて、見舞客もいない。思っていたよりも長く寝てしまっていたようだ。就寝時間も過ぎて、入院患者たちも寝息以外の音は何も聞こえなかった。

その廊下は、月明かりによって青白く光っており、非常灯の赤いランプが不気味に灯っていた。どうやってこの病室に運ばれたのかも覚えていない。出口がどこなのか、当直のドクターやナースがどこにいるのか見当もつかなかった。

「あの…」

少し声を張り上げた私の声は、少しの反響と共に廊下の闇へと吸い込まれていく… 病院の見知らぬ場所で1人迷子になっていた私は、心細くて思わず速足で歩き始めた。

そんな私をどこまでも追いかけて来る私自身の黒い影、その気配が気になって不意に振り返った目線の先に私は見てしまったのだった。

月明かりの逆光に照らされ、ナイフを片手に持った男の黒いシルエットを…

その男は、微動だにせず… じっとこちらを見つめていた。足がすくみ、思わずその場に立ちずさんでしまっている私に、そのシルエットは徐々に歩み寄ってくる。

「…誰?」

強張る体を奮い立たせ、震える声を絞り出したけれど、シルエットの男は、無言のままだった。

「ドクター・モートン?」

レストレード警部から聞かされている容疑者たちの内、まだ直接会えていない人は2人だけ。その内の1人がウィリアム・モートン、この病院に勤める法医学医だった。ドクターモートンには、和戸くんが聞き込みに行ってくれていたはずだったけれど… そう言えば、和戸くんはそれからどうしたのだろう。ドクターモートンに聞き込みをして、無事に帰宅したのだろうか? それとも…

嫌な予感ばかりが次から次へと襲い掛かってくる。


ここは、診療時間を過ぎた入院病棟のどこかのはず… ということは、この時間に病棟に出入りできる人は限られているはずだった。ということは、もう1人の容疑者である、ロンドンのギャング組織に属するハーキュリーズ・ブラックウッドである可能性は少ない。となれば…

「ドクター・モートンですか? 私は、ヒカリ。ヒカリ・エヴァンスハムです」

そう言って鎌をかけてみたが、それにも返答はなかった。
男が徐々に迫り、走れば間違いなく追いつかれるであろう距離に差し掛かると、私は下を向いて必死に走り始めた。

追ってくる足音は聞こえない。それでも振り返る度胸はなく、必死に廊下を走り、階段を駆け下り、また長い廊下を走り、切り裂きジャックをまいて逃げ切ろうと無我夢中で走り抜けて行った。

すると、ドンッ! と誰かにぶつかった衝撃を感じると同時、白衣の腕に抱き止められた。ハッとして見上げると、私を胸に抱いているその男の顔が間近に見えた。その人物は、寸前まで自分を追いかけて来ていると思っていた法医学医の男、ドクターモートンだった。

この男から、必死になって逃げている内に… 元の場所へ戻って来てしまったのかと思い、顔面蒼白になりながら慌てて腕を振り払おうとしたが、モートンは振り払えないくらいに力強く私のことを抱え込んでいた。

「放してっ!」

そう言って暴れても、この男の腕力の前では無駄な抵抗だった。どちらかと言えば細見な体格で不健康そうなこの男のどこにこんな力があるのかと不思議にも思った。

「くんくんくん… いい匂いだ…」

「何する気!?」

「過去最高の香りをしていた先ほどの助手くんよりも、各段にセロトニンが分泌されていく… 実にまろやかで芳醇。至上の香り… アソコがソソリ立ってくるのを感じる。なんと、艶かしい香りなのだろうか…」

「放してったら!」

そう言って、強引に腕を振り払い、距離を取ると… 彼の手にナイフが握られていないことに気付いた。

「くんくんくん…」

ドクターモートンは、それでも気に介すことなく首筋に付くかという距離に鼻を近づけ、私の匂いを執拗に嗅ぎ続けた。

「何を… してるんですか…?」

「匂いを嗅いでいる」

「匂い… どうして?」

「キミもその質問をするのか。こんな特別な匂いをしているのに案外、思考は普通なのかな」

「………」

「要するに、匂い物質は鼻腔最上部の嗅上皮と呼ばれる特別な粘膜に溶け込み感知される。すると、嗅上皮にある嗅細胞が電気信号を発生して、電気信号が嗅神経、嗅球、大脳辺縁系へと伝達し、匂い感覚が起きるんだ。だから匂いを嗅いでる」

「えっと、あの… 私が訊いたのは、どのようにして匂いを嗅いでいるのかではなく… なぜ、私の匂いを嗅いでるのかということなんですけど…」


「香りを嗅ぐことで、脳の中枢部にある大脳辺縁系が匂いの情報を判断し、感情や記憶を呼び起こし、香りの情報は、内分泌系や自律神経系を司る視床下部や下垂体にも伝わるため、フェロモンの分泌が促進される。つまり、匂いで人のフェロモンは自動的に分泌される。本人の意志に関わらず」

「それが… なぜ、私の匂いを嗅いでいるかという質問に対する答え?」

「そう、キミのフェロモンには特別な何かを感じる。ぜひ、キミの匂いを取らせて欲しい」

ドクターモートンは、そう言うと白衣のポケットから小さなビニール袋を取り出し、その中に入っているピンセットと脱脂綿で私の首筋を拭った。

「ひゃっ!」

断るよりも前に問答無用で私の匂いを盗み取ると、ドクターモートンは不気味に微笑みながら廊下の闇の中へとその姿を消していったのでした────
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