死ねない死者は夜に生きる

霜月透子

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ランコはサキとの出会いを語る

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 薄月夜のことだった。
 満月を過ぎたばかりで、次の狩りまでは特にすることもなく、相も変わらず時を持て余していた。

 ランコはあてもなく夜の浜辺をそぞろ歩く。夏の頃は夜でも人がいることも少なくなかったが、秋風が吹く頃には訪れる人はいなくなった。

 空一面の薄雲は月の明かりをかすかに映すのみで、星さえ見えなかった。代わりに瞬くのは、湾の向こうの小さな明かり。地名さえ知らない町だ。

 終わりのない時を過ごすのなら、ほかの土地に行ってみるのも悪くはないかと思ってみたりもする。海の向こうでありながらすぐ目の前にあるようにも見え、なんとはなしに手を伸ばしてみたが、当然掴めるはずもない。なにも掴み取れなかった手を広げれば、ごわついた皮膚が見えた。

 波音が力強く打ち寄せる。

 ランコにはなにも得ることができず、なにも捨てることができない。気が遠くなる。しかし、その遠のいた気よりもさらに遠い日々がランコを待っているのだった。

 風が鳴る。

 間を置かずして、波音に乱れが生じた。
 音は磯の方で聞こえた。魚でも跳ねたのだろうか。
 砂浜と続く岩場を見やる。波間から棒状のものがまっすぐ空に向けて突き出されている。淡い月明かりにも白く光る。ランコはその美しさに惹かれた。導かれるように磯へと向かう。視線は海面に向けたまま。それは黒い波間に消えたり現れたりと繰り返す。そして、沈んだきり浮かんでこなくなった。

 とっさにランコは走った。それから、黒い海に飛び込むと、白光していたなにかを探した。探し出した。人だった。生ける者だ。抱えて浮上する。

 ――事故か。自死か。

 事故ならば、還りし者となって、新たな生ける者として生を受ける。だが、自死だとしたら、死せる者として過ごした後に還りし者と同じ道を辿る。いずれにしても、このままならばヒガンを通り過ぎるだけの命だ。


 ランコはサキの顔を見られなかった。

「……の?」

 サキのかすれた声の語尾だけが耳に届いた。反射的にサキを見た。サキは床をにらみつけていて、ランコのことなど見る気もなさそうだった。

「え? 聞き取れなかった。もう一度、」
「どうして私を死なせたの! 見殺しにするなんて!」
「違う。そっちは私のせいじゃない。辿り着いた時にはもう息がなかったんだ」
「待って。……そっちは、ってどういうこと?」
「あ、いや……」

あの夜を思い出し自責の念に駆られていたところだったから、思わずそんな言い方をしてしまった。

「死んだのはランコのせいじゃないというのなら、他のなにかはランコのせいだというの?」
「サキ。まだ言ってないことがある」

 ランコは早くも悔やんでいた。やはり秘しておくべきだった。永遠にランコの記憶だけに留めておけばよかったのだ。甘かった。心のどこかで、サキは今さら過ぎたことにこだわったりはしないはずだと決めつけていた。

 今となっては、なぜそんなふうに思っていたのか自分でもわからない。
 たぶん、慕われていると感じていたのだ。だからすべて告白し、懺悔し、赦されたかった。自分が楽になるためだけに。
 浮かれ、舞い上がっていたのだ。永い孤独から解放されたことに。
 すべてがうまくいっていると思ってしまったのだ。サキと過ごすようになってからは、夜の世界が古い記憶の中の昼の世界のように煌めいていたのだ。

「ランコ。話して」

 サキの声が冷たく射る。
 ランコは頷き、首を垂れたまま口を開いた。

「……死者のみで構成されるこのヒガンにあっても、死んだばかりの者と行き合う機会など皆無に等しい。このまま行かせてはならない気がした。……いや、正直に言おう。側に置きたかったのだ。ひとりきりで永遠をゆくのは苦しすぎた」

 こんな絶好のタイミングに出会う機会は滅多にない。新鮮な死。何者でもないひととき。生と死のあわい
 ランコはひと思いに齧りついた。今宵は満月で狩りの夜ではあるが、食欲はない。それでも常より長く白い首筋に歯を立て続けた。
 そして、我が身より大きな体を背負って、ねぐらである別荘へと帰って行ったのだ。

「……私は、死んでいたのよね?」
「あ、ああ。抱き上げた時には、もう」
「それって……死んでから狩られるってことは、つまり……」
「そうだ。いつまで経っても還りし者にはなれない。……私と、同じだ」

 ついに告げた。
 サキを失うであろう不安や恐怖と同時に、ずっと抱えていた後ろめたさが解消されて爽快な気分にもなっていた。

 サキは静かにうなだれていた。だからといって、サキが冷静に受け止めたと判断してはならないことくらい、ランコにもわかっている。

「……いって」
「え?」
「出て行ってよ! 私には外に出るなって言ったんだから、ランコの方が出て行ってよ!」

 咲は床に向かって泣き叫んでいる。
 泣く――いや、泣くことなどできやしない。声を詰まらせているだけだ。死せる者は一切の排泄をしない。体は生命活動をしていないのだから。当然、咲の顔の下の床に涙の跡がつくことはない。それでも泣いているように見えた。

 もう一つの話をまだ伝えていなかったが、ランコは静かに部屋を後にした。

 それからも別荘にサキのいる気配はあったが、その日以降、ふたりが顔を合わせることはなかった。
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